小栗忠順のエピソード
小栗忠順は幕府に仕える旗本として、日本の近代化をけん引した人物です。2027年の大河ドラマ「逆賊の幕臣」の主人公としても注目されています。ここでは小栗忠順がどのような人物だったのかが分かるエピソードを見ていきましょう。
名門生まれのエリート
新潟奉行で2,500石の旗本である小栗忠高の嫡男として生まれた小栗忠順は、家柄も才能も申し分ないエリートでした。武道も学問も優秀で、剣術は幕末の三剣士として知られている島田虎之助から直心陰流(じきしんかげりゅう)の免許皆伝を受けています。
武士でありながら経済に詳しかったため、勘定奉行を何度も務めたのも特徴です。
日本を発展させるには欧米の文化を利用した近代化が必要だが、すべてにおいて西洋文化を取り入れるべきではないと考えていた人物です。

意見を曲げず左遷されることも
自分の考えを明確に持っていた小栗忠順は、目上の人が相手であっても自分の意見を曲げることのない頑固さを持っていました。
反発を受けて左遷されることもありましたが、有能な人物であったことから、呼び戻されることも多かったそうです。
アメリカから持ち帰ったネジ
小栗忠順は日米修好通商条約批准書交換使節の一員としてアメリカに渡りました。このときに持ち帰ってきたのがネジです。今は群馬県高崎市の東善寺に保管されています。
大河ドラマ「青天を衝け」では、武田真治が演じる小栗忠順が斬首の直前に口からネジを出して不敵に笑うシーンがありました。事実とは異なる演出ですが、小栗忠順とネジを印象付けるものでした。
ネジを小栗忠順がどのような思いで持ち帰ったかについて、正式な記録は残っていませんが、近代化の象徴としてもらい受けたのではないか、と考えられています。
出典:2027年 大河ドラマ「逆賊の幕臣」主人公・小栗忠順役は松坂桃李さん!|NHK
:小栗忠順|近代日本人の肖像
:小栗忠順と清麿の刀 山浦環正行|刀剣ワールド
小栗忠順の功績

小栗忠順は幕臣という立場で、日本の近代化に貢献した人物です。具体的にどのような功績を残しているのかを見ていきましょう。
横須賀製鉄所の建設
西洋諸国から日本を守るためには、海軍の増強が必要でした。小栗忠順はそのために、横須賀製鉄所の建設を計画します。このとき横須賀製鉄所ができたことで、日本国内での造船が可能となり、海軍の発展につながっていきました。
さらに横須賀製鉄所では、近代的な雇用制度も導入しています。部長・課長などの役職を定めたり、時計を導入して労働時間を管理したり、月給制を導入したりしたそうです。加えて簿記も西洋様式のものを導入しました。
現在の雇用制度や企業経営につながる仕組みで運営された場でもありました。
財政や軍制の改革
海軍の増強を目指していた幕府は外国から船を購入していました。ただし故障すると外国で修理するため費用がかさみます。この費用が幕府の財政を圧迫していました。
このような状態から、幕府の財政を立て直すために財政改革を行ったのも小栗忠順です。役人の俸給表を作り、賄賂を禁止しました。
さらに行政の改革として、藩制から郡県制への移行と大統領制の導入も主張していたそうです。
また軍制改革として、フランス式の歩騎砲三兵制度の導入や、装備の近代化などを行っています。大砲や小銃を作るための施設建設にも携わりました。
為替レートの交渉や通貨制度の整備
当時、外国と日本では金と銀の交換比率が異なりました。外国では金1は銀15の価値がありましたが、日本では金1は銀5の価値で、金の価値が低く設定されていました。貿易が始まると、この違いを利用して小判金貨が外国に大量に流出します。
このとき、通貨の分析比較を行って、新たな為替レートに見直すよう交渉したのが小栗忠順です。
また横浜貿易用に、金貨や銀貨と交換できる兌換紙幣「江戸横浜通用札」の発行も行いました。政府公認で発行されたものとしては、日本初の兌換紙幣です。国立銀行を設立する構想もあったといわれています。
出典:小栗忠順|近代日本人の肖像
:近代日本のルーツ横須賀製鉄所|横須賀市
:小栗上野介忠順のすごい功績とは…『青天を衝け』外伝|読売新聞オンライン
:米国相手に貫いた主張 小栗の通貨分析実験|上毛新聞
日本初の株式会社を設立
日本初の株式会社といえば坂本龍馬が設立した亀山社中が有名です。ただし定款を作成し、役員を任命した上で株式会社を設立したのは、小栗忠順の兵庫商社が初めてです。幕府の新規事業として小栗忠順が提案しました。
三井・鴻池・加島屋などが出資してできた株式会社でしたが、幕府主導で設立した会社であったことから、倒幕により解散しました。
出典:日本初の「株式会社」、誰がつくった?|JBpress
:幕末・明治初期の商社誕生に関わった人々|近代日本人の肖像
小栗忠順のライバル勝海舟

