名誉革命とは?
名誉革命は、誰が、何に対して、起こした革命なのでしょうか。「名誉」と名付けられた理由も、あわせて解説します。
1688年に、イギリスで起こった市民革命
「名誉革命」は、1688年に、イギリスの議会が国王ジェームズ2世を追放し、外国から新しい国王を迎えて政治体制を刷新した事件です。
この時代のイギリスでは、市民階級が力をつけており、名誉革命の数十年前には、国王が処刑される「ピューリタン革命」が起きています(広義には、1640~60の王政復古までを指す)。その後、1685年に王位を継承したジェームズ2世も、議会や国民の反発を招いて、ついに国王の座を追われてしまったのです。
ピューリタン革命から名誉革命までの、市民階級が王政を打倒した一連の出来事を、あわせて「イギリス革命」と呼んでいます。
名誉革命の流れ
名誉革命で、王位を追われたジェームズ2世は、ピューリタン革命で処刑されたチャールズ1世の息子です。
プロテスタントのイギリス国教会が主流のイギリスで、父の死後、フランスに亡命したジェームズ2世と、ポルトガル王女と結婚していた兄のチャールズ2世は、このときはカトリックに改宗していました。
イギリスでは、少数派のカトリックの王として即位したジェームズ2世は、軍隊を我がものとして「反対勢力」を厳しく弾圧すると同時に、カトリック教徒を、国の要職に就けるなど専制的な政治を断行します。
跡継ぎの息子にも、カトリックの洗礼を受けさせ、イギリスのカトリック化を、さらに進めようとしました。
危機感を覚えた反カトリック派は、団結して、国王の追放に動き出します。イギリス議会は、ジェームズ2世の娘・メアリーが嫁いでいる、プロテスタントの国オランダに救援を求めました。
メアリーと夫のウィリアムは、要請に応じ、大軍を率いてイギリスに上陸します。ジェームズ2世はあっけなく敗れ、国外に逃亡しました。
その後、メアリーとウィリアムの2人が共同統治者として即位し、議会の権利を保障して革命は終わります。
「名誉」と呼ばれる理由
名誉革命は、外国から軍隊が派遣されるほどの大事件でしたが、大きな混乱は起こらず、死傷者もほとんど出さずに終わりました。ジェームズ2世も追放されただけで、処刑されたわけではありません。
同じ国民同士が争い、多くの死傷者を出したピューリタン革命の記憶が残るなか、無血で終わったことは非常に「名誉」と考えられました。
また、革命による不当な人権の侵害もなく、宗教および政治の意見の対立を平和的に解決した点も評価されています。
名誉革命の背景には何があった?
名誉革命が起こる前から、イギリスの絶対王政は、揺らぎはじめていました。革命が起こった時代背景を見ていきましょう。
王政復古
ピューリタン革命で、チャールズ1世が処刑され、王政は一度、途絶えました。イギリスは共和制となり、ピューリタンのクロムウェルが政治の実権を握ります。
ピューリタンとは、プロテスタントのカルヴァン派の人々のことで、聖書に基づく厳格な生き方を理想としていました。クロムウェルは、国民にピューリタンの理想を押しつけ、禁欲的な生活を強制したために、彼らの不興を買ってしまいます。
そこで議会は、亡命中の王子を呼び戻し、王政を復活させます。「王政復古」に際して、チャールズ2世は、ピューリタン革命の関係者を許すことや、信仰の自由を認めることなど、議会と和解する四つの約束ごとを宣言しました。
しかし実際には、父を死に追いやった裁判官に報復したり、カトリックを擁護したりしたために、王と議会は、再び対立することになります。
ジェームズ2世の代に、対立は決定的となり、名誉革命へとつながっていくのです。
ピューリタン革命
ピューリタン革命は、1642~49年に起こった内乱で、「清教徒(せいきょうと)革命」とも呼ばれています。
14世紀以降、イギリスでは「ジェントリ」と呼ばれる地主や、「ヨーマン」と呼ばれる独立農民が台頭します。彼らが信仰したのが、イギリス国教会に批判的な立場のカルヴァン派でした。
ところが、時の国王ジェームズ1世は「王権神授説」を主張して、ピューリタンを弾圧します。息子のチャールズ1世は、専制政治をさらに強化し、議会すらも解散させてしまいました。
チャールズ1世が、ピューリタンの多いスコットランドに、イギリス国教会の信仰を強制したことで、反乱が起こります。鎮圧に失敗した王は、賠償金の支払いのため議会を招集しますが、王党派と新興勢力・議会派の間で対立が起こり、内乱に発展しました。
内乱を制したのは、議会派のなかでも「独立派」を指揮していたオリバー・クロムウェルです。彼が、49年にチャールズ1世を処刑して革命は終了し、共和制を始めました。
名誉革命の影響で起きたことは?
