治外法権という言葉をご存じですか? 会話の中でときどき使われることもある言葉ですが、正直なところ、あまり詳しく理解できていない方もいらっしゃるのではないでしょうか。この記事では、治外法権の意味や、日本での治外法権にまつわる歴史にスポットを当ててみました。また、治外法権と領事裁判権の違いや、日本における治外法権の撤廃までの流れなどにも迫っていきます。
治外法権とは
テレビ番組や歴史の授業などで、誰もが一度は耳にしている治外法権という言葉。何となくは理解しているけれど、その詳しい意味を求められたら正確に説明ができない人も多いはずです。そんな治外法権の意味をわかりやすく解説していきます。
治外法権の意味
そもそも治外法権とは、どういう意味なのでしょうか? デジタル大辞泉(小学館)によれば、以下のように説明されています。
国際法上、特定の外国人(外国元首・外交官・外交使節など)が現に滞在する国の法律、特に裁判権に服さない権利。
ある特定の外国人には、国籍を置く本国の法律や制度が適用されるため、在留先である外国の法律や制度が適用されない状態を治外法権といいます。外国の大統領や首相、外務大臣や外交官などといった特定の外国人は、在留国が定める法律や制度ではなく本国の法律や制度が適用されるというわけです。
※参照:デジタル大辞泉(小学館)
簡単に説明すると?
治外法権を簡単に説明すると「特定の外国人が持つ、他国のルールに従わなくてもよい権利」のことです。
日本にあるアメリカ大使館を例にとってみましょう。大使館に在留するアメリカ人(大使本人や家族など)は、外交特権を持っているため、日本国内において、治外法権が適用される特定の外国人になります。
外交特権とは、本国の代表としていろいろな活動をするために在留国で保障されている権利です。具体的に挙げれば、身体の不可侵や刑事・民事裁判権の免除、課税免除などがあります。つまり、彼らが日本で犯罪や事故などを起こしても、日本の法律や制度では、基本的に逮捕や拘束したり裁判にかけたりすることができません。特定の外国人に当たる彼らは、日本にいながらもアメリカの法律や制度・ルールが適用されるからです。
また、大使館や公館・公邸などには、絶対的な不可侵権があるため、大使館責任者の許可がなければ、在留国の警察や役所といった官憲の人間でも立ち入ることができません。
治外法権と領事裁判権の違い
治外法権と混同されやすい意味を持つものに、領事裁判権があります。これも特定の外国人に与えられた特別な権利なのですが、治外法権との区別がつかない場合もあるでしょう。ここからは、治外法権と領事裁判権の違いについて説明していきます。
領事裁判権とは
領事裁判権とは、江戸時代末期に日本とアメリカで結ばれた日米修好通商条約の中に含まれる、司法にかかわる権利のひとつです。
当時、領事裁判権に守られたすべてのアメリカ人は、日本で罪を犯しても日本の法律や制度で裁判にかけられることがありませんでした。アメリカ人が罪を犯した場合、その罪を裁く権利を持った者が、アメリカ人の領事だったからです。この領事裁判権は、アメリカ以外にもさまざまな西欧諸国と結ばれていたため、その結果、日本の各地で外国人の犯罪が爆発的に増加してしまいます。
ちなみに、日米修好通商条約は、領事裁判権の他にも輸入品の税率を決める関税自主権が日本にはないなど、アメリカにとって都合のよい内容になっているため、不平等条約ともいわれていたものです。
治外法権との違いは?
それでは、領事裁判権と治外法権の違いとは、具体的に何なのでしょう? 領事裁判権は、不平等条約ともいわれる日米修好通商条約などで認められた治外法権のひとつです。治外法権という特別な権利の中に領事裁判権も含まれているのです。つまり、治外法権の一種が領事裁判権と考えたらわかりやすいでしょう。
治外法権の撤廃までの流れ
江戸時代末期に欧米列国と締結された不平等条約。その中の治外法権に日本は苦しめられてしまいます。明治政府は、この不利な条約の撤廃をどのように目指したのでしょうか?
