56歳で父に、45歳で母に。生死をさまよった高齢出産「妻を助けてください」妊娠7カ月で妻が救急搬送、祈るしかなかった

産経新聞社の編集長職だった中本裕己さん、妻の妊娠がわかったのは56歳のとき。うれしさは200%だったけれど、今後の暮らしはどうなるの?という不安も……。しかし、そんな中、妊娠7カ月で妻の呼吸が乱れ、救急車で運ばれます。妻の命は、子どもの命は――!? 酸素吸入器をつけて息絶え絶えの妻のリアルを体験した夫・中本さんが語る、高齢出産・高齢子育て。まずは出産までのジェットコースタードラマをお聞きください!

大人の結婚、妻には子宮筋腫があり子どもはいなくてもいいと思っていたけれど……

――中本さんご夫妻は結婚して9年目にお子さんを授かったのですね

彼女と出会ったのは僕が48歳のときでした。同業者が集まる飲み会で友達になり、その後お付き合いを重ねて「結婚しようか」ということになりました。妻は動画制作を仕事にしていて、当時は37歳。彼女は初婚だったけれど僕は再婚でした。

彼女はとても仕事熱心な人です。結婚に際して子どもの話もしたし、ふたりの子どもならかわいいだろうね、と思っていたけれど、お互いに忙しかったですし、どうしてもほしいという感じではありませんでした。

それに、彼女には子宮筋腫があって、大きくなりすぎると支障があり、手術も必要だからと、定期的な検査をしていました。当時はまだ子どもが産める年齢だったので、結婚後も彼女は手術をせずに定期的に検査をしながら子宮を温存してきましたが、「子どもを授かるのはたぶん難しいだろう」と本人は思っていたようでした。

産経新聞社の中本さん
56歳で第一子が誕生した中本裕己さん

結婚9年目になり、いよいよ筋腫が大きくなりすぎて、大学病院の医師と話し合いをして「これは悪化したら大変だから子宮をとりましょう」という話になりました。

僕はそういう婦人科系の話に鈍感で、以前、彼女に「大きな子宮筋腫があるから子どもはできないかもしれない」と相談を受けた記憶はあるけれど、「子どもができなくても旅行に行ったりして楽しく暮らそう」みたいに言った覚えがあるな、くらいでした。だから、いよいよ子宮をとるといわれたときも、妻の体調はとても心配だったけれど子宮をとることに関しては、そうか、という感じでした。僕自身も3年一緒に暮らした前の妻との間に子どもはいなかったので、彼女が、というより僕が理由でできないかもしれないな、とも思っていました。不妊治療も妊活もしていませんでしたしね。

いきなりエコーの画像を見せられ驚いた! あのタイ旅行がよかったんだ!

――そのような中で妊娠されたのですね。

そうなんですよ。ある日、「今日、なるべく早く帰れませんか?」と妻からSNSで連絡が来たんですね。ふだんは気軽なメッセージばかりなのに「帰れませんか?」ってですます調で、何かイヤな予感がして……。「体調が悪いわけじゃないよな?」「離婚したいとかじゃないよな?」とすごく不安になりました。前の妻には「大事な話がしたい」と言われた後に離婚を切り出されたし……、などとあれこれ考えて家に着いたら、腹部エコーの画像を見せられたんです。「妊娠3カ月ですって!」って。

これはもう、うれしかったですねぇ。エコーの画像を二度見、三度見してしまいました。とはいえ、心当たりがない……、と思っていると思い出しましたよ! 年末年始の休みに、ふたりでタイ旅行をしたんですよ。あのときだな、と。

当時のエコー写真(中本さんご提供)

僕は年が変わった11月に57歳で役職定年になる予定でした。給料は下がるし役職もなくなるけれど、そのぶんめんどくさい会議や責任から解放される。60歳で定年だけれど65歳までは希望すれば働けるし、のんびりやればいいやと、わりとすっきりとした気持ちで正月を迎えていたんです。それで彼女とタイを満喫して、クラブで踊ったり遊んだりしている間に恵まれたんですよね、きっと。ストレスから解放されたのがよかったのではないでしょうか。

高齢出産は心配だったけれど、皆からの祝福がうれしかった

周囲の懇意な人たちに「奇跡だよ!」っていわれてお祝いされて、ありがたかったですね。高齢出産も心配したけれど本人がぜひ産みたいって言っていますし、医師も「45歳の出産はそれなりにリスクはあるけれど、そんなに心配するほどでもない」と。ただ、子宮筋腫がだいぶ大きくなっていたので、注意は必要だからと、通っていた大学病院で筋腫をみてもらいながらお産をしようということになりました。

妻がおたふく風邪に。息が苦しくなり、もうダメ……

――それが、途中で大変なことになったのですよね。

妻がおたふくかぜにかかりました。あわてて大学病院に連絡したのですが、最初は大変っていう感じではなかったんです。「もう7カ月の安定期だし、何かあったら帝王切開で取り出せる。深刻なことではないので近所のクリニックで受診して、様子をみてください」と。

それで、近所の内科に行きました。妊婦だと飲める薬が限られていますが、まあまあ元気に見えましたし、顔がふくらんできたときには、顔をみながら「おもしろいね」なんて言い合っていたくらいで。

パパとママと息子で握手する様子(中本さんご提供)

ところがやがて咳き込み始めて、夜眠れないくらい息苦しくなったみたいなんです。でも、妻は我慢強くて、昔から少しくらい具合が悪くても「つらい」って言わないんですよね。「ちょっと症状が重くない?」と聞いても、本人は「大丈夫」って。でもだんだん大丈夫じゃなくなってきて、これは赤ちゃんに何かあったら、と、僕が出勤している間に自分で歩いて大学病院に行ったんです。うちから普段なら5分のところを休み休みしか歩けなかったみたいで、20分くらいかけてようやく病院に着いたら、産科の医師が「このままで家に返すわけにはいきません。入院しましょう。場合によっては様子を見てすぐ帝王切開です」と。

妊娠7カ月、おたふく風邪のウイルスが心臓に飛んで母体が危ない!

