大隈重信は何をした人? 暮らしや教育の近代化に貢献した一生を解説【親子で偉人に学ぶ】

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大隈重信は、日本を近代国家に導いた偉人の一人です。維新直後から大正時代にかけて、何度も政府の要職に就き、内政や外交に精力的に取り組みました。
大隈重信がどのような人物だったのか、功績やエピソードを分かりやすく紹介します。

大隈重信の生い立ち

「大隈重信(おおくましげのぶ)」は、子どものころから頭が良く、先進的な考え方の持ち主でした。若いころに英語をマスターし、ビジネスセンスも磨いています。出生から明治政府に入るまでの、前半生を見ていきましょう。

佐賀に生まれ、成績優秀な少年時代を過ごす

大隈は1838(天保9)年に、佐賀藩士・大隈信保の長男として生まれました。暮らしは裕福なほうで、教育熱心な母親の愛情を受けて、成績優秀な少年に育ちます。

大隈重信記念館(佐賀市水ケ江)。大隈の貴重な遺品や資料が展示されている記念館。隣接して大隈が産声をあげた生家が現存しており、天保以前の武家屋敷の面影を残す「国の史跡」に指定されている(1965)。

 

佐賀藩は、長崎の警備を担当していたことから、海外の文化に触れる機会が多く、藩主の鍋島直正(なべしまなおまさ)も開明的な人物でした。

しかし、大隈が学んだ藩校「弘道館(こうどうかん)」では、武士の心がまえを説く前時代的な教育が続きます。

藩校の教育方針に反発した大隈は、18歳のときに他の寮生と喧嘩(けんか)して、退学処分となりました。その後は、藩が運営する「蘭学寮」に入り、西洋の医学や兵学、政治経済などを学んでいます。

長崎で英語を習得する

蘭学寮でも優秀な成績を修めた大隈は、藩主の命で長崎に行き、オランダ人宣教師・フルベッキの元で英語やアメリカの法律などを学びます。

その後、フルベッキは藩が長崎に開設した英語学校「致遠館(ちえんかん)」の校長に招かれ、大隈は教頭格となって学生の教育と学校運営にあたりました。

長崎で過ごした時期に、大隈はトーマス・グラバーや、坂本竜馬、岩崎弥太郎などと出会い、ビジネス力も磨きます。そして得意な英語を駆使して、海外との交易で藩の財政を潤しました。

豊かになった佐賀藩は、洋式の武器を揃えて旧幕府軍との戦い「戊辰(ぼしん)戦争」で活躍します。その結果、佐賀藩は薩摩・長州・土佐とともに、維新に貢献した藩として、新政府の国づくりに大きくかかわることになります。

大隈重信の主な功績

明治維新後、新政府に入った大隈重信は、持ち前の先進的思考と語学力を発揮して多くの功績を残しました。特に知っておきたい三つの功績を紹介します。

鉄道建設と電報の整備

大隈は、明治の初期に実施された近代化政策の多くに、深く携わっています。特に「鉄道の建設」は、明治初期に大隈が手がけた最大の事業でした。

「日本にも鉄道の時代が来る」と考えた大隈は、最高責任者として用地の買収や資金集めを進めます。しかし、国家予算を軍備にまわすべきと主張する西郷隆盛の反対にあってしまいました。

反対派に用地の測量を妨害され、困った大隈は、東京・高輪(たかなわ)の海に石垣の堤防を築き、その上に線路を通そうと考えます。大胆な発想でピンチを切り抜け、1872(明治5)年、ついに新橋と横浜を結ぶ日本初の鉄道開業にこぎつけました。

高輪築堤(東京都港区)。JR東日本山手線「高輪ゲートウェイ駅」と、駅西側周辺の再開発工事の際に、明治時代の文明開化の象徴ともいえる「高輪築堤(ちくてい)」の遺構が、約1.3kmにわたって発見された。大隈たちが海の上に築いた石垣の堤防が、その姿を現したのだ。現地保存、移築保存が決定され、佐賀県立博物館にも復元される。

 

また、大隈は電報の整備にも取り組んでいます。1869(明治2)年に東京・横浜間で始まった電報は、1875年ごろには全国の主要都市をカバーできるまでに整備が進みました。

初の政党内閣を組織

大隈は、イギリスの議院内閣制にならい、日本も「憲法の制定」や「議会の開設」を目指すべきと主張します。しかし、当時の日本にはまだ早いとされ、主張は受け入れられませんでした。

失望した大隈は、1882(明治15)年に自ら「立憲改進党(りっけんかいしんとう)」を結成し、いつか議会政治を実現しようと備えます。彼の予想通り、やがて日本でも政党政治を求める声が高まりはじめました。立憲改進党結成から16年後の1898(明治31)年に、大隈はようやく内閣総理大臣として、日本初の政党内閣を誕生させます。

