音が聞こえない育児で娘のぜんそくに気づけなかったことも…前向きになれなくても、いい親になろうとしなくても大丈夫【牧野友香子さんインタビュー】

アメリカで11歳と9歳のふたりの娘さんを育てる牧野友香子さんは、生まれつき重度の聴覚障害があります。長女は、生まれてすぐにNICU(新生児集中治療室)に入院し、50万人に1人と言われる骨の難病と診断されました。友香子さんに退院後の生活や子育てのこと、長女の成長などについて伺いました。インタビューの後編です。

【インタビュー前編:長女は50万人に1人の難病。耳の聞こえない私が育てられる…?】はこちら≪

医師には「首に少しでも負担がかかると、首から下が麻痺する」と言われ

――娘さんの退院後の生活について教えてください。

友香子さん:長女は生まれてすぐにNICU(新生児集中治療室)に入院し、さまざまな検査をして50万人に1人と言われる骨の病気とわかりました。

脊髄の通る管が狭くなる脊髄狭窄も判明して、医師からは「退院はできるけれど、首の神経が圧迫されていて、首に少しでも負担がかかると首から下が麻痺します。抱っこするときは縦抱きは絶対にダメ。抱っこひも使わずに、横抱きで抱っこしてください。寝ているとき少しの高さからも落ちないように注意してください」と言われました。医師からのことばを聞いたときは、頭の中が真っ白になって「私に育てられるだろうか」と思いました。

私は生まれつき耳が聞こえません。初めての子育てというだけでも不安でいっぱいなのに、医師のことばを聞いてパニックになりました。

将来はどうなるのか見通しがまったくもてないことも不安に拍車をかけました。

長女が生まれ、不安の中で子育てをしていたころ

「この子を無事に育てる自信がない」と夫や実母に相談

――ご主人とはどのように話しましたか?

友香子さん:退院して1週間ぐらい経ったころ、夫に「私は、この子を育てられないかもしれない」と、泣きながら相談しました。夫は私の話をじっくり聞きながら、「友香子にとって一番いい方法を一緒に考えよう」と言ってくれました。

夫のことばに救われる一方で、正直「よかった」とは思えませんでした。「私はやっぱりダメな母親なのかも…」「こんな自分でいいのかな?」と、いろいろ考えてしまって…。

――ご主人以外の人にも、相談しましたか。

友香子さん:退院後、手伝いに来てくれていた母にも相談しました。母に「私は、生まれつき耳が聞こえなかったけれど、人生をプラスに変えて頑張ってきたのに…。なんで私の人生はこうなんだろう。耳が聞こえないのに、難病の子を無事に育てていく自信がない」と言いました。

すると母が「大丈夫。私はまだ若いから、友香子がどうしても無理なときが来たら私が育てる。障害がある子を育てるのは、あなたで経験しているからね」と言ってくれたんです。

そのことばを聞いたとき「私は1人じゃないんだ」と気づいたんです。本当に限界を感じたときは、夫や母が最後の砦になってくれると思えただけで、心が少しラクになり「もう少し頑張ってみよう」と前向きな気持ちになれました。

それまでは毎日不安だったし、神経が張りつめていて、生まれて間もない長女を「かわいい」と感じる心の余裕がありませんでした。でも気持ちが前向きになれてから、少しずつ長女のことがかわいいと思えるようにもなっていきました。

何度も手術をして、少しずつ歩けるように

――これまでに行った手術について教えてください。

友香子さん:長女は生後4カ月、保育園児のとき、小学校低学年の間に複数回、手術をしています。

7歳のときには、股関節の手術をしました。リハビリを頑張って歩行器から松葉杖になり、やがて松葉杖1本で歩く練習をして。8歳になるころには、少しずつですが自分で歩けるようになりました。今では長女の成長が、奇跡のように感じます。

