禁中並公家諸法度の内容とは? 江戸幕府と朝廷の関係がポイント【親子で歴史を学ぶ】

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日本の長い歴史のなかでは、さまざまな法令が作られており、「禁中並公家諸法度」もその一つです。この法令は、どのような内容だったのでしょうか?  また、法令が作られた背景に関わる、江戸幕府と朝廷の政治面の問題についても解説します。

禁中並公家諸法度とは

禁中並公家諸法度は、「きんちゅうならびにくげしょはっと」と読みます。これは、どのような法令だったのでしょうか?

朝廷や公家を統制する法令

幕府は、武士を厳しく統制していましたが、その動きは朝廷や公家(くげ)にも及びました。1615年(元和元)に、江戸幕府が朝廷や公家を統制するために制定したのが、禁中並公家諸法度です。

「禁中」とは皇族、「御法度」は法律を指します。朝廷や公家に対して、主体的な行動を制約し、幕府の支配下に置くための決まりを定めたこの法令は、幕末まで改定されることはありませんでした。

禁中並公家諸法度は、臨済(りんざい)宗の僧であった以心崇伝(いしんすうでん、金地院崇伝とも)が起草したものです。崇伝は、この法令以外にも、武家諸法度、寺院諸法度の起草にもあたっています。

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禁中並公家諸法度ができた理由

禁中並公家諸法度ができたのには、どのような背景があったのでしょうか?  江戸時代の朝廷の状況から、その理由をみていきましょう。

朝廷の権力が低下

戦国時代以降、朝廷の権力は低下の一途をたどっていました。財政は破綻しており、天皇が亡くなったときの葬儀も、次の天皇の即位に伴う儀式も行えないほどの状況だったのです。

大嘗宮(東京都千代田区皇居東御苑。現在は撤去)。平成からの皇位継承に伴う皇室行事「大嘗祭」の中心儀式「大嘗宮の儀」の舞台となった。一般公開されたのは、2019年11月21日から12月8日。

 

このような状況を立て直すため、朝廷は、武士から援助を受けるようになります。その見返りとして、武士は高い官位や公家の娘を自分の嫁にと要求するようになり、力を強めていきました。

朝廷への援助と引き換えに武士は勢いを増し、さらに朝廷の権威は低下していったのです。

朝廷のスキャンダル「猪熊事件」

1609年(慶長14)に、朝廷の一大スキャンダルともいえる、「猪熊(いのくま)事件」が発生しました。猪熊事件は、猪熊教利(のりとし)という一人の公家を中心に巻き起こった事件です。

猪熊は、「天下無双の美男子」と称されるほどの容姿を持ち、女性たちの憧れの的でした。その容姿を武器に、猪熊は宮中の多くの女性と関係を持っていきます。

この状況に激怒した後陽成(ごようぜい)天皇は、猪熊を京から追放しました。しかし、ほとぼりが冷めたころに猪熊は京に戻り、以前のように乱行を繰り返すようになったのです。最終的に、この件に関わった者は、死刑や流刑などの処分を受けました。

この事件を機に、朝廷や公家の行動を統制しようとする動きが高まり、禁中並公家諸法度が発布されることになったのです。

禁中並公家諸法度の内容

朝廷や公家の統制のために作られた法令の内容とは、どのようなものだったのでしょうか?  17条からなる法令は、朝廷や公家に向けた内容と、朝廷と僧侶の関係についての内容に分けられます。

朝廷や公家に向けた第1条から第12条

第1条から第12条までは、朝廷や公家に向けた内容です。第1条には、天皇がやるべきことは学問だと記されており、政治は幕府に任せて関わらないように暗示しています。

以降の条項では、摂政(せっしょう)や関白(かんぱく)の任命に関するルールや、天皇・公家の服装など、細かい取り決めがなされました。本来は、朝廷の特権であった改元についても、どのように選ぶか幕府が口出しできるという内容も含まれます。

そして、関白や幕府が任命した武家伝奏(ぶけてんそう)・奉行職の命令に背いた場合、流罪にするという処罰も規定されました。

僧侶に向けた第13条から第17条

第13条から第17条のなかで、特に大きなポイントといえるのが、第16条の「紫衣(しえ)」に関する内容です。紫衣とは紫色の袈裟(けさ)のことで、天皇から徳のある僧侶に対して贈られます。

これは朝廷の特権で、貴重な収入源だったこともあり、当時は多くの僧侶に紫衣が贈られていました。しかし、そのような状況では、寺院の名を汚すことにもなるとして、本当に紫衣にふさわしい者か、しっかり見極めてから与えるようにと定められたのです。

同様に、「上人(しょうにん)」という称号も、よく考えた上で与えるべき、という内容が第17条に記されています。

幕府と朝廷の対立

禁中並公家諸法度は、幕府と朝廷の対立を深めるきっかけになりました。法令の発布以降に発生した、重要な事件を紹介します。

第16条に違反した「紫衣事件」

第16条では、紫衣を与えるときには、熟考するように定められています。つまり禁中並公家諸法度以降、紫衣を与えるときには、朝廷の一存で決めるのではなく、幕府の了承が必要な状態になっていました。

しかし、後水尾(ごみずのお)天皇はこの規定を無視し、これまで通りに、幕府に相談もなく十数人の僧侶に紫衣を許可したのです。これが法律違反とみなされ、1627年(寛政4)には、これまで与えられた紫衣まで取り上げられるような事態に発展します。

最終的に幕府は、一連の動きに抗議した僧侶を流罪にし、朝廷に対して、幕府の力を見せつけた形になりました。

後水尾天皇が突然譲位

以前より後水尾天皇は、幕府からの数々の干渉に不満をつのらせていました。そこに紫衣事件が発生したこともあり、後水尾天皇は退位を決意します。

このとき、後水尾天皇には皇子がいなかったこともあり、幕府は譲位を認めませんでした。しかし、幕府の了承を得ないまま、後水尾天皇は突然、7歳の娘を明正(めいしょう)天皇として即位させ、譲位してしまったのです。

後水尾天皇は譲位したものの、完全に退いたわけではなく、明正天皇以降、4代にわたり上皇として朝廷に関わり続けました。

桂離宮。新御殿(写真左)と古書院(京都市西京区)。1615年(元和元)から八条院家の所領。1663年(寛文3)、後水尾上皇の桂御行(かつらごこう)の際に、楽器の間や新御殿を増築した。

江戸時代の幕府と朝廷の関係を決定付けた法令

禁中並公家諸法度は、幕府が朝廷や公家に対して、さまざまな面で介入できるようにした法令です。朝廷にとっては、これまで朝廷主導で行ってきた事柄に対しても、幕府から干渉されることになり、大きな不満となるものでした。

禁中並公家諸法度は、江戸幕府と朝廷の対立が表出するきっかけになったともいえるでしょう。

この時代をもっと知るために

禁中並公家諸法度の制定された江戸時代の時代背景について、もっと深く知るための参考図書をご紹介します。

小学館版少年少女学習まんが 日本の歴史12「江戸幕府ひらく」

豊臣家をほろぼして征夷大将軍となり、徳川家康が江戸に幕府を開くまでをていねいに描き、江戸幕府の基礎が確立されていく流れを追っていきます。どのように全国の大名の統制をしたか、どのような制度が江戸幕府をその後長く続く安定した政権へと導いたのか、といったテーマの他、江戸初期の文化や城下町の紹介などもされています。

中央公論新社 マンガ日本の歴史29「江戸幕府と朝廷」

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構成・文/HugKum編集部

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