「封建制度(ほうけんせいど)」は、日本史でも世界史でも、必ず出てくる言葉です。「封建的」など、封建制度に由来する言葉は、現在でも使われています。封建制度とはどのような仕組みだったのか、日本・中国・ヨーロッパ、それぞれの歴史と違いを解説します。
封建制度とは? 分かりやすく解説
封建制度と聞いて、江戸時代の「殿様と家来」のような、強固な上下関係を想像する人が多いのではないでしょうか。
封建制度とは国を統治する制度の一つで、人間関係を表す言葉ではありません。正しい言葉の意味と、現在の使われ方を見ていきましょう。
土地を仲立ちとした主従関係による政治制度
封建制度は、「封土(ほうど)」と呼ばれる土地を介した、主従関係による支配体制を指します。「封土」とは、家臣の働きに対して、主君が与える土地のことです。
封土には、土地だけでなくその土地の住民(農民)も含まれます。
家臣は、領主となって住民から税収を得られるようになる代わりに、主君に対して労役や従軍などの義務を負っていました。
現代も使われる「封建」の意味
現代でもよく耳にする「封建」は、上司や先輩に対して、自由にふるまえない「厳しい上下関係」がある様子を表しています。
会社や部活動などで、立場が上の人に逆らえない状態が、江戸時代の封建制度に似ていることが由来です。
日本では鎌倉幕府の成立から明治維新まで、長い間、武家が政権をにぎっていました。江戸時代には将軍をトップとした、厳密な主従関係が築かれます。
主君の命令に背けば、領地を召し上げられ、路頭に迷ってしまう可能性も大いにありました。
こうした武家社会の構図と企業などの古い体質を重ね、「封建的な会社」「あの人の考え方は封建的だ」などと使われているのです。
日本の封建制度の歴史
日本では、封建制度がいつ頃始まり、どのようにして終わったのでしょうか。日本の封建制度の歴史を見ていきましょう。
封建制度が発展したきっかけ
日本の封建制度発展のきっかけとなったのは、平安時代後半の「武士の誕生」です。
当時の日本は、天皇を中心とした「中央集権国家」でした。国内の土地を「国(こく)」で分け、「国司(こくし)」と呼ばれる役人を派遣して統治させていたのです。
国司が、盗賊や他の地域からの侵攻に備えるため、戦いの技術に優れた武官や地元の豪族などに武装をさせたのが、武士の始まりといわれています。
武士は次第に勢力を拡大して、武士団を形成するようになり、武士の間でも主従関係が生まれていきました。
「御恩」と「奉公」とは?
日本初の武家政権である鎌倉幕府を開いた源頼朝(みなもとのよりとも)は、将軍と御家人(ごけにん)との間に、「御恩と奉公」の関係を結びました。
将軍は「御恩」として、御家人と呼ばれる家来に、領地の所有を認めて保護すると同時に、手柄を立てたときには新しい領地を与えます。その代わりに、御家人は、内政や戦で将軍の手助けをする「奉公」を誓いました。
「御恩と奉公」は日本の封建制度の基礎となりますが、元寇(げんこう、元軍の襲来)によって崩壊します。元軍と戦った御家人に対して、幕府が十分な土地を与えられなかったことが原因です。
働きに応じた報酬が得られず、御家人たちの心は、幕府から離れていきました。「御恩と奉公のバランス」が崩れたことが、鎌倉幕府滅亡の一因となったのです。
封建制度に変化も
室町時代に入ると、将軍と御家人の関係は将軍と「守護大名(しゅごだいみょう)」との関係に変わります。守護大名は御家人よりも自分の領地に対する権限が強く、時には、将軍をしのぐこともありました。
将軍の跡継ぎ問題にからんだ「応仁(おうにん)の乱」では、有力な守護大名が二手に分かれて争い、幕府の弱体化が露呈します。
応仁の乱をきっかけに、地方で力を付けていた豪族や守護大名らが実力で領地を奪い合う戦国時代に突入するのです。
江戸時代には、各地の「藩(はん)」を治める大名を、江戸幕府が管理する「幕藩体制(ばくはんたいせい)」が始まります。「藩」は小さな独立国家のようなもので、藩の統治権は、ほぼ大名がにぎっていました。
そのまま大名が力を付けていくと、いずれ謀反を起こすかもしれません。