小栗忠順と同世代の人物に勝海舟がいます。勝海舟がどのような人物だったのかを確認した上で、小栗忠順との関係性を見ていきましょう。
勝海舟とは
勝海舟も小栗忠順と同じく旗本の父のもとに生まれました。ただし勝海舟の父は役職がなく、子どもの頃から貧乏な暮らしが続いたそうです。
小栗忠順が日米修好通商条約批准書交換使節の一員として渡米したとき、勝海舟も随行役として咸臨丸で渡米しています。この経験を元に、勝海舟は海軍学校の創設を目指すこととなりました。
世界情勢に対する幅広い知識を持つ勝海舟に惹かれて集まった門下生には、坂本龍馬や赤松小三郎などがいます。
また西郷隆盛との会談によって実現した、江戸城無血開城の立役者としても有名です。幕臣でありながら、明治新政府で要職に就いた人物でもあります。
小栗忠順と勝海舟の関係性
生まれながらのエリートであった小栗忠順に対して、勝海舟は貧乏からの成り上がりで出世への意欲が強い人物でした。2人はライバル関係にあったようです。
日米修好通商条約批准書交換使節とその随行役として渡米し、帰国したあとの取り組みも、海軍の増強という点では共通していますが、小栗忠順は横須賀製鉄所を作りハードの強化を目指し、勝海舟は海軍学校の創設でソフトの強化を目指しました。
また幕府軍が鳥羽伏見の戦いで大敗したとき、小栗忠順は抗戦を、勝海舟は恭順を主張しています。時の将軍である徳川慶喜は恭順を選択しました。
出典:勝海舟|中高生のための幕末・明治の日本の歴史事典
:徳川最後の幕臣たち勝海舟&小栗忠順|THEナンバー2
偉人が言及した小栗忠順

さまざまな偉人が小栗忠順について言及し、高く評価しています。
例えば、立憲改進党を作って総理大臣となり、日本で初めて政党内閣を発足させた大隈重信は「明治政府の近代化政策は小栗忠順の模倣に過ぎない」と言いました。
明治新政府で兵制の近代化に取り組んでいた大村益次郎は「幕府軍が小栗候の献策を用いていれば、我々の首は無かった」と語ったそうです。
東郷平八郎は日本海海戦でロシア軍のバルチック艦隊を全滅させましたが、その功績について「日本海海戦にて日本が勝利できたのは、小栗候が横須賀に造船所を設けたおかげである」としています。
参考:『消された「徳川近代」明治日本の欺瞞』原田伊織/著 小学館刊
日本の近代化をけん引した小栗忠順
小栗忠順は文武両道で経済に詳しい幕臣として、何度も勘定奉行を務めています。日米修好通商条約批准書交換使節の一員としてアメリカを訪問し、帰国したあとは、海軍の増強に向けて横須賀製鉄所を作りました。
その他にも近代化のために、財政や軍制を改革したり、幕府の新規事業として株式会社を設立したり、外国との為替レートの交渉をしたりしています。
これらの功績は明治期に活躍した偉人も高く評価しており、大隈重信・大村益次郎・東郷平八郎といった人物も、小栗忠順に言及しています。現在の日本に続く基礎を築いた人物といえるでしょう。
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構成・文/HugKum編集部