鎌倉幕府を開いた源頼朝ってどんな人? 波乱に満ちた生涯や人物像を解説【親子で歴史を学ぶ】

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源頼朝が鎌倉に幕府を開いたときから、日本では武士が政治を行う時代が長く続きます。国の政治のあり方を大きく変えた頼朝とは、どのような人物だったのでしょうか。頼朝の生涯や武士のリーダーとなった経緯、意外な人物像に迫ります。
<上画像は、源氏山公園(神奈川県鎌倉市)の源頼朝像>

源頼朝の生涯をおさらい

源頼朝(みなもとのよりとも)」が鎌倉に幕府を開くまでには、さまざまな出来事がありました。幼少期から晩年まで、頼朝の生涯を見ていきましょう。

恵まれた幼少期から流人へ転落

頼朝は1147(久安3)年に、尾張(おわり、現在の愛知県西部)で源義朝(よしとも)の三男として生まれます。

母親が義朝の正室だったことから、頼朝は嫡子(ちゃくし、家督を継ぐ存在)として扱われ、英才教育を受けて育ちました。

皇位継承問題がきっかけで起こった「保元(ほうげん)の乱」(1156)に勝利した父とともに、頼朝も12歳から朝廷に出仕してエリートコースを歩みます。

ところが、頼朝が13歳のとき、父・義朝が、ライバルの平清盛(きよもり)と戦って大敗を喫します。「平治(へいじ)の乱」(1159)と呼ばれるこの戦いは、頼朝にとっての初陣でもありました。

頼朝は敗走中に捕らえられ、清盛の裁きによって都から遠く離れた伊豆(いず)に流されてしまうのです。

平家打倒に立ち上がる

エリートから一転して流人(るにん)となった頼朝は、伊豆で学問に打ち込みながら、一族の無念を晴らす機会をうかがいます。

流人とはいえ、源氏の御曹司で、朝廷で官位も賜っていた頼朝は、近隣の豪族たちに一目置かれる存在でした。

やがて頼朝の周りには、平家の支配に不満を持つ豪族が集まりはじめます。1180(治承4)年に、後白河(ごしらかわ)上皇の皇子「以仁王(もちひとおう)」が発した令旨(りょうじ)を受け取ると、頼朝はついに平家打倒を目指して挙兵します。

平治の乱で生き別れた弟・範頼(のりより)や義経(よしつね)も頼朝の元に駆け付け、ともに戦いました。

武家政権の基礎をつくる

平家を滅ぼした後、頼朝は自身の命(めい)に反したふるまいをした弟の義経や、義経をかくまった奥州藤原氏の討伐に乗り出します。同時に鎌倉を拠点として、武家による統治体制を着々と整えていきました。

願成就院(がんじょうじゅいん)「大御堂」(静岡県伊豆の国市)。「吾妻鏡」によると、1189(文治5)年に北条時政が、頼朝の奥州平泉討伐の戦勝祈願のために建立。全盛期は、壮大な伽藍を誇る大寺院だった。北条早雲動乱、豊臣秀吉小田原征伐と二度にわたる戦乱でいずれも全焼した。江戸時代の1789(寛政元)年、北条氏貞による再建当時のまま、ほぼ現代に至っている。大御堂に安置されている仏像5体は、国宝。

 

まずは、全国に「守護(しゅご)」と「地頭(じとう)」を設置することを朝廷に認めさせ、武士が土地を管理する権限を手に入れます。さらに行政機関として、軍事や警察活動を担う「侍所(さむらいどころ)」・行政を担う「政所(まんどころ)」・裁判を担う「問注所(もんちゅうじょ)」を鎌倉に設けました(1184)。

頼朝が数年がかりでつくり上げた、武士による統治の仕組みは、後に「鎌倉幕府」と呼ばれます(1185)。

謎に包まれた最期

1192(建久3)年、頼朝は朝廷から武家の最高位「征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)」に任命されます。鎌倉幕府の成立を1192年とする考え方は、ここから生まれたものです。現在では、鎌倉幕府は、いくつかの段階を経て成立したものと考えられており、成立年には複数の説があります。

苦労の末に武家政権を築き上げた頼朝でしたが、1199(建久10)年に突然、亡くなってしまいます。

頼朝の死因については、なぜかはっきりした記録が残っていません。落馬で負った怪我がもとで亡くなったとする説や暗殺説などが伝わっているものの、いずれも信憑性に欠け、最期の様子は謎に包まれたままです。

