武家諸法度の内容を学ぼう。制定された目的や関わりの深い人物も【親子で歴史を学ぶ】

徳川家の家紋「三つ葉葵」

 

武家諸法度(ぶけしょはっと)」は、江戸時代に制定された法令の一つです。江戸幕府が開かれてまもなく発布され、徳川家の政権維持に大きく貢献しました。武家諸法度の内容を知れば、幕府と大名の関係がよく分かるでしょう。制定の目的や関係した人物も合わせて解説します。

武家諸法度とは?

武家諸法度は、いつ、だれが出した法令なのでしょうか。武家諸法度の概要と、制定に深く関わった人物を見ていきましょう。

江戸幕府が大名に対して出した法令

武家諸法度は、江戸幕府が諸大名に対して出した法令です。世情の変化や将軍の政治方針によって改訂されながらも、厳しい罰則をもって、幕末まで大名を統制し続けました。

武家諸法度が最初に制定されたのは、1615年(元和1)7月7日です。大坂夏の陣で徳川家が勝利し、豊臣(とよとみ)家が滅びた直後に、2代将軍・徳川秀忠(ひでただ)の名前で発布されました。漢文体で13カ条の条文から成り、発布時の元号が「元和(げんな)」だったことから「元和令(げんなれい)」とも呼ばれています。

深く関わりのある人物は、だれ?

元和令は徳川秀忠が発布しましたが、実際に制定を命じたのは徳川家康(いえやす)です。法案の作成は、家康がブレーンとして頼りにしていた僧侶「金地院崇伝(こんちいんすうでん)」が担当しました。

1635年(寛永12)には、3代将軍・徳川家光(いえみつ)が19カ条から成る武家諸法度を発布します。法案作成者は、儒学者の「林羅山(はやしらざん)」です。

その後は、以下の将軍が、武家諸法度の改訂を行っています。

・4代家綱(いえつな)
・5代綱吉(つなよし)
・6代家宣(いえのぶ)
・8代吉宗(よしむね)

武家諸法度の背景や目的

江戸幕府を開いて天下を統一した徳川家康は、なぜ、大名に対して厳しい法令を出す必要があったのでしょうか。武家諸法度が制定された背景や、目的を見ていきましょう。

政権を豊臣家から徳川家へ移す

武家諸法度が発布される10年前に、徳川家康は、息子の秀忠に将軍職を譲っています。当時の徳川家は、天下を統一したとはいえ、前政権の豊臣家の影響力が強く残っており、全く油断できない状況でした。

そこで家康は、息子を2代将軍にして、「江戸幕府の将軍職は徳川家が世襲する」という意思を世間に示したのです。その後、1615年の大坂夏の陣で、家康は最大の政敵・豊臣家をついに滅亡させました。

大阪城。現存する大阪城は、太平洋戦争後の再建。徳川秀忠は、大坂夏の陣で焼失した秀吉の大坂城を盛土で埋め、規模を拡大して新たな大坂城を築いている(大阪市中央区)

 

とはいえ、今後、豊臣家のように徳川政権を脅かす強大な勢力が生まれる可能性は、まだ十分にあります。家康は武家諸法度を制定することで、全国の大名を統制しようと考えたのです。

大名の力を弱める

武家諸法度には、大名の力を弱め、幕府に歯向かえないようにするための項目が盛り込まれています。例えば、軍事力を低下させるために、大名は居城以外の城を築くことが禁止されました。居城の修繕や改築も、幕府の許可がなければできません。

大名同士の政略結婚も、幕府の許可が必要となりました。結婚によって大名同士が団結すると、幕府の脅威となる可能性があったからです。

その後も、大型船建造・所持の禁止や参勤交代(さんきんこうたい)などの法令が追加されていきます。参勤交代は、主従関係を確認する慣習を制度化したものですが、膨大な費用がかかったために、藩の財政を圧迫し、結果的に大名の弱体化につながりました。

東海道。箱根の旧街道。ここを多くの参勤交代の大名行列が通過した(神奈川県足柄下郡箱根町)
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武家諸法度の内容を簡単に解説

武家諸法度の内容は、江戸時代に5回、改訂されています。それぞれの内容と、世の中に与えた影響を解説します。

寛永令

大型船建造の禁止や参勤交代の制度化、各藩が江戸の法令を遵守(じゅんしゅ)することなどを盛り込んだ武家諸法度が、徳川家光の出した「寛永令(かんえいれい)」です。大型船の禁止と同時に、日本人の海外渡航や海外からの帰国も全面的に禁止され、日本は鎖国(さこく)の時代に入ります(1639)。