なお、薩摩・長州以外の政治家で総理大臣になったのは、大隈が初めてです。初めて尽くしの大隈内閣は、日本の政治に「新しい風」を起こす存在として期待されました。

早稲田大学を創立

大隈は1882年に、現在の早稲田(わせだ)大学の前身「東京専門学校」を創立しています。当時の官営大学は、官僚の養成を主目的としていたため、大隈は「若者がもっと自由にさまざまな学問を学べる場所」が必要だと考えました。

東京専門学校は、1902(明治35)年に大学に昇格し、名を早稲田大学と改めます。構内には大隈の銅像があり、学生たちを見守っています。

しかし、生前の大隈は、教育は政治から独立するべきとして、創立者でありながら、大学を訪れることは少なかったようです。

早稲田大学(東京都新宿区)。早稲田キャンパスを、正門側から見た光景。大隈は、1913(大正2)年の創立30周年記念祝典において、早稲田大学教旨を宣言した。「学問の独立」「学問の活用」「模範国民の造就」の基本理念だ。前島密(ひそか)が揮ごうした石碑は、現在は正門の外側左にあり、誰でも自由に見られる。

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大隈重信にまつわる有名エピソード

大隈重信は、約40年の政治家人生の中で、失敗も多く経験しています。しかし、多少の失敗はものともせず、再起する力も持っていました。

大隈の人柄がよく分かる、有名なエピソードを紹介します。

一度は政界を追放された

維新直後から政府の要職に就いていた大隈ですが、1881年に政界を追放される「明治14年の政変」が起こります。このころの大隈は、議会の開設や財政政策をめぐって、薩摩・長州出身の幹部と対立していました。

そこに、北海道開拓使の「官有物払い下げ」に対する反対運動が起こり、大隈は運動の中心人物とみなされてしまいます。

官有物払い下げ問題とは、国が北海道開拓のためにつくった牧場や工場などを、薩摩出身者らに有利な条件で払い下げることを認めた事件です。

政治を私的に利用したとして、国民の怒りを買いました。政府は事態を収拾させるために払い下げを中止しますが、同時に、大隈も反対派に加担したとして、政府を追われる羽目になります。

爆弾で片足を失う

政府を追放された後も、大隈は立憲改進党の党首として政治活動を続けます。1888(明治21)年には外交能力を買われ、外務大臣として復帰しました。

大隈は、日本が海外と結んだ不利な条約の改正に取り組みますが、思うような結果が出せません。復帰翌年には、交渉内容に怒った過激派に、爆弾を投げつけられます。

命は助かったものの、右脚を失う重傷を負い、大隈は外務大臣を辞任しました。義足生活を強いられることになった大隈ですが、犯人を恨んだり自分の不幸を嘆いたりすることはなかったようです。

最後は国民に慕われる政治家に

爆弾事件から9年後、大隈は初の政党内閣を実現します。1914(大正3)年には、76歳で2度目の内閣総理大臣に就任し、78歳まで務めた後、政界を引退しました。

78歳は、現職総理大臣の年齢としては最高齢記録であり、いまだに破られていません。

1922(大正11)年、大隈は83年の生涯を閉じます。要職を歴任しただけでなく、教育に力を入れたり議会政治を始めたりと、多方面で活躍した功績は、すでに国内外に広く知られており、東京・日比谷公園での葬儀(国民葬)の参列者は約30万人にものぼったといわれます。

地元の佐賀や国会議事堂、早稲田大学など、ゆかりの地に銅像が建てられていることも、大隈が多くの人に慕われていた証(あかし)といえるでしょう。

大隈重信銅像。早稲田大学創設50周年を記念して、1932(昭和7)年に設置された三代目の銅像。制作は彫塑家・朝倉文夫で、今でも早稲田キャンパス中央に立っている。大隈講堂に正対するこの銅像は、太い竹のステッキを突いていて、その姿は「爆弾事件後」を物語っている。

明治を豪快に駆け抜けた大隈重信

佐賀藩主の元で、西洋の学問を修めた大隈重信は、自身の能力をいかんなく発揮して、日本の近代化に貢献しました。現在、私たちの暮らしに欠かせない鉄道や通信網が整備されたのも、大隈をはじめとする当時の人々の情熱のおかげです。
失敗や挫折(ざせつ)も多く、命の危機にも見舞われた波乱万丈の人生でしたが、前向きな姿勢を崩さず常に未来を見据える姿は、国民から絶大な支持を集めました。
激動の時代を豪快に駆け抜けた大隈重信について学び、明治の日本に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。

もっと知りたい人のための参考図書

早稲田新書 「大隈重信と早稲田大学」

岩波文庫 「大隈重信自叙伝」

小学館ウイークリーブック 池上彰と学ぶ日本の総理17「大隈重信」Kindle版

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