白旗神社「源頼朝の墓所」(神奈川県鎌倉市)。1198(建久9)年12月27日、頼朝は相模川橋供養の帰途、稲村ケ崎で落馬。その落馬が原因で、翌年亡くなったという。詳細は謎のまま。大倉法華堂(現白旗神社)に葬られたが、現在の墓は、江戸時代に島津氏によって建てられたもの。

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武士の心をつかんだ源頼朝の戦略

源頼朝は「平治の乱」ですべてを失い、長い流人生活を強いられます。生活に不自由はしなかったものの、領地や家臣を持つことは許されませんでした。

そんな自分の軍隊を持たない頼朝が、天下を取れた理由を見ていきましょう。

働きに応じて土地を与えることを約束

頼朝が伊豆で挙兵したとき、関東の豪族の多くは平家の力を恐れ、頼朝に味方することをためらっていました。なかには頼朝の首を取り、平家に差し出そうとする豪族もいたのです。

そこで頼朝は、豪族が持つ土地に目を付けます。当時は、全国各地で平家が送り込んだ代官が、豪族が所有する土地で搾取(さくしゅ)を繰り返していました。

頼朝は豪族たちに、自分に味方してくれたら土地の支配権を安堵(あんど。保証の意)することを約束します。さらに、戦いで手柄をあげた者には、敵から奪った土地を与えるとも告げるのです。

「平家を倒し、新しい土地を手に入れよう」と呼びかけた頼朝の作戦は、見事に当たります。

公平な態度を貫く

頼朝は、自分が豪族たちに支えられていることを十分に自覚していました。

彼らは、御家人として頼朝に従う立場でしたが、頼朝もまた、御家人の力を借りなければ勢力を維持することは難しかったのです。

このため頼朝は、すべての御家人に対して公平な態度を貫きます。1人1人の顔と名前を覚えていて、勢力の強さにかかわらず対等に扱いました。

頼朝はさらに、身内に対しても同じ姿勢で接します。平家との戦いで活躍した義経を排除したのも、義経の言動が御家人たちの結束を乱す可能性があったからです。

当時、頼朝は御家人が朝廷から無断で官位をもらうことを禁じていました。しかし、義経はこのルールを無視して朝廷に近付き、官位を受けてしまったのです。

そのまま放置すれば、頼朝は御家人からの信頼を失う恐れがありました。身内にも容赦せず、毅然と対応する頼朝の覚悟が、御家人たちの心をつかんだといえるでしょう。

意外に知らない、源頼朝の戦歴

源頼朝は、れっきとした武将ですが、戦(いくさ)にはほとんど出ていません。頼朝が出陣した記録が残っている、三つの戦いを紹介します。

1180年8月「石橋山の戦い」

石橋山(いしばしやま)の戦いは、頼朝が伊豆で挙兵した直後に起こった戦闘です。石橋山は、現在の神奈川県小田原市南部にある山のことです。

頼朝は手始めに、伊豆を支配する平家方の代官を討ち取ります。その後は石橋山に布陣して、三浦氏の軍勢を待っていました。

しかし、大雨による川の増水で三浦氏の軍勢は足止めされてしまいます。頼朝追討の命を受けた平家方の武将・大庭景親(おおばかげちか)は、三浦軍が合流する前に決着を付けようと考え、頼朝軍の10倍の人数で攻撃を仕掛けました。

大敗した頼朝は、わずかな味方とともに山中を逃げまどう羽目になります。このとき、景親配下の武将・梶原景時(かじわらのかげとき)が、景親を裏切って頼朝を見逃したと伝わっています。

1180年10月「富士川の戦い」

石橋山で九死に一生を得た頼朝は、海を渡って安房国(あわのくに、現在の千葉県)に逃れ、周辺の豪族を味方に付けて再起を図ります。数万人に膨れ上がった軍勢を従えて鎌倉に入り、本格的に平家打倒に乗り出しました。

1180(治承4)年10月、報を受けた平清盛は、孫の維盛(これもり)を総大将に任じて追討軍を派遣します。頼朝も鎌倉を出て、追討軍を迎え撃つことになりました。

両軍は、駿河国(するがのくに、現在の静岡県)の富士川を挟んで対峙(たいじ)します。しかし開戦の前夜、なぜか追討軍は撤退してしまいます。「平家物語」には、水鳥の群れの羽ばたきを鎌倉軍の襲撃と勘違いして逃走したとありますが、これは物語上での創作とされています。

