五街道とは
「五街道(ごかいどう)」は、いつ頃からあったのでしょうか。まずは、街道の名称や整備された理由を見ていきましょう。
日本橋を起点に延びる五つの街道
五街道は、江戸の「日本橋(にほんばし)」から東西に延びる、以下の道路を指します。
●東海道(とうかいどう)
●中山道(なかせんどう)
●甲州街道(こうしゅうかいどう)
●日光街道(にっこうかいどう)
●奥州街道(おうしゅうかいどう)
五街道の整備に着手したのは、江戸幕府を開いた徳川家康(とくがわいえやす)です。家康は、征夷大将軍に就任する2年前の1601(慶長6)年頃から、東海道の整備を開始します。
1604(慶長9)年には、各街道の起点が江戸の日本橋に定められました。
翌1605(慶長10)年には、2代将軍に就任した徳川秀忠(ひでただ)が五街道を基幹街道と定め、整備を本格化させます。
もともとの狙いは、軍用だったとも
家康や秀忠が街道を整備した狙いは、軍用のためだったともいわれています。家康が東海道の整備に着手した頃は、まだ平和には程遠い時代です。
大坂(現在の大阪)では、豊臣秀吉(とよとみひでよし)の跡を継いだ秀頼(ひでより)が大きな勢力を保っており、豊臣家に味方する大名もたくさんいました。そこで家康は、関西方面にスムーズに行軍できるように、東海道を整備・拡張したのです。他の街道も、基本的には行軍を意識してつくられています。
平和な世が到来した後も、五街道は大名の参勤交代に用いられました。軍隊が通りやすいように設計された街道は、槍(やり)や弓などの武器を携えながら進む参勤行列には最適な道だったのです。
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それぞれの街道のルートと特徴をチェック
日本橋から五方向へと向かう街道には、それぞれに個性があります。各街道の終着点や特徴を紹介します。
浮世絵にもなった「東海道」
東海道は、現在の神奈川県や静岡県、愛知県など太平洋側を通って京都の三条大橋に至る、約492kmの街道です。道中には53カ所の宿場町があり、「東海道五十三次」と呼ばれました。ただし実際には、宿場町は57カ所あったことが分かっています。
東海道では、左手に海を眺めながら進み、小田原からは箱根の山を通ることになります。箱根は道が険しい難所ですが、芦ノ湖(あしのこ)や富士山の絶景が、旅の疲れを忘れさせてくれました。
海・川・山と変化に富む東海道の風景は、江戸時代後期の浮世絵師・歌川広重(うたがわひろしげ)が描いたことでも知られています。
五街道のなかで最も長い「中山道」
中山道は、群馬県や長野県、岐阜県などの山間地を通って京都の三条大橋へと続く街道です。距離は約534kmと、五街道中最長を誇ります。宿場町も69カ所と最多で、東海道と並ぶ幹線道路として知られています。
中山道は峠が多く、人や馬にとっては厳しい道のりです。しかし、東海道と比べて人の往来が少なく、川の氾濫(はんらん)で足止めされる心配もないため、予定通りに進めるメリットがありました。
このため、幕府や朝廷にかかわる重要な連絡・行事の際には、必ず中山道を使ったといわれています。幕末に、皇女和宮(かずのみや)が14代将軍徳川家茂(いえもち)に輿入(こしい)れするときも、やはり中山道を通っています。
平坦な道のりで、歩きやすい「日光街道」
日光街道の終着点は、徳川家康を祀(まつ)る日光東照宮(にっこうとうしょうぐう)です。将軍家や諸大名が、東照宮へ参拝するルートとして整備されました。
なお、幕府による正式名称は「日光道中(どうちゅう)」です。また現在では、東京都が道路名として定めた日光街道と区別するために、「旧日光街道」と呼ばれることもあります。
日光街道の距離は約144kmで、21カ所の宿場町がありました。東照宮への参拝は、庶民にも許されていたうえに、平坦で歩きやすかったことから、日光街道はいつも多くの人で賑わったと伝わっています。
蝦夷地につながる「奥州街道」
奥州街道は、栃木県や福島県を通って、津軽(つがる)半島北端部の三厩(みんまや)に至る道です。ただし、幕府が管理したのは日本橋から福島県白河(しらかわ)市までで、正式には、この区間が奥州街道とされています。また、日本橋から宇都宮(うつのみや)までは、日光街道と重複していることも覚えておきましょう。
白河から三厩までは「仙台道」「松前道」と続き、幕府の役人や東北諸藩が管理していました。このため、一般的には、白河から先もまとめて奥州街道と呼んでいます。
江戸時代中期以降は、蝦夷地(えぞち、現在の北海道)開発にともなって通行量が増え、整備がいっそう進みました。
避難路として整備された「甲州街道」
甲州街道は、日本橋から八王子(はちおうじ)や山梨県甲府(こうふ)市を通って、中山道の下諏訪(しもすわ、長野県下諏訪町)に合流する道です。距離は約205km、宿駅は45カ所あります。
甲州街道はもともと、江戸城と甲府城を結ぶ軍用道路として整備されました。甲府藩は将軍家の親藩(しんぱん)だったため、江戸城が攻め込まれたときのために、将軍の避難経路を確保することが目的であったといわれています。
このため、宿場町の出入り口や甲府城付近には、追っ手をかわすための分かれ道や、見通しを悪くして攻撃を防ぐための直角に曲がる道などが見られます。
江戸時代中期以降は、長野や山梨の農産物を運ぶ流通経路の役割を担うようになり、江戸市民の暮らしを支える大動脈として発展しました。
五街道の覚え方
五街道の整備によって、人や物資の往来が盛んになり、情報も早く伝わるようになります。政治・経済・文化の発展に大きく貢献した五街道は、日本史の授業でも必出の重要ワードです。
社会のテストに出題されることも多いため、この機会に子どもと一緒に覚えておくとよいでしょう。五街道の効果的な覚え方を紹介します。
語呂合わせで覚えるのが簡単
五街道の名称は、語呂合わせで覚えると簡単です。例えば、「途中に置こう、五街道」では、以下のように覚えます。
●途=東海道
●中=中山道
●に=日光街道
●お=奥州街道
●こう=甲州街道
ほかにも、「納豆(なっとう)で口臭におう」といった記憶に残りやすいユニークな語呂合わせもあります。
●納=中山道
●豆=東海道
●口臭=甲州街道
●に=日光街道
●おう=奥州街道
こちらは方面別にまとまっているので、街道の位置関係を覚えたい人にもおすすめです。
今も残る五街道をたどってみても楽しい
五街道の名前は、東京と東海・関西・東北を結ぶ道路の通称として、現在も広く親しまれています。宿場町だった当時の様子が保存され、観光客を惹きつける町もあります。
機会があれば家族で五街道をたどり、江戸時代の旅人気分を味わってみるとよいでしょう。
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構成・文/HugKum編集部