江戸の三大改革の一つ「享保の改革」とは? 内容をわかりやすく解説【親子で歴史を学ぶ】

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「江戸の三大改革」として教科書にも登場する、享保の改革についてご存じでしょうか。享保の改革は、江戸幕府8代将軍である徳川吉宗が自ら先頭に立って行ったことでも有名です。享保の改革がもたらした影響や、さまざまな政策について見ていきましょう。
<画像:徳川吉宗公像(和歌山市吹上)>

享保の改革とは?

「享保(きょうほう)の改革」は、江戸の三大改革に数えられる重要な出来事です。徳川吉宗(とくがわよしむね)によって行われた改革の内容について解説します。

徳川吉宗が行った財政改革

徳川吉宗は、江戸幕府の第8代将軍であり、時代劇「暴れん坊将軍」の主人公としてもよく知られています。徳川宗家(そうけ)の直系男子が絶えたことで、御三家(ごさんけ)から初めて将軍になった人物としても有名です。

紀州藩主・徳川光貞(みつさだ)の息子として生まれた吉宗は、若くして紀州藩主を継ぐことになりました。当時の紀州藩は財政的に厳しい状況でしたが、吉宗は節制を心掛けてこの状況を改善したのです。

1716年(享保元年)に将軍となった吉宗は、紀州藩での経験を生かして幕府の財政改革に乗り出しました。こうして、将軍自らが先頭に立って取り組んだのが享保の改革です。

和歌山城(和歌山市)。虎伏山(とらふすやま)に連立式天守が立つ。吉宗は1705(宝永2)年から将軍となる1716(享保元)年まで若き名君として居城。天守の手前にある「御橋(おはし)廊下」は屋根と壁があり、二の丸と西の丸をつなぐ斜めに架かる橋で、通行可。

質素倹約と財政再建

吉宗は、まず倹約に励むことで余分な出費を抑えようとしました。正室や側室など多くの女性たちが暮らす大奥(おおおく)の人員を削減したのも、吉宗が行った改革の一つです。

吉宗は贅沢(ぜいたく)を禁じる「倹約令」を出すなどして、武士に対して質素な生活を求めました。吉宗自身も木綿(もめん)の服を着たり、普段の食事は一汁一菜にしたりと、質素な暮らしを実践したのです。

また、年貢による収入を増やすことも重視しました。農民の年貢率を四公六民(しこうろくみん)から五公五民に引き上げたり、新田の開発に力を入れたりしたことから、吉宗は「米将軍」とも呼ばれました。

「寛政の改革」「天保の改革」との違い

享保の改革・寛政(かんせい)の改革・天保(てんぽう)の改革を総称して「江戸の三大改革」といいます。将軍自ら行った享保の改革に対して、残り二つの改革は、老中によって行われたのが特徴です。

寛政の改革は、吉宗の孫である松平定信(まつだいらさだのぶ)によって始められました。定信は祖父・吉宗を理想とし、「囲米(かこいまい)」や「七分積金」で飢饉(ききん)に備えるなど、およそ6年にわたって倹約を意識した厳しい政治を行ったのです。

天保の改革が始まった1841年(天保12年)には、立て続けに飢饉が起こったため、打ちこわしや百姓一揆が多発しました。老中の水野忠邦(みずのただくに)は幕府の権威を保とうと民衆を厳しく取り締まったものの、反発を受けて2年ほどで失脚してしまったのです。

▼「寛政の改革」「天保の改革」についてはこちら

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享保の改革が行われた背景

節制を奨励した享保の改革に対しては、農民や武士からの反発も起こりました。吉宗が厳しい改革を行った背景を見ていきましょう。

家康時代の政治への回帰

武力によって国を支配しようとする武断(ぶだん)政治に対して、学問や教養を通じて人民を支配する政治体制を文治(ぶんち)政治といいます。6代将軍徳川家宣(いえのぶ)と7代将軍の家継(いえつぐ)の時代は「正徳の治(しょうとくのち)」と呼ばれ、文治政治の最盛期でした。

幕府を中心に各藩をまとめる幕藩体制が安定して以降は、長らく文治政治が行われていました。しかし、吉宗は家康時代の政治を目指して思い切った改革を実践したのです。

というのも、幕府の財政が苦しくなった背景には、文治政治による気の緩(ゆる)みがありました。吉宗は武断政治に回帰することで、世の中を引き締めようと試みたのです。

徳川吉宗(イメージ)

享保の改革の主な政策を紹介

倹約令以外にも、さまざまな面に目を向けているのが享保の改革の特徴です。吉宗が行った主な政策を紹介します。

年貢の増収へ「五公五民」「新田開発」

吉宗は、農民が年貢として納める米の配分を「四公六民」から「五公五民」に引き上げました。収穫した米の半分を年貢として納めることになったため、農民の生活は厳しくなる一方でした。

また、吉宗は新田開発に取り組んだことでも知られています。紀州藩で使われていた新しい技術を取り入れることで、効率的に開発が進んだようです。

新田が増えたことで、幕府が得られる年貢の額も大きくなりました。米将軍と呼ばれるほど米と田に力を入れることで、結果的には安定した増収に成功したのです。

大名から米を集める「上げ米の制」

1722年(享保7年)、財源となる米を集めるため、大名から献上米を集める「上げ米の制(あげまいのせい)」が定められました。献上米は、1万石あたり100石となっており、大大名ほど納める額が多くなる仕組みです。

吉宗は、大名たちに米を献上させる代わりに、参勤交代(さんきんこうたい)で江戸に滞在する期間を短縮しました。江戸と領国(りょうごく)を行き来する参勤交代は、大名にとって大きな負担になっていたため、期間を1年から半年にして大名の不満を軽減させたのです。

