勝海舟のエピソードや功績
勝海舟は幕府でも明治新政府でも重要な役割を果たした人物です。その人柄が分かるエピソードや、功績について見ていきましょう。
生まれは貧乏な旗本
旗本でありながら役職のない父を持つ勝海舟は、子ども時代から結婚後まで貧しい暮らしをしていました。そのような中でも剣術に励み、10代からは剣術家の島田虎之助に師事しています。
島田にすすめられて、永井青崖に弟子入りし西洋兵学を学ぶと、1850年に蘭学と兵法学の私塾である蘭学塾を開きました。
幕府へ出仕するようになるのは、ペリー来航の際に老中・阿部正弘が、海防についての意見書を広く募ったことがきっかけです。
勝海舟が上申した意見書が老中の目に留まり、海岸防禦御用掛の大久保一翁に認められたことで、洋学教授や翻訳のために幕府が設立した学校「蕃書翻訳所」へ出仕することとなりました。また長崎海軍伝習所へも入門しています。
咸臨丸で渡米

日米修好通商条約の批准書交換のために、幕府はアメリカへ使節団を送りました。このとき使節団の中心となったのが、新見正興(しんみ まさおき)や小栗忠順(おぐり ただまさ)です。勝海舟は使節団が乗ったポーハタン号に同行する随行役として、福沢諭吉らとともに咸臨丸で渡米しています。
アメリカで近代化した政治・経済・文化などに触れたことをきっかけに、帰国後は近代化の推進に取り組みました。海軍増強に向けて海軍学校を創設し、人材育成に努めたのもその一環です。
江戸城無血開城の立役者
大政奉還のあと、明治新政府は天皇中心の政治体制に戻す王政復古の大号令を発表して、旧幕府の勢力を排除しようとしました。この動きに旧幕府側が反発して鳥羽・伏見の戦いが起こりますが、旧幕府側は敗退します。
このとき西郷隆盛が率いる明治新政府軍が江戸へ進行し始めていました。このままでは江戸に大きな被害が出ると判断した勝海舟は、恭順を主張します。
時の将軍である徳川慶喜が恭順を選択したことから、勝海舟は西郷隆盛と会談を行い、江戸城無血開城が決まりました。
江戸幕府でも明治政府でも活躍
勝海舟は幕臣として要職に就いていましたが、明治新政府でも活躍しました。明治新政府へ出仕して活躍した元幕臣は多くありません。
他の幕臣と異なり、勝海舟が明治新政府でも引き続き活躍できたのは、薩摩藩をはじめとする各藩と太い関係性を築いていたからだといわれています。
参考:中高生のための幕末・明治の日本の歴史事典|国立国会図書館
:【江戸城】無血開城への強い思いが江戸最大の危機を回避した|城びと
勝海舟の名言

勝海舟はさまざまな名言を残しました。今に残る名言の中でも、代表的なものを解説します。
行蔵は我に存す。毀誉は他人の主張、我に関せず
福沢諭吉は「痩我慢の説」で江戸城無血開城について批判しました。この批判に対して勝海舟が返したのが「行蔵は我に存す。毀誉は他人の主張、我に関せず」という言葉です。
行蔵とは、世に出て手腕を振るうこと、または世に出ないことを表します。毀誉は悪口を言うこととほめることです。
つまり「やるかやらないかは自分のこと。けなしたりほめたりするのは他人のことで、自分のあずかり知らないことだ」という意味合いです。
敵は多ければ多いほど、面白い
勝海舟は敵がいなければ「事ができぬ」と考えていました。国家というものは、反対意見を出し合ってわいわい言い合うのがよい、とも考えていたそうです。
このような考えが根底にあることから「敵は多ければ多いほど、面白い」という言葉が生まれたと推測できます。
急いでも仕方がない。寝ころんで待つのが第一
貧乏な出自で出世に対する意欲が強いといわれている勝海舟ですが、タイミングを待つことの大切さに関する「急いでも仕方がない。寝ころんで待つのが第一」という名言もあります。
急いで行動するばかりではうまくいかないことがある、といった意味合いです。
参考:〜探訪・大田区立勝海舟記念館〜|ユニークおおた
:勝海舟 「みんな敵がいい」トップに忖度せず我を貫く胆力|日経BOOKPLUS
勝海舟と偉人との関係
勝海舟は今でも広く知られている偉人とも多く関わりがありました。ここでは弟子の坂本龍馬と、ライバル関係の小栗忠順について紹介します。
勝海舟に弟子入りした坂本龍馬

