「生まれながらの将軍」徳川家光の生涯
自分自身を「生まれながらの将軍」と称した逸話で知られる「徳川家光(とくがわいえみつ)」は、いったいどのような人生を送った人物だったのでしょうか。その生涯について紹介します。
江戸幕府3代将軍を務めた人物
徳川家光は、1604(慶長9)年8月12日(旧暦:1604年7月17日)、江戸幕府2代将軍の徳川秀忠(ひでただ)と浅井長政(あざいながまさ)の三女・江(ごう、崇源院)との間に生を受けました。
1623(元和9)年、父に譲られるかたちで江戸幕府3代将軍になった家光が、居並ぶ大名たちに向けて「私は生まれながらの将軍である」と豪語した逸話はあまりにも有名です。
しばらくは大御所(おおごしょ、隠居した将軍)となった秀忠との二元政治が続きますが、1632(寛永9)年に秀忠が死去すると、自由に政治手腕を振るうようになります。
さまざまな改革を通じて幕藩体制の基盤をつくり上げた家光は、1651(慶安4)年6月8日(旧暦:1651年4月20日)、48歳で静かにこの世を去ったのです。
徳川家光が行った主な政策
徳川家光は、江戸幕府の基本的な体制を完成させた人物とされています。家光が行った主な政策とはどのようなものなのか、ここで確認していきましょう。
幕府内の役職の整備
家光は、それまで曖昧(あいまい)だった権限を整理・集約する手段として、幕府内の役職の整備を行いました。
最高職である「老中(ろうじゅう)」をはじめ、「若年寄(わかどしより)」「奉行(ぶぎょう)」「大目付(おおめつけ)」などの役職を定めることで、将軍を頂点とする明快かつ合理的な政治機構を確立させたのです。
役職の整備をすることで、それぞれの職務も明確になりました。組織としての体勢を整えることにより、家光は徳川の治世を盤石のものとしたのです。
大名の改易・転封
将軍の支配力強化を目指した家光は、大名の「改易(かいえき)」「転封(てんぽう)」も積極的に行いました。改易とは、身分を平民に落として家禄・領地を没収することで、転封とは領地替え・国替えのことです。
1632年、父の秀忠が死去して実権をにぎるやいなや、家光は加藤清正(きよまさ)の跡を継いだ熊本藩の2代藩主・加藤忠広(ただひろ)の改易を行いました。同じく家光は、実の弟である忠長(ただなが)についても容赦なく改易しています。
外様大名(とざまだいみょう:関ヶ原の戦い以後に徳川氏に従った大名)を中心に、少しの落ち度でも見逃すことなく次々と大名の改易・転封を行うことで、家光は自らの権力を誇示したのです。
参勤交代の制度化
徹底した主従関係の構築を図る家光は「武家諸法度(ぶけしょはっと)」を改訂し、大名に対して「参勤交代(さんきんこうたい)」を義務付けました。参勤交代そのものは、家康が定めた武家諸法度にも記載されていましたが、当初は決して厳格なものではなかったのです。
しかし、家光は大名たちに、1年おきの江戸への出仕を義務付けました。また、大名が国元(くにもと)で過ごす期間中も、妻子は人質として江戸に留めるよう定めたのです。
なお、参勤交代に必要となる莫大な費用は、大名自身が負担していました。そのため、参勤交代によって財政が逼迫(ひっぱく)し、弱体化する大名も少なくなかったとされています。
▼武家諸法度についてはこちらも参考に
キリスト教の弾圧と鎖国
家光は、家康と秀忠が行ってきたキリスト教の弾圧を強化し、鎖国(さこく)を行いました。これには、以下の二つの理由があったとされています。
・キリスト教の布教をきっかけに、日本が侵略されることを恐れたから
・神の前ではみな平等というキリスト教の精神が、主従関係を重視する封建制度と相容(あいい)れなかったから
鎖国前に行われていた外国との貿易は、基本的にキリスト教の布教がセットでした。キリスト教が、日本国内に広まることを恐れた家光は、信者への弾圧を強めるとともに貿易の窓口を狭めていき、1641(寛永18)年に鎖国を完成させたのです。
田畑永代売買禁止令
1641~1642年に起きた「寛永の飢饉(かんえいのききん)」によって困窮した農民たちは、次々に田畑を売却するようになりました。
これにより、貧しい農民はますます貧しくなって、裕福な農民はますます裕福になるという、農民間の経済格差が加速していったのです。
そんな状況を憂えた家光は、1643(寛永20)年に「田畑永代売買禁止令(でんぱたえいたいばいばいきんしれい)」を制定して田畑の売買を禁じました。経済格差を防ぐと同時に、治安の悪化や一揆の増大を防ぐ、幕府にとって非常に大きな一手となったのです。
徳川家光に関するエピソード
優れた政治手腕を振るった家光は、いったいどのような背景を持つ人物だったのでしょうか。 その人となりをうかがわせるエピソードを紹介します。
親の愛と将軍位を巡る弟との確執
秀忠の跡を継いで3代将軍となった家光ですが、両親や弟との間には深い確執があったとされています。
特に、母親が弟の忠長を溺愛(できあい)していたとされ、その理由として、家光が病がちで内向的だったのに対して、忠長は利発だったこと、乳母が育てた家光と違って、忠長は自らが育てたことなどが挙げられています。
その確執は、「両親は、忠長を将軍にしようとしたものの、家康の鶴の一声によって、兄である家光が次期将軍と定められた」という、将軍位を巡るものになるほど深刻だったそうです。
なお、次期将軍の座を逃した忠長は、家光による改易の末に自害しています。後世に名を残す名将軍となった家光ですが、肉親との縁には恵まれない人物だったのかもしれません。
乳母「春日局」との関係
幼少期の家光を、母親代わりになって育てたのが、乳母である「春日局(かすがのつぼね)」です。
春日局は、病がちで大人しい子どもだった家光を献身的に支え、教育を施しました。彼女の献身の深さは、家康が家光を次期将軍にと命じたのも、もとはといえば春日局の家康への直訴(じきそ)によるものとの逸話が残るほどです。
そのほかに、春日局の尽力として有名なのは、家光の跡継ぎに関するエピソードです。将軍の座に就いた家光は、正室「鷹司孝子(たかつかさたかこ)」と不仲で、跡継ぎがなかなか生まれませんでした。それを案じた春日局は、家光へ次々と美女を斡旋します。
結果として家光は、側室との間に4代将軍・家綱、5代将軍・綱吉をはじめ、多くの子を成しました。後の「大奥」の原型をつくったのも春日局とされています。
なお、家光が母親からの愛情を受けられなかったのは、家光の母が織田信長の姪(めい)であるのに対し、春日局が明智光秀(あけちみつひで)の家臣の娘であるという、敵同士の関係にあったことも原因の一つとされています。
江戸幕府の治世を盤石のものにした徳川家光
江戸幕府3代将軍の徳川家光は、幕府内の役職整備や参勤交代の制度化など、江戸幕府の基盤となる数々の政策を実施しました。彼の登場により、江戸幕府の治世は、盤石のものとなったといっても大げさではありません。
家光の歩んだ人生やエピソードを通じて、江戸時代、ひいては日本の歴史への興味・関心を高めていきましょう。
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構成・文/HugKum編集部