廃藩置県とは? 明治政府による新しい国づくりの目的について理解を深めよう【親子で歴史を学ぶ】

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明治維新では、多くの改革が行われました。なかでも「廃藩置県(はいはんちけん)」は、新しい国づくりの基礎となった重要な改革の一つです。

廃藩置県の経緯や目的を知れば、現在の政治体制への理解も深まるでしょう。廃藩置県の基礎知識について解説します。

廃藩置県とは?

廃藩置県は、明治時代初期に実施された大規模な行政改革です。大名がそれぞれの領地を統治していた旧来の体制を廃止して、新しい統治体制を築くために行われました。

廃藩置県が実施された時期や、体制が確立するまでの流れを見ていきましょう。

実施された年

廃藩置県は新政府誕生から4年後の、1871(明治4)年に実施されました。

1867年に江戸幕府が政権を朝廷に返上する「大政奉還(たいせいほうかん)」を奏上し、「王政復古の大号令」を経て、明治政府が誕生しました。

しかし、長年続いた江戸幕府の支配体制を容易には変えられず、1868(慶應4)年、新政府と旧幕府勢力が国内で争う「戊辰戦争(ぼしんせんそう)」が勃発(ぼっぱつ)します。

戊辰戦争(東北戦争)に出陣した二本松少年隊群像(福島県二本松市霞ヶ城公園)

 

戦争終結から2年後、廃藩置県の実施により、明治政府はようやく政治の実権を握れるようになりました。

廃藩置県までの流れ

戊辰戦争が終わった1869(明治2)年7月、明治政府は「版籍(はんせき)奉還」を開始します。版籍奉還は、大名が持っていた土地や人民の支配権を、朝廷に返還させる政策です。

これは大政奉還後も、大名が各藩を治めるという江戸時代と同じ状態が続いており、新政府の改革の妨げになっていたため実施されました。大名から支配権を取り上げ、新政府に集約するように考え出された政策が版籍奉還なのです。

しかし、大名から無理に支配権を取り上げれば、反感を買うのは必至です。

明治政府は、まず政府関係者を多く出している主だった藩に話を持ちかけ、版籍奉還を願い出させます。すると幕末の動乱の影響で弱体化していた他の大名たちも次々に従い、土地や人民はすべて朝廷に返上されました。

版籍を奉還した大名は「知藩事(ちはんじ)」に任命され、引き続き藩の行政を任されます。

これは大名の反発を抑えるための対策でしたが、名前が変わっただけで藩主の影響は強く残り、古い体制を刷新するには至りませんでした。そのため政府は、藩そのものを廃止して新しく府や県を置く「廃藩置県」に踏み切ります。

たくさんあった藩は、府や県に統合され、知藩事の代わりに政府から派遣された「(府)知事」や「県令」が行政を担うようになったのです。

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廃藩置県を行った目的

明治政府は、なぜ廃藩置県によって古い体制を変えようとしたのでしょうか。主な目的を見ていきましょう。

明治政府の下に国を統一するため

江戸時代の藩は小さな国のようなもので、藩の行政も藩主である大名の仕事でした。明治維新後も藩の行政権は大名が握っており、政府は一括で管理できない状況だったのです。

発足したばかりの新政府に従う大名は少なく、政策実行のために朝廷の力に頼らざるを得ないのが実情でした。明治政府主導で国を一つにまとめるには、藩や大名の存在は大きな障壁だったといえます。

廃藩置県は、各藩に分散していた政権を、明治政府に移すための切り札として実施されたのです。

税収を確保するため

発足直後の明治政府には、お金がありませんでした。お金がなければ、どれほど素晴らしい政策でも実行できません。

政策にかかるお金は税金でまかなわれますが、当時は日本の国土のほとんどが大名の支配下にあり、政府が徴税できる地域は少なかったのです。

土地や人民の支配権をすべて明治政府に移せば、税収は大幅に増えます。廃藩置県は税収確保のためにも欠かせない改革だったといえます。

廃藩置県に反対した大名もいる?

明治維新の大名勢力のひとり、島津久光の銅像(鹿児島市照国町

 

版籍奉還や廃藩置県は、大名が持っていた強大な権利を取り上げる政策です。藩の支配権を奪われたうえに、知藩事の職まで追われることに反対した大名はいなかったのでしょうか?