戦わずに勝利した頼朝は、意気揚々と鎌倉に引き上げていきました。帰路に立ち寄った黄瀬川宿(きせがわのしゅく、現在の沼津市付近)では、異母弟・源義経と対面を果たしています。

1189年「奥州合戦」

1189(文治5)年の「奥州(おうしゅう)合戦」は、頼朝の全国支配の総仕上げとなった戦いです。平家滅亡後、頼朝の前に立ちはだかる強敵は、奥州藤原氏だけとなります。

奥州藤原氏は、平泉(ひらいずみ)を拠点に、東北地方を実効支配していた豪族です。当主の秀衡(ひでひら)は義経を若い頃から庇護しており、頼朝に追われる身となったときもかくまいました。

全国を支配下に置きたい頼朝にとっては、非常に目障りな存在だったといえるでしょう。秀衡が病で亡くなると、頼朝は後継者の泰衡(やすひら)に圧力をかけ、義経を討たせます。

義経の最期を見届けた後、頼朝は全国に命令を出し、数万とも数十万ともいわれる大軍を率いて出陣しました。大軍を前に、泰衡は平泉を捨てて逃亡しますが、家人(けにん)に裏切られて命を落とします。泰衡の兄弟も皆、討ち死にしたため、奥州藤原氏は滅亡しました。

源頼朝にまつわるエピソード

流人生活や弟との確執など、源頼朝には、どちらかといえば暗いイメージがあるかもしれません。しかし、頼朝にも人間らしさを感じられるエピソードがいくつか伝わっています。

夢のお告げで神社を創建

鎌倉にある「銭洗弁財天宇賀福神社(ぜにあらいべんざいてんうがふくじんじゃ)」は、頼朝が夢のお告げによって創建したと伝わっています。当時は全国各地で飢饉(ききん)が発生し、庶民はひどく苦しんでいました。

頼朝は人々の安寧を願い、日夜、神仏に祈りを捧げます。そんな頼朝の夢の中に宇賀福神を名乗る老人が現れ、近くに湧く泉の水で、神仏を供養するように伝えます。

老人が指定した場所を捜してみると、本当にきれいな湧き水がありました。お告げを信じた頼朝は、湧き水の近くに社(やしろ)を建てて神仏を祀ります。すると、次第に世の中は治まり、人々の暮らし向きも良くなったといわれています。

当時は珍しい恋愛結婚

頼朝の妻・北条政子(ほうじょうまさこ)は、夫の死後も長く鎌倉幕府を支えた功績から「尼将軍(あましょうぐん)」と呼ばれた女性です。頼朝は伊豆で流人生活を送っていた頃、政子と大恋愛の末に結婚しています。

当時は、現在と違って、恋愛結婚はとても珍しいことです。しかも、北条家は平氏の流れをくむ豪族で、頼朝の監視役でもありました。

政子の父・時政(ときまさ)も結婚には大反対で、政子を頼朝から引き離し、他の豪族に嫁がせようとしました。すでに頼朝の子を身ごもっていた政子は駆け落ちを決意し、ついに娘を出産します。

孫まで生まれてしまっては、時政も2人の結婚を認めるしかありませんでした。もし頼朝が流人でなかったら、政子ではなく親の決めた相手を正室に迎えていたでしょう。

日陰の身だったからこそ、心から愛するパートナーを得られたのかもしれません。

「蛭ケ島の夫婦(ふたり)」像(静岡県伊豆の国市)。若き日の頼朝と政子が、並んで見つめる先には、今も変わらぬ富士の峰がある。銅像の設定年である1177(治承元)年の2人は、頼朝31歳、政子21歳の青春まっただなか? 頼朝が配流された蛭ケ小島は、現在「蛭ケ島公園」として整備されている。

新しい武士の世をつくった源頼朝

源頼朝は源氏の正当な後継者として関東の豪族をまとめ、武士の世をつくりました。頼朝がつくった政治の仕組みは、北条氏・足利氏・徳川氏へと引き継がれ、江戸幕府が崩壊するまで続きます。

緻密な戦略で政権を手にした頼朝について学んでみると、当時の様子をより深く理解できるでしょう。

さらに知りたい人のための参考図書

小学館版  学習まんが  少年少女人物日本の歴史10「鎌倉幕府を開いた源氏の棟梁 源頼朝」

集英社版  学習漫画  日本の伝記「鎌倉幕府を開いた源氏のリーダー 源頼朝」

山川出版社「新装版  鎌倉殿誕生  源頼朝」

朝日文庫 永井路子「源頼朝の世界」

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構成・文/HugKum編集部

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