そこで幕府は「武家諸法度(ぶけしょはっと)」を制定し、違反した大名に改易(かいえき、領地や身分などを没収し、家を取りつぶすこと)などの厳罰を下していきました。
終わりを迎える封建制度
鎌倉時代に始まった日本の封建制度は、明治維新によって終わりを迎えます。江戸幕府が倒され、大名は仕える主君を失いました。
さらに明治政府は、大名の持ち物だった土地と人民を国に返還させる、「版籍奉還(はんせきほうかん)」を行います。その後の「廃藩置県(はいはんちけん)」によって、土地や人民は国の管理下に置かれました。
この段階で明治政府が目指す中央集権体制が整い、長く続いた日本の封建制度は完全に消滅したのです。
中国の封建制度の歴史
日本の封建制度の考え方は、中国から持ち込まれたといわれています。中国における封建制度の歴史を見ていきましょう。
中国が起源とされる封建制度
封建制度は、紀元前1050年頃の中国を治めた「周(しゅう)」が起源とされています。周の王は、有力な「諸侯(しょこう)」と血縁関係を結び、「国」と呼ばれる土地を支配する権利を与えました。
「封建」の言葉は、「封侯建国(諸侯を封じて国を建てる)」を略したものです。周王朝の弱体化によって、封建制度は崩れ、次の統一政権「秦(しん)」は、皇帝を中心とする中央集権国家となりました。
封建制度が崩壊した理由
周の王から国を与えられて支配していた諸侯は、徐々に力を蓄えていきます。一方の周王朝は、異民族の侵入を防げず、都から逃げてしまいました。
弱い王朝に従う気がなくなった諸侯が、次々に独立し、小国同士が争う「春秋(しゅんじゅう)・戦国時代」を迎えます。
いかに強固な血縁関係があっても、都を逃げ出すような王では、離反されても仕方がないといえるでしょう。
戦乱を治めて秦を建国した始皇帝(しこうてい)は、封建制度を踏襲せず、全国を郡や県に分割して役人を配置する「郡県制」を導入しました。
ヨーロッパの封建制度の歴史
封建制度は、中世のヨーロッパにも見られます。ただし、日本とは主従関係の築き方が異なっていたようです。ヨーロッパの封建制度の特徴を見ていきましょう。
日本と異なる封建制度
4世紀末にローマ帝国が東西に分裂し、5世紀後半に西ローマ帝国が滅亡すると、ヨーロッパの王侯貴族は、異民族の侵攻や、他国との争いから自分で領地を守る必要に迫られます。
そこで、力の強い人に土地を譲ってから、借り受ける形で主従関係を築き、土地を保護してもらう封建制度が始まったとされています。
主君が約束を守らなければ、家臣は義務を果たさなくてもよいとされていたほか、中世になると、数人の主君と主従関係を結ぶことが許されました。
仕える相手を選べず、1人の将軍に忠誠を誓わなければならない日本の封建制度に比べると、大変ドライで合理的な制度でした。
17世紀まで続いた封建制度
ヨーロッパの封建制度は、さまざまな社会情勢の影響を受け、17世紀には崩壊しています。
12世紀頃からヨーロッパでは貨幣経済が広がり、農民は農作物を売ったお金を蓄えるようになりました。経済力を手にした農民は、領主と取り引きし、自由を手に入れることに成功します。
また、14世紀にはペストが猛威をふるい、人口が減ったことで、農民の奪い合いが起こりました。農作物を生産してくれる農民がいなくなってしまえば、領主は支配を続けられません。
15世紀には、王に権力を集中させる「絶対王政」が始まり、そのシステムが浸透することで封建制度は姿を消していったのです。
封建制度について学ぼう
土地や住民をベースに、主従関係を築く封建制度の仕組みは、貨幣経済に慣れ親しんだ現在の私たちには分かりにくいかもしれません。今後、封建制度が復活する可能性も、ほとんどないでしょう。
しかし封建制度は、歴史上のいくつもの政権の発展や衰退に大きく関わっています。しっかりと学んで、当時の人々の考え方や暮らし方への理解を深めていきましょう。
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構成・文/HugKum編集部