「花魁」とは
花魁(おいらん)は時代劇や小説など創作物の中に登場することがありますが、その実態について具体的に描かれないケースも少なくありません。当時の人々にとってどのような存在だったのか、詳細を見ていきましょう。
江戸吉原の遊女の中でも最高位の存在
江戸の吉原遊郭(よしわらゆうかく)にいた上級の遊女を、花魁(おいらん)といいます。遊女は、遊郭の中で男性にさまざまなサービスを提供する女性のことです。
花魁のサービスを受けるには多くのお金が必要であり、独自のルールも存在します。宴席での飲食にかかる費用だけでなく、気に入った花魁を指名するにもお金がかかりました。
花魁は遊女の中でも最高位の存在だったので、気に入らない客を断ることもできたといいます。また、正式に花魁の相手と認められた客は、別の遊女に浮気することは許されなかったともされます。
おいらの太夫で「おいらん」
花魁という呼び方はどこから来たものなのでしょうか。一説によると、花魁の妹分たちが「おいらの太夫(たゆう)でありんす」「おいらの姉さん」などと言っていたのが省略されて「おいらん」になったとされます。
時代によって遊女の階級や呼び名の使い分け方は変わりますが、歌舞伎や浄瑠璃などの芸事を極めた上級の遊女は「太夫」と呼ばれました。
花魁は見た目の美しさだけでなく、高い教養を身に付けた存在であり、幼い頃から花魁になるための特別な教育を受ける者もいたそうです。
借金返済のために働いていた
ほとんどの遊女は、貧しい家を支えるために借金を背負って働いていました。一度遊郭に入ったら、借金を返し終わるまで自由に外へ出ることはできません。
利息や生活費もあるので、花魁ですら全ての借金を返し終えるのは簡単ではありませんでしたが、中には大商人や裕福な男性に気に入られ身請けされる者もいました。
身請けとは、男性が遊女の借金を肩代わりして仕事を辞めさせるのと引き換えに、その男性の下で生活することです。花魁は読み書きや計算などができたので、商家に迎えられる例もありました。
しかし、身請けされることが必ずしも幸せだったとは限りません。正式な妻がいる男性の下で、肩身の狭い思いをしながら生活することになる場合もあったのです。
花魁の仕事内容
花魁はただ美しく着飾るだけでなく、さまざまな手段で客をもてなしたり、同じ遊郭にいる新人遊女を教育したりする役目を担っていました。花魁の主な仕事内容を紹介します。
宴席で客を楽しませる
花魁には現代のコンパニオンのように、宴席で客をもてなす役割がありました。江戸時代の遊郭は、裕福な人々にとって社交場の一種であり、一般的な遊女と花魁では客層が全く異なります。
花魁を呼ぶために大金を使えるのは身分の高い人が多かったため、会話で楽しませるには知性が求められました。器量がよいだけでなく、話術にも優れていなければならなかったのです。
花魁は茶道・華道・書道・和歌・漢詩などの勉強の他、琴・三味線・踊りなども一通り身に付けていたといいます。客を満足させるために、勉強や芸事の鍛錬などに多くの時間を費やしていました。
客にとっての理想の恋愛をする
客にとって理想の恋人であるかのように振る舞うのも、花魁の重要な仕事の一つです。花魁はあらゆるテクニックを駆使し、客と疑似恋愛をしました。時には「わざと嫉妬している振りをする」「あえて気のない素振りを見せる」などの工夫をして、客を振り向かせていたのです。
現代のように通信手段が豊富ではなかった時代なので、手紙を送って客の気を引くこともしなければなりませんでした。遊女にとって、読み書きを学ぶことは、重要な営業手段でもあったといえます。
中には自分の気持ちを和歌や漢詩にしたため、社会的地位が高い客を満足させる花魁もいたそうです。
見習いの面倒をみる
客の相手をする以外にも、花魁がしなければならない仕事があります。遊郭には「禿(かむろ)」と呼ばれる幼い少女や「新造(しんぞう)」と呼ばれる新人遊女がいて、花魁の手伝いをしていました。
見習いの少女たちは雑用をこなす代わりに、花魁から接客方法などを学びます。新造は花魁が忙しくて手が離せないときなどに、宴席でつなぎを任せられることもあったといいます。
禿と新造の衣装やデビューにかかる費用も花魁が負担していたとされ、新しい花魁の候補を育てる役割も担っていたのです。
アイドルでもあった?花魁の特徴
