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リトルリーグ時代にめざした夢の舞台「MLB CUP」

大津市・マイネットスタジアム皇子山で行われた「2025 MLB CUP ファイナルラウンド in 滋賀」の開会式とホームランダービーにゲスト参加した森井翔太郎選手。
「MLB CUP」は、森井選手がかつて武蔵府中リトルリーグに所属していた頃、ずっと目標にしていた憧れの大会です。2016年・2017年には連続して出場を叶え、見事に二連覇を達成。森井選手にとって、とても思い出深い大会だと言います。
「いちばん自分が純粋に野球を楽しんでいた時期だった」と振り返る森井選手に、当時のお話を伺いました。

――森井選手は小学生のときに「MLBカップ」に出場されたそうですが、当時からチームではずば抜けた存在だったのでしょうか?
森井選手:いえ、ずば抜けていたわけではありません。周りにも野球がうまい子はたくさんいました。例えば、チームのキャプテンだったショートの田中陽翔選手は、今ヤクルトでプレーしています。そういう仲間がいたので、自分だけがすごかったということはないですね。
――皆で切磋琢磨されていたのですね。野球のどんなところに魅力を感じ、夢中になっていったのですか?
森井選手:実は最初は野球があまり好きではなくて。幼稚園まではサッカーをやっていて、小学校1年生のときに友達に誘われて野球を始めたのですが、練習に行くまでは「嫌だな」と思っていました。
でも、実際にやり始めたら、バッティング練習ですごく打てたんです。それがいちばん記憶に残っていて、すごく楽しかったので野球を始めました。
進路を本気で悩んだとき、母の言葉で道が拓けた

――ご両親からプレーについて何か言われることはありましたか?「練習しなさい」とか、試合後にダメ出しをされたりとか。
森井選手:あまりなかったと思います。ただ、僕は忘れ物をすることが多かったので、道具やベルトを忘れたときなんかは父から「何やってんだよ」と言われたりしましたけど。野球のプレーに関しては、両親から細かく言われた記憶はあまりないですね。
――これまでの野球人生で、ご両親に言われて嬉しかったことや、ありがたかったと感じる言葉はありますか?
森井選手:いちばんは高校のときに母に言われた言葉です。当時、進路ですごく迷っていた時期でした。アメリカの大学に行くのか、NPBに行くのか、それともメジャーに行くのか。
そのときに母から「自分の生きたい人生を生きなさい」と言われて。その言葉が、自分自身がいちばん何をしたいのかという原点に立ち返って考えるきっかけになりました。今まででもっとも印象に残っています。
「机に向かうより洋楽」独自の英語勉強法

――森井選手の取り組みを参考にしたいお子さんや親御さんも多いと思います。普段から大事にしてきた習慣やマイルールはありますか?
森井選手:僕はルールを決めても自分で守れないタイプなので、「勉強は何時間やる」といった決めごとは全くありませんでした。
ただ、その日にやらなければいけないことをしっかり考え、優先順位はかなりつけていたと思います。プロ野球選手になりたかったので、野球ができる時間を確保しつつ、進学校だから勉強も留年しないようにやらなければいけませんでした。自分の夢のため、という気持ちがいちばん大きかったですね。
――アメリカでの生活にも慣れてきた頃かと思いますが、英語はどのように勉強されたのでしょうか?
森井選手:小学校高学年から中学校の初めくらいまで英会話教室に通っていました。それと、ずっと洋楽を聴くのが好きで、歌詞を覚えたいと思って勉強したりしていましたね。
机に向かって問題を解くというよりは、洋楽を聴いたり歌ったりする中でリスニングの力がついたかなと思います。歌詞の意味を「こんな感じかな?」と自分で考えてから調べて、合っているか確認したりしていました。

――森井選手のように野球が上手くなりたい、プロ野球選手になりたいと思っている子どもたちに、何かアドバイスをお願いします。
森井選手:プロ野球を見たり、身近に上手い選手がいたら「その選手に勝ちたい」という思いを持つことが、いちばんのやる気に繋がると思います。
僕の場合もチームに自分より少し上手い子がいて、「そいつに絶対負けたくない」という気持ちで家に帰って素振りをしたり、すごく練習をしていました。そういうライバルや「自分より上手い人」を意識するのは上達する上で大切かもしれません。
プロ野球選手になりたいなら、自分がプロ野球選手になっている未来を想像して、「プロに行って活躍するならこれぐらい努力しないといけない」という意識を持つことも大事かなと思います。
森井選手のお母さん「やりたい気持ちを育む」子どもの挑戦を後押しする関わり方