ここでは、治外法権の撤廃までの長い道のり、その流れを解説していきます。
日本はなぜ治外法権を認めてしまったのか
江戸時代末期、どうして日本は、自国が不利になってしまう治外法権を認めてしまったのでしょうか? それは、1858年に日本とアメリカで交わされた日米修好通商条約の中に、領事裁判権の容認や関税自主権の放棄といった条約内容が含まれていたからです。
アメリカが優位な立場に立てる日米修好通商条約は、日本初の総領事になったハリスと江戸幕府との間で交渉が行われました。のべ15回もの交渉の末「西欧諸国からの侵略を防ぐためにも、アメリカとの条約を早急に締結すべき」と強硬に迫るハリスに押され、結果的に江戸幕府は、不平等な日米修好通商条約に調印してしまいます。
ちなみに当時の孔明天皇は、この条約締結の勅許を拒否していたため、条約の署名には、14代将軍・徳川家茂の名前が記されました。
領事裁判権に注目が集まった「ノルマントン号事件」
欧米列国の治外法権を認めた不平等条約は、明治時代に入っても続きます。当時の明治政府は、不平等条約を結んでいる欧米列国に対し、条約改正の交渉に尽力するのですが、話が思うように進展しません。そんな折に起きた「ノルマントン号事件」で、治外法権のひとつである領事裁判権に日本国内から注目が集まることになります。
1886年(明治19年)、日本の和歌山県紀伊半島沖で、イギリスの貨物船ノルマントン号が沈没。無事に避難できたのは、イギリス人船長と欧米人の船員のみです。一緒に乗船していた日本人乗客25人は、全員死亡してしまいました。この水難事故で、イギリス人の船長や船員は、日本人乗客を救助しなかったと考えられています。
しかし、神戸にあるイギリス領事館で開廷された裁判において、イギリス人船長や欧米人の船員は、責任を問われることなく全員無罪。この判決結果に日本国民は激怒し、全国各地で領事裁判権に対する反発の声が大きくなります。
陸奥宗光外務大臣が治外法権の撤廃を実現
ノルマントン号事件に端を発し、日本国内では「欧米列国と結んだ不平等条約を改正せよ」「司法に外国人を介在させるな」などの論調が高まります。しかし、日本の法制度が未熟という理由から欧米列国は、領事裁判権などを含めた治外法権の撤廃をなかなか承諾しません。
躍起になる明治政府の中に、世界情勢を冷静に見極めている人物がいました。外務大臣の役職にいた陸奥宗光(むつむねみつ)です。
当時、東アジアに進出するロシアを警戒していたイギリス。陸奥宗光は、そのイギリスに協力する条件として、不平等条約の改正を巧みに持ちかけます。ロシアの勢いを止めたいイギリスとの利害を一致させた陸奥宗光は、1894年に「日英通商航海条約」の調印に成功。領事裁判権の撤廃や関税自主権の一部回復といった治外法権の撤廃を実現させました。
それ以降、アメリカ・ロシア・ドイツ・フランスといった他の欧米列国とも同じ内容の条約を結んでいきます。さらに日清戦争・日露戦争に勝利を収め、国際的地位を高めた日本は、1911年に関税自主権をすべて回復させるなどを含めた条約改正を各国と行い、ここで治外法権は完全に撤廃されたのです。
日本の自主権と尊厳を手にした治外法権撤廃の歴史
日本でも、約50年以上に渡り、治外法権が認められた時代があったのです。領事裁判権や関税自主権の放棄といった治外法権撤廃のため、当時の明治政府は、アメリカ・イギリス・ロシアなどの欧米列国を相手に気の遠くなる交渉を続けたようです。
現代では当たり前となっている日本という国家の自主権と尊厳も、陸奥宗光をはじめとする明治政府の尽力があったからこそ、といっても過言ではないのかもしれません。治外法権の意味を詳しく知ることにより、改めて日本の歴史や法制を学ぶチャンスにしてみてください。
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文・構成/HugKum編集部