坂本龍馬は、海軍増強をはじめとする近代化を推し進めようとする勝海舟のことを、開国派と考えていました。初めて対面するときには、場合によっては勝海舟を刺す心づもりだったそうです。
それが一転、弟子入りすることになったのは、外国との交易を通して国力をつけていくべきだとする、勝海舟の見識の広さに感化されたためでした。
勝海舟とライバル関係の小栗忠順

2027年の大河ドラマ「逆賊の幕臣」の主人公・小栗忠順と勝海舟はライバル関係でした。同じように旗本の家に生まれた幕臣同士ですが、勝海舟が貧乏育ちの成り上がりであるのに対して、小栗忠順は裕福な家庭のエリートです。
どちらも日米修好通商条約の批准書交換のために渡米していますが、小栗忠順は使節団の一員で勝海舟は随行役でした。帰国後も横須賀製鉄所を作り海軍増強のハードを整える小栗忠順に対して、勝海舟は人材育成のための海軍学校でソフト面の強化を目指しました。
また鳥羽・伏見の戦いに大敗したときには、小栗忠順が抗戦を、勝海舟が恭順を主張しました。
幕末の三舟(さんしゅう)
幕末から明治時代初期に活躍した幕臣として、勝海舟・山岡鉄舟・高橋泥舟は「幕末の三舟」とよばれています。江戸城無血開城にも関わっている人物たちです。ここでは幕末の三舟のうち、山岡鉄舟と高橋泥舟について見ていきましょう。
山岡鉄舟(やまおかてっしゅう)

江戸城無血開城のときに、西郷隆盛と条件をすり合わせて話を付けたのは、山岡鉄舟であるという説があります。徳川慶喜の命令を受けて、西郷隆盛が今の静岡市にあたる駿府に滞在中に直談判したそうです。
西郷隆盛からは総攻撃中止のための7つの条件が提示されました。このとき山岡鉄舟は「徳川慶喜の身柄を備前藩預かりにする」という条件だけは受け入れなかったといわれています。
「主君が同じ立場になったときに、他藩に預けるのか」と詰め寄った山岡鉄舟に、西郷隆盛が折れたそうです。
事前の直談判があったため、勝海舟と西郷隆盛が会談を行ったときには、既に条件が決まっていました。
高橋泥舟(たかはしでいしゅう)

高橋泥舟は江戸城無血開城の交渉の際に、山岡鉄舟を使者とするよう徳川慶喜に推した人物です。山岡鉄舟は妹婿で義理の弟にあたります。高橋姓となっているのは、旗本の山岡家から母方の高橋家へと養子に入ったためです。
槍術に優れており、従五位伊勢守に任じられるまでになったひたむきさは、勝海舟から「馬鹿正直」と評されています。
参考:江戸城無血開城の功労者は山岡鉄舟 勝海舟の役割限定的か|産経新聞
:第5回 【江戸城】無血開城への強い思いが江戸最大の危機を回避した|城びと
:高橋泥舟|近代日本人の肖像(国立国会図書館)
2027年の大河へ向けて勝海舟をチェック
勝海舟は幕末から明治にかけて活躍した人物です。日米修好通商条約の批准書交換の随行役として渡米したあと、帰国後に海軍学校を創設して、人材育成から海軍増強に努めました。
また江戸を戦場にしないために、鳥羽・伏見の戦いに幕府が大敗したあとは恭順を主張して、江戸城無血開城へとつなげた人物としても有名です。
このとき抗戦を主張した小栗忠順とは、ライバル関係であったといわれています。小栗忠順が主人公の2027年の大河ドラマ「逆賊の幕臣」では、勝海舟との関係も描かれるでしょう。
幕府に出仕していた幕臣でありながら、明治新政府でも要職に就いている稀有な存在でもあります。広い見識や各藩との良好な関係性により、長く活躍した人物といえるでしょう。
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構成・文/HugKum編集部