「清教徒(せいきょうと)革命」は、イギリスの歴史における重要な出来事の一つです。革命の背景に登場する文書が憲法の一部分となるほど、現代のイギリスにも大きな影響を与えました。ここでは、清教徒革命が起こった理由や中心人物について解説し、おすすめの本も紹介します。
清教徒革命とは
清教徒革命は、広義には1639~60年のイギリスで起きた市民革命です。別名「ピューリタン革命」とも呼ばれます。まずは、この革命が起こった背景や理由について見てみましょう。
そもそも清教徒ってどんな人たちのこと?
「清教徒」とは、16~17世紀のイギリス・プロテスタントの一派で、宗教改革を強く主張した人たちの総称です。英語の「ピューリタン(Puritan)」の和訳が「清教徒」となります。
イギリスで「ピューリタン」という言葉が作られたのは、16世紀半ばでした。最初は、異端的な分派「カタリ派」を暗示する蔑称(べっしょう)として用いられたといわれています。ピューリタンは、清教徒革命が起こった17世紀には議会側の中核を担っていました。
1660年にチャールズ2世による王政が復活すると、政治的な力を失った清教徒は歴史の表舞台から姿を消します。一部の清教徒はアメリカに移住し、のちのプロテスタントの信仰に影響を及ぼしました。
革命はなぜ起きた?
イギリスで清教徒革命が起きた理由は、当時の絶対王政への不満です。
17世紀初めに即位したジェームズ1世は、「神から授けられた権力は絶対である」とする王権神授説をもとに、絶対王政を正当化しました。イギリス国教会への信仰を強制したため、清教徒たちはジェームズ1世に反感を抱きはじめます。
革命が起こったのは、ジェームズ1世の息子、チャールズ1世の時代です。1628年、議会による「権利の請願」の訴えを退け、父の専制政治をさらに強化したことで、清教徒は反発を強めました。権利の請願の内容は、主に、議会を通さない国王の独断での課税や投獄(とうごく)などをやめるよう求めたものです。
チャールズ1世が訴えを無視し、専制政治をさらに推し進めたことで、国内の不満が大きくなっていきます。
また、続く39年と40年のスコットランドの反乱を抑えることができず、その戦争費用のために招集した議会で王党派と議会派の対立がさらに深刻になり、42年、清教徒革命が勃発(ぼっぱつ)し、大規模な内戦につながったのです。
名誉革命と合わせてイギリス革命と呼ばれる
1688~89年に起こった「名誉革命」と清教徒革命は、合わせて「イギリス革命」と呼ばれます。イギリスの近代市民社会が確立されたことこそ、イギリス革命の功績です。
60年に即位したチャールズ2世は、清教徒革命以前の絶対王政を復活させるため、議会と対立しました。
チャールズ2世の弟でカトリック教徒だったジェームズ2世が即位すると、プロテスタントの大臣が次々に罷免(ひめん)されていきます。これに反発した議会は、オランダに嫁いだジェームズ2世の娘、メアリとその夫をイギリス国王として招き入れるためのクーデターを起こしました。
ジェームズ2世が亡命したあと、メアリ夫妻の共同統治が実現します。王権に対して議会を優位とすることなどを宣言した「権利宣言」を両王が承認し、「権利章典」として公布することで立憲君主制を実現させました。これが名誉革命です。
革命の中心人物
清教徒革命の中心人物は「クロムウェル」と「チャールズ1世」の2人です。清教徒革命前後の2人がどのような人物だったのか、詳しく見ていきましょう。
革命を主導した人物クロムウェル
オリバー・クロムウェルは、清教徒革命の主導者です。イングランドに生まれ、1628年に庶民院の議員になりました。
絶対王政に耐えかねた議会派と王党派の対立が本格化した42年、クロムウェルは「鉄騎隊(てっきたい)」と呼ばれる部隊を結成し、清教徒たちを率いて戦います。49年にチャールズ1世が処刑されたあと、クロムウェルは「イングランド共和国」を成立させました。
共和政のもとで独裁体制を築くと、今度は自身が議会と対立してしまいます。53年に議会を解散させたクロムウェルは、最高統治権を持つ「護国卿(ごこくきょう)」に就任しました。
軍事的な独裁を続けることにより、民衆の支持を失ったクロムウェルは、政治の混乱を抑えられないまま58年、病に倒れ、亡くなります。彼の独裁体制への反発が、60年の王政復古を招きました。
専制政治を行っていたチャールズ1世
1625年、父王・ジェームズ1世を継いだチャールズ1世は、先王の専制政治をさらに強化しました。悪政への抗議文である「権利請願」を無視した王は、以後、11年間にわたり専制政治を続けました。
チャールズ1世は、1639年にスコットランドで起きた反乱の鎮圧に失敗します。これによって賠償金が発生したため、彼は53年まで続く長期会議を招集しました。
長期会議でクロムウェルらによる王政批判をきっかけに、議会派と王党派に議会が分裂します。自身に反発する議会派を42年に独断で逮捕したことから、両派の争いが全土に発展し、清教徒革命になります。
身の危険を感じて一度はロンドンから脱出したものの、革命による戦いに敗れ、49年に裁判にかけられたチャールズ1世は、暴君・反逆者として処刑されました。
さらに詳しく学べるおすすめの本
要点をまとめたものから細部に踏み込んだものまで、清教徒革命について書かれた本は数多くあります。歴史的な背景を知り、さらに詳しく清教徒革命を学びましょう。
ここでは、その中でおすすめの本を2冊、紹介します。
大英帝国への道のりが分かる「物語イギリスの歴史(下)-清教徒・名誉革命からエリザベス2世まで」君塚直隆
「物語イギリスの歴史(下)-清教徒・名誉革命からエリザベス2世まで」は、イギリス史をまとめた本の下巻です。イギリス革命はもちろん、産業革命や大戦期、戦後のイギリスについても学べます。
持ち運びしやすい新書判で、通勤・通学時の読書にも便利です。
イギリスの歴史をコンパクトに「イギリスの歴史が2時間でわかる本」歴史の謎を探る会
「イギリスの歴史が2時間でわかる本」は、要点を絞ってイギリス通史を学べる1冊です。清教徒革命と名誉革命についても、二つ合わせて約10ページでまとめられています。
市民革命の時代だけでなくイギリス全体の歴史を知りたい人や、じっくり読書する時間がなく要点を学びたい人におすすめです。
清教徒革命は共和制を勝ち取った市民革命
清教徒(ピューリタン)はプロテスタントの一派で、チャールズ1世の専制政治に反発したピューリタンによる内戦が清教徒革命です。主導者・クロムウェルによって共和制を勝ち取ったものの、彼の死後、数年してイギリスは王政復古します。それ以降の専制政治への回帰が再び議会との対立を招き、名誉革命のきっかけとなりました。
清教徒革命やその後の王政復活、名誉革命も併せて学び、イギリスの共和制や立憲君主制が実現した歴史への理解を深めましょう。
構成・文/HugKum編集部