参勤交代にはどんな目的があった? 制度の始まりと仕組み、費用を解説【親子で歴史を学ぶ】

歴史の授業や江戸時代が舞台のドラマなどで出てくる「参勤交代」とは、どのような制度だったのでしょうか? 制度の始まりや仕組み、実施された目的を紹介します。費用の実態や人々の生活にもたらした影響についても知り、理解を深めましょう。

参勤交代とは

「参勤交代(さんきんこうたい)」とは、いつ、誰が始めた制度で、どのような内容なのでしょうか?  目的についても見ていきましょう。

江戸幕府が定めた制度の一つ

参勤交代は、鎌倉時代の「大番役(おおばんやく)」が基になっている制度です。正式に確立されたのは江戸時代で、1635年(寛永12年)、江戸幕府の3代将軍徳川家光(いえみつ)が「武家諸法度(ぶけしょはっと)」で制度化しました。

この制度により、大名は原則、一年ごとに江戸と領地に住むことが義務付けられたのです。さらに、大名の正室と世継ぎとなる息子は、江戸に常住する必要がありました。

制度が定められた際に対象となったのは、「関ヶ原の戦い」以後に家臣となった外様大名(とざまだいみょう)のみでしたが、1642年(寛永19年)には、他の大名にも義務付けられています。

参勤交代の目的

以前は、「妻子を人質に取り、経済力を削ぐことで、幕府に対する反乱を起こさせないようにすること」が、参勤交代の目的とされていました。江戸と領地を行き来して暮らすことは、大名にとって大きな経済的負担になります。また、妻子を江戸に残したままでは、幕府に逆らうことも難しいというのがその根拠です。

しかし、近年では「主従関係の確認」が目的だったという説が有力です。わざわざ江戸に出向くという行為が、幕府に対する忠誠を示していたとされています。

移動や江戸での滞在に大金が必要となったことで、結果的に各藩の財政が厳しくなり、軍事力を低下させるのにつながっただけで、それ自体が目的ではなかったと考えられています。

参勤交代の時代に発展した妻籠(つまご)宿本陣(長野県木曽郡)。本陣は、1634(寛永11)年、家光が上洛した際、宿泊する邸宅の主人を本陣役に任命したのが始まり。この本陣は島崎藤村(しまざきとうそん)の母の生家で、1995(平成7)年に島崎家の江戸時代の絵図をもとに復元された。

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参勤交代の実態

参勤交代のサイクルや費用など、実態はどうだったのでしょうか?  制度に違反した場合の処罰や、庶民がどのように捉えていたのかについても見ていきましょう。

参勤交代のサイクルについて

一般的には、一年ごとに江戸と領地で暮らすとされていますが、実際には、参勤交代のサイクルは何度か変わっています。初期には、6カ月ごとに江戸と領地に住む藩が多かったようです。1618年(元和4年)頃に一年ごととなり、1635年に「一年ごと」として正式に制度化されたのです。

1722年(享保7年)には、8代将軍徳川吉宗(よしむね)が大名の財政負担を緩和するため、江戸に6カ月、領地に1年6カ月暮らすというサイクルに改めます。これは「享保(きょうほう)の改革」の一環である「上米(あげまい)の制」によるもので、大名が江戸での滞在期間を短縮するには、石高1万石につき100石の米を幕府に献上することが条件でした。

なお、幕府と藩の関係性や、藩に課されている役目によってサイクルが異なる場合もあり、2~3年ごとや6年ごとというケースもありました。

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参勤交代にかかった費用

藩の規模や江戸までの距離によって異なりますが、1回の移動でかかる費用は莫大(ばくだい)だったようです。例えば、加賀藩(石川県)は約4,000人が参加する大移動だった時期もあり、その費用は現在の貨幣価値に換算すると、5億円とも7億円ともいわれています。