――翔太郎選手は、幼い頃はどんなお子さんでしたか?
純子さん:引っ込み思案で、新しいことを始めるのがあまり好きではありませんでした。スイミングも本当に嫌がって、連れて行くのが大変なくらいでしたから。ただ、体を動かすのは好きで、体も大きい方だったので、野球をする上では困らなかったかなと思います。
――子育てをする上で大切にしてきたことはありますか?
純子さん:子どもに何かを「やらせる」という感じではなく、本人が「やりたいこと」をやらせるようにしていました。そして、かける言葉には気をつけていましたね。
子どもの取り組みを見て、私が何か思ったときには、なぜ自分はそう思うのか、その思いをどう本人に伝えるべきなのか、よく考えて言葉をかけるようにしていたように思います。
あまり褒めすぎることもしませんでした。褒められるからやろう、と思ってほしくなかったので。本人が「やりたい」という気持ちになれるような環境づくりを心がけていました。
――野球を通じて、翔太郎選手の成長を感じたエピソードがあれば教えてください。
純子さん:西武ライオンズジュニアに参加させていただいたとき、周りの子たちに比べて体が小さかった本人は試合に出る機会があまりありませんでした。
家では悔しいからすごく練習しているのですが、チームに行くと、みんながプレーしやすいように裏方の仕事をしっかりやっていたんです。自分なりにやるべきことを感じ取っていたのだと思いますが、その姿を見たときに、チームの中で成長させてもらっているなと感じました。
――翔太郎選手に反抗期はありましたか?
純子さん:反抗期は早くて、小学生のときです。その頃は喧嘩もしましたけど、中学校に入ってコロナ禍になり、その頃から自分の夢に向かってスイッチが入って。真剣にやろうとしているんだというのが伝わってくるようになりました。
――前例の少ないアメリカへの挑戦を応援すると決めた背景には、どのようなお気持ちがあったのでしょうか?
純子さん:本人の普段の態度や生活習慣を見ていて、本気なんだなというのが伝わってきたからです。それに、やらされているわけではなく、自発的にやって結果も出していました。それがいちばん、背中を押せるきっかけになったと思います。
夢を追う子どもの背中を押す、子育てのヒント

MLB CUPに憧れて純粋に野球を楽しんだリトルリーグ時代、仲間との切磋琢磨、そして英語学習や自主的な努力が現在の道へとつながっている森井選手。息子の「やりたい気持ち」を大切に見守ったご両親の姿からも、子どもの挑戦を後押しするヒントが見えてきます。
森井選手が所属するアスレチックスは、2027年まではカリフォルニア州・サクラメントのサッターヘルスパークを暫定の本拠地としていますが、2028年からはラスベガスの新球場に本拠地を移すことが発表されています。日本人選手の活躍や渡米のニュースで盛り上がるメジャーリーグですが、新天地で奮闘する森井選手の今後の活躍からも目が離せません!
お話を伺ったのは
◾️小学硬式野球の憧れの地「 MLB CUP 2025」とは

2016年にスタートし、今年で9回目を迎えるMLB CUP。昨今の野球人口の減少に歯止めをかけるべく「MLBとして全ての野球選手を平等にサポートし、野球業界の発展に寄与できれば」という想いから、5リーグの垣根を越え、これまでの公益財団法人日本リトルリーグ野球協会(リトルリーグ)所属チームのみを対象としていたトーナメントに加え、公益財団法人日本少年野球連盟(ボーイズリーグ)、一般社団法人日本ポニーベースボール協会(ポニーリーグ)、一般社団法人全日本少年硬式野球連盟(ヤングリーグ)、九州硬式少年野球協会(フレッシュリーグ)の4リーグを対象とした新たなトーナメントを発足。小学校4年生以下を中心とするマイナー部門と、5年生以上を中心とするメジャー部門の2つのトーナメントを開催し、一人でも多くの子どもたちに夢を届けられる活動の一環として開催されている。
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取材・文/吉利智子