新田開発の成功もあり、上げ米の制は1730年(享保15年)に廃止されました。吉宗は、年貢と献上米を集めることで幕府の収入を増加させたのです。

庶民の声を聞く「目安箱」

紀州藩主を務めていたころ、吉宗は「訴訟箱」を設置して庶民からの意見や不満を聞いていました。このときのアイデアが、後の「目安箱(めやすばこ)」につながったのです。

「火事と喧嘩(けんか)は江戸の華」ともいわれるように、江戸は火事が多い土地でもありました。目安箱に届いた防火の提案を採用するなど、実際に意見が反映されたケースもあるようです。

また、目安箱は貧しい庶民の声を聞く政策としても役立てられました。無料で診療が受けられる「小石川養生所(こいしかわようじょうしょ)」を設立したのも、庶民からの要望がきっかけです。

小石川植物園(東京都文京区)。現在は東大附属植物園だが、「小石川養生所」は明治になり廃止されるまでここにあった。目安箱に町医者・小川笙船(しょうせん)の直訴があり、吉宗は忠相に命じて養生所を設置させた(1722)。笙船は、「赤ひげ診療譚」のモデル。

「公事方御定書」の制定

吉宗は、1742年(寛保2年)に「公事方御定書(くじかたおさだめがき)」を完成させました。これは、現在の刑法や民法のような体系的な法律であり、以前の判例をまとめているのが特徴です。

それまでは、何かトラブルが起こるたびに裁判を開いていましたが、判例をまとめた公事方御定書が制定されてからは「この場合は、こうすればよい」と判断できるようになりました。いちいち御触書(おふれがき)を出す必要がなくなり、裁判にかかる手間や費用が削減されたのです。

また、罪を犯した人の社会復帰をサポートする「更生(こうせい)」という思想は、中国の法制度を参考にしたと考えられています。法整備に力を入れたことから、吉宗は「米将軍」だけでなく「法律将軍」とも呼ばれていたそうです。

その他の政策

享保の改革では、経済以外にも幅広い分野の政策が講じられました。禄高(ろくだか、給与)が足りないために役職に就けない優秀な人材に対して、在職中だけ不足分を加増する「足高の制(たしだかのせい)」もその一つです。

吉宗は、足高の制を利用して有能な人物を登用しました。金の貸し借りのトラブルを当事者同士で解決させる「相対済し令 (あいたいすましれい)」は、公事方御定書と同様に裁判の回数を減らすためのアイデアです。

江戸町奉行の大岡忠相(おおおかただすけ)を中心に、火事に対する自治組織である「町火消(まちびけし)」を設置したのも吉宗の功績といえます。時代劇「大岡越前」のモデルにもなった忠相は、町奉行として享保の改革で大きな役割を果たしました。

享保の改革による影響

享保の改革は、経済的には成功した一方で、強い反発も招きました。改革によって起こった出来事や、その後の影響をチェックしましょう。

幕府の財政を黒字に導く

開発によって米を育てる新田自体を増やしたことで、献上米や年貢などの収入は増加しました。赤字だった幕府の財政が黒字化したのは、享保の改革による大きな功績です。

さらに、吉宗は過去の収穫量から年貢高を決める「定免法(じょうめんほう)」を制定しました。年貢高が一定になったため、役人による不正が行われにくくなったのがこの制度のメリットです。

米の収穫量の増加は、幕府財政の安定にもつながりました。短い期間で成果を挙げた点を見ると、享保の改革は、優れた経済政策だったといえるでしょう。

百姓一揆や打ちこわしが増加した

享保の改革で、幕府の財政状況は改善したものの、税を納める民衆の負担は大きくなりました。収穫した米の半分が年貢にされてしまう五公五民の税負担は、農民にとって厳しいものだったのです。

このため、年貢の高さに不満を持つ百姓たちの一揆が増加していきます。1732年(享保17年)には享保の大飢饉が起こり、米の値段が上がったことで、貧しい人々が米商人を襲う「打ちこわし」が多発しました。

幕府はこの反省を踏まえて、飢饉の際の食料として、さつまいもを育てるよう奨励しました。享保の改革で財政は持ち直したものの、不満を抱える農民が多かったことも覚えておきましょう。

財政を立て直したが、批判もあった「享保の改革」

紀州藩主であった徳川吉宗は、藩の財政難を立て直した経験を生かして享保の改革に取り組みました。目安箱を設置して庶民から意見を求めるなど、吉宗は柔軟な考え方を持った人物でもあったのです。

新田開発によって、米の収穫量が増加したほか、献上米や年貢などを増やしたことで、幕府の収入は増加しました。しかし、幕府の財政が改善された半面、農民の不満は大きくなる一方だったのです。

農民たちは、年貢の引き上げで厳しい生活を送っていたため、享保の大飢饉をきっかけに百姓一揆や打ちこわしが多発しました。財政の黒字化に成功したと同時に、享保の改革には農民からの強い反発があったという事実も、あわせて覚えておきましょう。

もっと深く知りたい人のための参考図書

小学館版学習まんが  ドラえもん人物日本の歴史10「徳川吉宗」

小学館版学習まんが  少年少女人物日本の歴史「徳川吉宗 幕府をたて直した米将軍」

ポプラ社 時代の流れがよくわかる!歴史なるほど新聞7「八代吉宗、享保の改革を始める」

吉川弘文館 歴史文化ライブラリー「紀州藩主 徳川吉宗 名君伝説・宝永地震・隠密御用」

小学館文庫  逆説の日本史15「近世改革編 官僚政治と吉宗の謎」

講談社学術文庫 近世日本国民史「徳川吉宗」

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構成・文/HugKum編集部

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