――それは大変です、驚かれたでしょうね。

あわてて入院に必要なものを持って病院に行ったんですが、当時はまだコロナ禍で、面会も制限されていまして。それでも配慮いただいて少しは会えましたが、症状はどんどん悪化して心筋炎になっていたんです。おたふく風邪のムンプスウイルスが心臓に飛んだ可能性がある、と。そうなると母体の循環器が危険な状態ですし、子どもの命にもかかわると……。

心臓の状態が重篤な母親とおなかの子ども、両方を診るには、より妊婦の心臓病への経験が深い病院で、新生児の集中治療室も充実している別の病院に行ったほうがいいということになりました。東大病院が受け入れてくれることになり、そんな状態で転院したんです。とにかく今の状態を長引かせない方がいい、子どもは帝王切開で取り出したほうが母体に負担がかからないからと、急きょ東大病院で出産となりました。

妊娠7か月、帝王切開でなんとか出産。でも妻が…

――大変なお産になりましたね。無事に生まれたのですか?

1203gで生まれました。男の子でした。そして妻のほうは麻酔をして帝王切開で出産したのですが鎮静剤を投与されていて眠り続けていまして。赤ちゃんは新生児の集中治療室で保育器に、妻は大人の集中治療室へと、別れ別れになったんです。

元気に育ち、公園で遊ぶ息子(中本さんご提供)

子どものほうは、昔と違って今は1000g未満で生まれてきても成長していけると言われていて、心配ではあったけれどなんとかなるだろうと思っていました。けれど、妻のほうは、2日くらいすぎて意識は戻ったものの、心不全の状態になっていました。医師からは「治す方法はない」と言われて、対症療法しかない状態でした。

ちょうど志村けんさんが亡くなられた頃で、コロナの勢いがすごく、面会もなかなかできませんでした。妻は集中治療室で酸素マスクをずっとつけたまま、あの頃話題になっていたECMO(体外式膜型人工肺)を隣に置いて、症状が悪くなればすぐにつけられるような状態で日々をすごしていました。

自分がひとりで子育てすることになるかもしれない、覚悟を決めた

――赤ちゃんは無事だけれど、奥様が……。

もうね、祈るしかなかったです。妻を助けてくださいって。とにかく必死で何も考えられなかったけれど、仕事先で仲のいいライターの方にこのことを話したら、「大変だね、もしもひとりで子育てすることになったら一緒に赤ちゃんの面倒をみるよ」って親身になって言ってくれて。

そのときに初めて、「そうか、そういうこともあるよな」ってズシンときました。妻は一命を取り留めたけれど、家に帰っても寝たきりかもしれないですよね。それで、会社の上司に説明をしました。自分がひとりで子育てをすることもないわけじゃない。覚悟も決めましたね。その後、心不全の状態からなんとか持ち直したときは、本当にうれしかったです。

管につながれた母が小さな赤ちゃんを抱いたとたん、泣き声が響いて

――何がきっかけだったのでしょうか。

医師は「本人の体力と気力次第だ」と言っていて、医師や看護師さんも、もどかしかったと思います。医療の枠を超えてなんとかしたいと思ってくれたんでしょうね。「奥さんに赤ちゃんと面会してもらいましょう」って言ったんです。管をつけたままの妻をストレッチャーで運んで、息子のベッドの横にぴったりとつけたんです。そして、妻と息子の酸素マスクをとって、息子を妻の胸のところに置いてくれたんです。

そうしたら、息子がワーッと泣いてね、妻は苦しいながら「よしよし」ってしてね……。初めての母子の対面です。僕も泣いたし、見守ってくれている医師や看護師のみなさんも「よかったね」って、まるでドラマみたいな光景でした。

母子対面のとき(中本さんご提供)

妻は、その日を境にみるみるよくなっていったんです。ぜんぜん理論的じゃないですけれど、お母さんがこの子のために生きて生きたいっていう願いから、ホルモンなんかもいろいろ出てきて、生きる気力がみなぎったのではないかなと思うんですよね。息子のほうもお母さんに会いたくて、会えて元気になったんじゃないでしょうか。息子のほうも小さいながら順調に育ちました。

そして入院から20日で妻は退院。約3カ月たって、息子も退院し、家に戻ることができました。

――なんと感動的な親子のドラマ。赤ちゃんの泣き声で快方に向かった母もたくましいですね。しかし感動もつかの間、56歳の「シニア子育て」の奮闘が始まります。お金、体力、残された時間の「3ない育児」をどう乗り越えるのか。後編でじっくり伺います!

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お話を伺ったのは

中本裕己(なかもとひろみ)

産経デジタルのエンタメサイト「zakⅡ編集部」副編集長。1963年東京都生まれ。『夕刊フジ』を長く担当し、編集長に。芸能、健康関連の仕事に従事。48歳で再婚し、56歳ではじめて父になる。局次長を務め、57歳で役職定年、夕刊フジ編集長を経て、産経デジタルで勤務。シニア子育ての様子を綴った著書『56歳で初めて父に、45歳で初めて母になりました』(ワニ・プラス)を出版。
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産経新聞WEBで連載中の『還暦パパの異次元子育て』は>>こちらから

取材・文/三輪泉 写真提供/中本裕己

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