参勤交代は、大名を経済的に圧迫した制度でしたが、行列がひんぱんに行き来するおかげで、街道や宿場町の整備が進み、交通網の発展や経済の活性化をもたらしました。

また江戸で出された法令を、各領国でも守るよう指示することで、幕府は直接口出しせずとも、各藩の政治に影響力を持てるようになったのです。

会津西街道の宿場町、大内宿(福島県南会津郡)も参勤交代の大名行列などで賑わった。

参勤交代

「参勤」は、もともと臣下が主君に忠誠を示すため、自主的に行っていた慣習です。主君の近くに住んで警護を担ったり、妻子を人質として差し出したりしていました。

参勤の期間や方法について、細かなルールを決め制度化したものが、「参勤交代」です。大名は、1年おきに江戸に住むこと、4月中には江戸に入ること、正室と世継ぎは江戸に居住すること、などが定められています。

従来、参勤交代は「大名の財政の弱体化」が目的と考えられていました。しかし、現在では、当時の幕府にそのような意図はなく、単に主従関係を確認するための行事だったとする考え方が主流です。

とはいえ、往復の旅費や江戸での滞在費は、すべて大名の負担でした。お金がないからといって、参勤しないわけにもいきません。参勤交代が大名の経済力を奪ったのは、確かなことといえるでしょう。

寛文令

1663年(寛文3)に4代将軍・徳川家綱が発布した、21カ条から成る武家諸法度を「寛文令(かんぶんれい)」と呼びます。寛文令では、新たに「キリスト教の信仰」と「殉死(じゅんし)」が禁止されました。

キリスト教の禁止を盛り込んだきっかけは、1637年(寛永14)に起こった「島原(しまばら)の乱」です。厳しい年貢の取り立てや、キリシタン弾圧に耐えかねた結果、領民が起こした島原の乱は、鎮圧のために幕府軍が派遣されるほど大きな内乱でした。

原城址。島原・天草一揆軍が籠城した原城の本丸跡。一揆は、家族全員で行動し、女性や子どもたちも幕府軍との戦闘に参加したという(長崎県南島原市)

 

家綱は、2度とこのような反乱が起こらないように、武家諸法度に改めてキリスト教の禁止を加えることにしたのです。また家綱は、これまでの武力による統治を改め、学問によって世を治める「文治政治」を目指します。

当時、主人の後を追って命を絶つ「殉死」は、武士にとっては「名誉ある死にざま」とされていました。しかし有能な家臣が殉死してしまえば、藩の政治体制は乱れ、人々の生活も落ち着きません。

そこで武力支配の象徴ともいえる殉死を禁止し、諸大名にも守らせるよう促したのです。ただし殉死の禁止は、寛文令では「口上(こうじょう)」のみでした。実際に明文化されたのは、次の将軍・徳川綱吉の代になってからです。

天和令・宝永令

1683年(天和3)の5代将軍・徳川綱吉による武家諸法度は、「天和令(てんなれい)」と呼ばれています。天和令では、大名に武芸だけでなく、学問の素養を身につけ、礼儀正しくふるまうことを求めています。

跡継ぎの決まっていない大名が、死ぬ間際になって養子を迎える「末期養子(まつごようし)」も認められました。それまでは、大名が跡継ぎのないまま死ねば、家は断絶されることになっていました。

家が断絶すると、家臣も職を失い、多くは浪人となってしまいます。浪人が増えれば、治安が悪化し政情も不安定になるため、末期養子を迎えて家を存続できるようにしたのです。

綱吉の次の将軍・家宣は、「宝永令(ほうえいれい)」と呼ばれる武家諸法度を発布します(1710)。起草者は家宣の政治を支え「正徳(しょうとく)の治」を実行した儒学者「新井白石(あらいはくせき)」です。

宝永令には、役人への贈賄(わいろ)禁止などの項目が盛り込まれましたが、8代将軍・吉宗の「享保令(きょうほうれい)」によって破棄され、天和令の内容に戻されます(1717)。その後は武家諸法度に大きな改訂は行われず、幕末まで踏襲されていきました。

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大名を厳しく取り締まった武家諸法度

武家諸法度に違反した大名には、減封(げんぽう)や改易(かいえき)、取り潰しなどの厳しい処罰が待っていました。各大名は幕府に反乱の兆しがあると思われないように、たいへん気をつかっていたようです。

このため江戸時代は、島原の乱以降、大きな戦乱がない平和な時代となりました。武士が政権維持のために作った法令が、長い平和をもたらしたことに対して、いちばん驚いているのは徳川家康かもしれません。

構成・文/HugKum編集部

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