一般的な遊女たちの上位にいた花魁は、現代でいう芸能人やインフルエンサーのような存在でもありました。当時の社会で目立つ存在だった、花魁の特徴をチェックしてみましょう。
絢爛豪華な髪型や衣装
江戸時代の女性の髪型は、さまざまな形に髷(まげ)を結うスタイルが一般的でした。人気のある遊女や花魁がきっかけで、一般に流行した髪型もあります。
代表的なものは「勝山髷系」「島田髷系」などです。諸説ありますが、どちらも当時の有名な遊女がしていたことで評判を呼び流行したとされています。
また、花魁の正装である打掛けは元々は武家の奥方が着ていたものですが、現代でも花嫁が和装する際に着られています。花魁はあえて華美な装いをして自分を売り込むとともに、非日常性を演出して客が特別な時間を過ごせるようにしていたのです。
独特な言葉や歩き方
花魁が独特な言葉で話す様子を、現代でも、時代劇などで耳にする機会があるでしょう。遊女たちは遊郭の中で「あちき・わっち(私)」などの一人称を使用し、語尾に「~ありんす・~ござりんす(~です)」などを付ける廓詞(くるわことば)を使用していました。
それは地方出身者だった遊女が地方のなまりを消し、優美さを出すために作られた言葉だといわれます。また、花魁は指名を受けて客のもとへ向かう際、ゆっくりと時間をかけて歩きました。
地域によって異なりますが、八の字を描くような足さばきをすることが特徴です。上客が相手のときにだけ、そのような独特な歩き方をしていたとされています。
限られた遊女のみに許された花魁道中
花魁は指名を受けると、禿や新造などの妹分たちを引き連れて、客が待つ座敷へ向かいます。その道のりを花魁道中と呼び、花魁の中でも特に格の高い限られた遊女だけに許される行為でした。
花魁道中の目的は、多くの人々に見てもらい客の優越感を満たすことです。格の高い花魁と会うには多くのお金がかかったので、周囲からうらやましがられ、花魁にとってもよい宣伝になりました。
時代の変化とともに、客のもとへ向かうのではなく座敷で待つスタイルも増えていきますが、花魁道中は遊郭ならではのショーとして残ったといわれます。
華やかな花魁道中を見られる祭り
江戸中期ごろから、花魁の地位は衰退し始めます。時代の変化とともに、遊女たちの居場所だった遊郭も廃止されました。
現代に花魁は存在しませんが、催し物の一つとして花魁道中が見られる祭があります。花魁道中を出し物として取り入れている祭をチェックしましょう。
しながわ宿場まつり
例年9月の最終土日に開催される、品川区の恒例イベントです。品川宿は江戸の庶民の間で観光地として流行し「北の吉原、南の品川」と呼ばれるほど栄えました。
祭の名物は、一般公募によって選ばれた市民参加のパレードです。参加者は江戸時代の人々の姿に扮装し、まちを練り歩きます。参加すれば、タイムスリップしたかのような時間を味わえるでしょう。
品川宿に花魁はいなかったとされますが、江戸風俗を現代に伝えるショーの一環として行われています。2024年のしながわ宿場まつりは、9月28〜29日に開催されます。おいらん道中は28日に開催予定です。
静岡まつり
1957(昭和32)年から始まった、静岡市民の祭です。徳川家康が家臣を引き連れて花見をしたという言い伝えにちなんで、例年桜が咲く4月上旬に行われています。
祭のメイン会場である駿府城公園内で開催期間の土日に催される花魁道中は、見どころの一つです。提灯持ち・振袖新造・禿・肩貸し・花魁・傘持ちの行列が、公園内をゆっくりと練り歩きます。
三枚歯の下駄を履き美しく着飾った花魁が見せる、「内八文字」と呼ばれる独特の歩き方をチェックしてみましょう。
参考:静岡まつり公式ページ
華やかなだけではなかった花魁の生活
遊女の頂点といえる花魁は、誰もがなれるわけではない特別な存在でした。身分の高い人や大金持ちを満足させるために、人一倍勉強や稽古に励み、後輩の面倒も見るなど、たくさんの努力を重ねていたのです。
遊郭が消滅した現代でも、祭などで花魁道中の再現を見物できます。花魁道中は絢爛豪華な衣装や独特の歩き方、引き連れている供の姿など、多くの注目ポイントがあります。
各地で花魁道中を見られる祭が開催されているので、機会があれば家族で見物に訪れてみてはいかがでしょうか。
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構成・文/HugKum編集部