長女が2歳のころ。2つ年の離れた次女といっしょに

音が聞こえないと、子どもの体調の変化に気づきにくいことも

――聞こえない中で、子育てをする難しさを教えてください。

友香子さん:私は、読唇術といって相手の口の動きを読み取ってことばを理解し、ことばを発してコミュニケーションをとっています。でも、子どもの具合が悪いときは自分から「おなかがいたい」などと言えるようになるまでは、なかなか気づけないんです。

一度、子どもがぜんそくになったとき、受診が遅れてしまったことがありました。咳をしていることはわかっていたのですが、ぜんそく特有のヒューヒューとした喘鳴だとは気づけなくて…。医師から「もっと早く、病院に連れてこないとダメだよ」と言われてしまったこともありました。

長女が小3のときに、家族でアメリカへ移住

――現在は家族でアメリカで暮らしていますが、現地でのくらしについて教えてください。

友香子さん:私は数年前に「株式会社デフサポ」という会社を立ち上げ、難聴者の人生に選択肢を増やし、未来を切り拓くサポートなどを行う事業をしています。また、夫とともに「株式会社マスドライバー」というwebマーケティングの会社も経営しており、そちらの仕事のため2年前に家族でアメリカに移住しました。

渡米したとき長女は小3、次女は小1。英語がまったくわからない状態でしたが、現地の小学校に通っているため今ではすごく上達し、私に聞かれたくない内緒話は英語でしています(笑)。

長女は今、バイオリンにチャレンジしています。私の住む地域では、中学校から高校まで必ず何かの楽器を学ぶことが必須なんです。

また、近隣には無料のテニスコートが充実していて、次女は私たち夫婦と一緒にテニスにチャレンジしていて。2人ともアメリカでの生活を楽しんでいます。

長女は何度も手術を重ね、今では歩けるように

相手の口の動きが読み取りにくい英語に奮闘中

――友香子さんは、読唇術でコミュニケーションをとっていますが、アメリカでも同じ方法でしょうか。

友香子さん:英語は日本語と違って、口を開けて発音しない音もあり、読み取れないこともあります。この間も娘が「バリボー(volleyball)」と話すので、「えっ?」と聞き返したら、口を大きく開けながら「バレーボール」と教えてくれました。

わからないときは、テキストに変換される音声アプリを使うこともあるのですが、もっと勉強をして英語でコミュニケーションがとれるようになることが、今の私の目標です。

娘さんが撮影してくれた一枚。アメリカでのチャレンジを家族で楽しんでいます

前向きな親であり続ける必要はない。つらいときはSOSを出して

――友香子さんの経験を踏まえて、子育てに悩んでいるママ・パパにメッセージをお願いします。

友香子さん:私は、親だって前向きになれないことがあってもよいと思っています。

私の場合は時とともに少しずつ受け入れられるようになりましたが、単に運が良かったのもあると思っています。

「いい親でいなければいけない」「前向きにならなければいけない」と自分を責めて、さらに追い込まないでほしいと思います。

「助けて」と言うことは恥ずかしいことではありません。抱え込まず、つらいときには周囲にSOSを出して、周囲も手を差し伸べる。そんな循環ができてほしいと願っています。

前編では、聴覚障害と分かった子どものころや妊娠当時についてお聞きしました

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お話を聞かせてくれたのは…

牧野 友香子 株式会社デフサポ 代表取締役

1988年大阪生まれ。先天性の聴覚障害があり、読唇術での会話を身に付ける。大学卒業後ソニー株式会社に入社。2017年からは株式会社デフサポを立ち上げ、難聴児の教育や企業研修等を行っている。2021年には夫とともに株式会社マスドライバーを立ち上げ、Webマーケティング、海外マーケティング支援を行う。現在は、家族でアメリカのテキサス州へ移住。YouTube「難聴ユカコの挑戦(デフサポちゃんねる)」は12万人の登録者数を誇る。

取材・構成/麻生珠恵

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