名誉革命は、その後のイギリスをはじめ、ヨーロッパ各国の歴史にどのような影響を与えたのでしょうか。革命後の動きを簡単に解説します。
「権利の章典」が成立
名誉革命で呼ばれたジェームズ2世の娘、メアリーの夫であるウィリアムは、オランダの総督でした。オランダはプロテスタントの国なので、カトリックの国王を倒すことに異存はありません。
しかし、軍を率いて攻め込む行為は、侵略戦争と受け取られる恐れがあります。
そこでウィリアムは、イギリス議会に対して、出兵はあくまでもカトリックを排除するためのもので、ウィリアムが王になった後も、議会の権利や国民の自由を保障すると約束しました。
革命が成功し、新国王となったメアリーとウィリアムは、約束通り、議会が提出した「権利の章典」に署名します。「権利の章典」の成立によって、国王は君臨するが統治はしない「立憲君主制」が始まりました。
大同盟戦争へ
「大同盟戦争」とは、1688~97年にかけて起こった、フランス対ヨーロッパ諸国の争いです。フランスは当時、最強の軍事力を誇り、各方面へ侵攻していました。
フランスの侵攻に手を焼いていたドイツ・スペイン・オランダ・スウェーデンなどは、同盟を結成し、フランスに対抗します。
オランダの総督だったウィリアム率いるイギリスも、名誉革命の直後から同盟に加わることになったのです。
イギリスの基礎をつくった名誉革命
名誉革命で成立した「権利の章典」は、イギリスの基本法の一つとして、現在でも有効です。立憲君主制を守ることで、国王の意向で個人の信仰や仕事が制限されることはなくなり、イギリスは近代国家へ生まれ変わっていきました。
日本も明治維新のときに、イギリスを見習って、立憲君主制を採用しています。名誉革命はイギリスの基礎をつくっただけでなく、はるか後の世に、遠い日本の政治にまで影響を与えたのです。
このような歴史のめぐり合わせを、子どもと一緒に楽しみながら学んでいきましょう。
理解を深めるおすすめ参考図書
小学館版 学習まんが 世界の歴史9「絶対王政」
歴史教科書で有名な山川出版社の編集協力を得て誕生した「学習まんが世界の歴史」。9巻では、ヨーロッパで絶対王政が敷かれていく時代を扱っています。16世紀にはじまるエリザベス女王治世のイギリス、ブルボン王朝最盛期のフランス、啓蒙君主として大国へと成長していくロシア帝国など、ヨーロッパ史のハイライトシーンが迫力満点の漫画で展開します。
小学館版 学習まんが 世界の歴史10「イギリスとフランスの革命」
「学習まんが世界の歴史」のこの10巻では、上の9巻で扱った絶対王政の時代を経て、イギリスやフランスが市民革命へと突入していく時代が描かれます。この記事で扱った17世紀のピューリタン革命から王政復古をはさんで名誉革命までの流れがドラマチックに展開。また同時代の、マリーアントワネットの処刑で知られるフランス革命についても章をあらためて取りあげています。
中公新書「物語 イギリスの歴史(下)清教徒・名誉革命からエリザベス2世まで」
各国の歴史から重要な人物やエピソードを章ごとにとりあげ、全体で一国の通史となる構成のシリーズ。イギリスを扱った上下2巻のうち下巻は、いよいよ市民革命の幕開けから。17世紀のピューリタン・名誉革命を経て、18世紀の産業革命と議院内閣制の確立、19世紀のヴィクトリア女王時代の繫栄と20世紀の二つの大戦を経て、サッチャー、ブレアが登場する現代までを扱っています。
構成・文/HugKum編集部