当時の大名と明治政府の関係を見ていきましょう。

多くの大名は大賛成

実は、ほとんどの大名は、版籍奉還に反対するどころか、大賛成でした。

幕末から続いた混乱により多額の借金を抱えたり、百姓一揆(いっき)などで内政が不安定だったりと、藩の統治に限界を感じている大名が多かったのです。

また、廃藩置県の折には、明治政府は大名に対して旧藩の収入の1割を与えるという厚遇を用意していました。これなら知藩事の職を失っても、生活に困ることはありません。

版籍奉還のときに、知藩事の任命権は天皇に移っていたので、廃藩置県に反対するのが難しかったのも事実です。

とはいえ、政府側は激しい反発を予想しており、西郷隆盛(さいごうたかもり)は暴動が起こることも覚悟のうえで臨んだと伝わっています。

反対したのは「島津久光」

多くの大名が廃藩置県に従ったなかで、最後まで強硬に反対していたのが薩摩藩主・島津久光(しまづひさみつ)です。

彼は廃藩置県が実行された夜、悔しさのあまり、屋敷内で一晩中、花火を打ち上げたといわれています。

明治政府の重鎮、西郷隆盛や大久保利通(としみち)は元薩摩藩士だったため、廃藩置県を進めていることが島津久光にばれないように、相当苦労したようです。

大久保利通の銅像(鹿児島県鹿児島市)

大名は「華族」に

廃藩置県のあと、明治政府は「華族(かぞく)」という新しい身分を設けて、旧大名家に与えます。華族はもともと、公家(くげ)の家柄の階級を表す「清華家(せいがけ)」の別称でした。

公家は朝廷に仕える貴族のことで、華族は貴族と同じ意味を持っています。大名からさまざまな権利を奪う埋め合わせのため、貴族として特別扱いすることになったのです。

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廃藩置県についての豆知識

廃藩置県によって、藩は府や県に統合されていきます。現在の都道府県がどのようにしてできたのか、廃藩置県の豆知識を紹介します。

県名の決め方

藩を県に置き換えただけなら、藩名がそのまま県名になるはずです。しかし、都道府県名をよく見ると、元の藩とは違う名前の県が、意外に多いことに気づきます。

では、県の名前はどのように決めていたのでしょうか。

一説には、明治政府に協力的だった藩と、逆らった藩を区別するために、県名の決め方を変えたといわれています。

鹿児島藩(薩摩藩)や山口藩、佐賀藩は政府に協力したので藩名が残されましたが、名古屋藩や水戸藩、金沢藩は反対派だったため、変えられてしまったというのです。

確かな根拠はなく、例外もありますが、歴史的な興味を引く面白い説といえるでしょう。

「府」の扱いについて

大阪や京都は、なぜ県ではなく「府」と呼ばれるのでしょうか。

府は軍事や政治の拠点、あるいは大都市を意味する言葉です。大政奉還のあと、幕府の直轄地(ちょっかつち)だった土地や港を明治政府が管理する意思表明として、「府」と名付けたのが始まりといわれています。

明治維新直後は、大阪や京都のほかに、箱館(はこだて)や長崎、奈良など全部で10カ所の府がありました。東京も1943年までは、東京府だったのです。

廃藩置県後、徐々に周辺の県との統合・分離が行われ、最終的に大阪と京都だけが、今も府として残っています。

沖縄が日本の領地になった経緯

沖縄はもともと「琉球(りゅうきゅう)王国」という独立した国で、代々中国を宗主国としており、朝貢(ちょうこう)貿易を続けていました。

琉球王国の首里城守礼門(沖縄県那覇市)

 

江戸時代に薩摩藩の支配下に置かれましたが、国としては独立しており、宗主国が中国であることにも変わりはありませんでした。

日本に属していながら中国に朝貢を続ける琉球王国の処遇は、明治政府にとっても、頭の痛い問題でした。ほかの藩と同様に扱えば、琉球国民や中国の反発を買うことも想定されます。

そこで明治政府は、琉球王国をいったん「琉球藩」と名付け、琉球王を「藩王」と呼ぶことで、各方面からの反発を回避する策を取ります。

廃藩置県から8年後の1879(明治12)年に琉球藩は廃止され、日本の県の一つとして沖縄県になりました。

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廃藩置県の時代をもっと詳しく知るために

廃藩置県が行われた時代背景や、明治維新の歴史的経緯について、もっと詳しく知りたい方のために、おすすめの本をご紹介します。

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全15巻の新・日本史学習まんがシリーズのうちの12巻。江戸幕府を倒した明治政府が、近代化を目指して、欧米の列強の仲間入りを果たすために、どのような改革をなしとげていったかを中心に描いていきます。

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廃藩置県の目的を把握しよう

古い体制を刷新し、近代国家に生まれ変わるためには、廃藩置県は避けて通れない改革でした。明治政府が強い意志を持って実行したのも、はっきりとした目的があったからです。

もし、廃藩置県が失敗していたら、今頃、日本はどのような国になっていたでしょうか。そのような仮説を立てたり、住んでいる地域が昔、何藩だったかを調べたりするのも、歴史の学び方の一つです。

廃藩置県の目的や結果を親子で話し合い、楽しみながら理解していきましょう。

構成・文/HugKum編集部

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