参勤交代の費用がかさんだのは、交通機関が発達していないために江戸到着まで日数がかかり、道中の宿泊代や食事代などが必要となったからです。そのほか、幕府や領地通過時の藩主への土産や贈答品などを用意する必要もありました。

ちなみに、大人数で参勤交代を行った背景には、自分たちの藩の規模を誇示する意味もあったといわれています。財政が苦しくなり、大行列が難しくなると、見栄えをよくするためにエキストラを雇うこともあったようです。

箱根旧街道の石畳(神奈川県足柄下郡)。三島宿から標高846mの箱根峠を越え、小田原宿までの八里の坂道で、「箱根の山は天下の険」と唄われた東海道随一の難所。1680(延宝8)年、幕府は悪路を石畳道に整備した。それでも参勤交代の道中には、難渋したことがうかがえる。

サボると、処罰の対象に

参勤交代を怠った場合は、処罰の対象になりました。1623年(元和9年)、病気を理由に江戸へ出向くのを拒否した福井藩主の松平忠直(ただなお)が流罪となり、豊後(ぶんご、大分県)に流されています。

遅刻に対しても厳しい処罰が与えられていました。1636年(寛永13年)、江戸に10日遅れて到着した2代盛岡藩主の南部重直(なんぶしげなお)が、約2年もの間、江戸での謹慎生活を強いられています。これは「蟄居(ちっきょ)」と呼ばれる、江戸時代に武士などに科された刑罰の一つです。

庶民から見た参勤交代

時代劇で、大名行列が「下にい~」という掛け声とともにやってくると、庶民が土下座(どげざ)をしながら行列を見送るというシーンを見たことがある人もいるでしょう。「下にい~」は「土下座しなさい」という意味で、将軍家や御三家(ごさんけ)など一部の大名に対してのみ行われました。

一般の大名に対しても行列を横切るのはタブーでしたが、道を開ければよいだけで、立ったまま見送っていたというのが現実です。

藩士が、派手なデコレーションを施した毛槍(けやり)などを振り回すパフォーマンスを披露することもあり、庶民にとっては、現代でいうパレードのような楽しみがあったようです。

参勤交代がもたらした影響

参勤交代は、本来の目的以外にも、大きな役割を果たしました。国や人々の暮らしにもたらした影響について紹介します。

街道が整備されて、モノや情報の流れが整った

参勤交代を実現させるためには、江戸へと続く道路を整備する必要がありました。

そこで「五街道(ごかいどう)」と呼ばれている東海道・中山道(なかせんどう)・甲州道中(甲州街道)・日光道中(日光街道)・奥州道中(奥州街道)や、全国各地の主要な道路の整備がなされたのです。また、道中には宿泊施設もでき、そこを中心に町がつくられて栄えました。

雪の奈良井宿(長野県塩尻市)。中山道六十九次で、江戸からも京都からも34番目に位置するちょうど真ん中の宿場町。200年前の町並みが約1㎞にわたって残る日本一長い宿場でもある。その賑わいは「奈良井千軒」と称された。現在は、重要伝統的建造物保存地区。

江戸と地方を人が行き来することで、食料・衣類・武器などだけでなく、政治から経済、文化まで幅広い情報が伝えられるようになりました。

江戸で流行していた浮世絵(うきよえ)や瓦版(かわらばん)などが全国に広がったのも、参勤交代での行き来があったからだと考えられています。

時代によって異なる制度を再確認

参勤交代は、江戸時代に大名に課された制度で、江戸と領地に、定められたサイクルで住むというものです。近年は、主従関係の確認が目的だったと考えられています。一年ごとのサイクルがよく知られていますが、実際には時代や藩の役割などによって、参勤交代のサイクルは異なりました。

大名にとっては、財政的に苦しい制度でしたが、街道が整備されたり、モノや情報の流れが整ったりと、国や人々の暮らしにもたらされたものも大きかったといえるでしょう。

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構成・文/HugKum編集部

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