和菓子には、季節や行事に合わせて四季を楽しむ日本人の心が表されています。「白い黄金」と称された貴重な砂糖をつかった和菓子は、まず、富裕層向けに京都で発達し、将軍のお膝元である江戸に広まりました。
文政元年に、江戸・九段に出府を果たした榮太樓總本鋪。およそ160年前に、現在の日本橋の地に店を構えて営業を続け、創業200年を迎えました。和菓子を庶民に届け続けてきた榮太樓本舗がお届けする「和菓子歳時記」。ふだんの暮らしで親しんできた和菓子にまつわるエピソードをお楽しみください。
「柏餅」は「子孫繁栄」を願う縁起菓子として、江戸時代に広まりました
「こどもの日」の「端午の節句」に欠かせない食べ物と言えば「柏餅」です。
柏の葉にくるまれた「柏餅」の登場は、徳川家九代将軍・家重から、十代将軍・家治の頃の宝暦年間(1751~1764)とされ、それまで、端午の節句の供え菓子は、中国から伝わった粽(ちまき)のみであったのが、柏餅の登場で併用されるようになったと言われています。特に関東では、柏餅が粽をしのいで重用されるようになったとか。
端午は、そもそも「月の端(はじめ)の午(うま)の日」という意味で、5月に限ったものではありませんでしたが、午(ご)と五(ご)の発音が同じであるところから、やがて5月5日になったという説があります。男の子の健やかな前途を祝うための節句になったのは徳川時代からです。
なぜ、「端午の節句」に「柏餅」を食べる習慣があるのでしょう?
古来から、食べ物を盛ったり包んだりすることに用いられた植物の葉は、椿、柿(柿の葉ずしが有名)、笹などがありますが、柏の葉には「縁起」という意味合いで特別なものがありました。
柏は昔から神聖な木とされて、新芽がでないうちは古い葉は落ちないという性質をもっています。そこから、世継ぎや家系を絶やさないための「子孫繁栄」を願う縁起ものとして、子どもの成長を祝う「端午の節句」の柏餅を食べる習慣になったと伝えられています。
江戸時代の柏餅の葉は、若葉で鮮やかな緑色だった
柏餅の葉は、枯葉色ともいえる暗めの色合いですが、これは、前年の若葉を産地で収穫して、陰干しをして貯蔵されたものを使っているためです。「端午の節句」を祝うようになった江戸時代の5月5日は、旧暦を用いていたので、現在の新暦とはひと月ほど遅れた時期となり、柏は若芽がでて葉も鮮やかな緑色の若葉でした。
江戸時代の柏餅は、鮮やかな緑の柏葉で包まれていたんですね。
「柏」にまつわる、もう一つの縁起の意味「柏手」
また、餡を餅でくるむときの所作が、神社で神を拝むときに手を打つ「柏手」に似ていることから、おめでたい節句のお菓子として広まったという説もあります。
関西、特に京都では、餅の形は丸いものが多いのですが、榮太樓の柏餅の餅は、柏手の所作から生まれる形に近いもので、兜(かぶと)を模していると言われています。そして、中の餡を見えないように包んでいるのも特徴です。
どうぞ、今年の「端午の節句」は、柏餅に込められた「願い」と「おめでたい謂われ」をお子さんに伝えて、柏餅を召し上がってください。
監修:榮太樓總本鋪(えいたろうそうほんぽ)の歴史は、代々菓子業を営んできた細田家の子孫徳兵衛が文政元年に江戸出府を果たしたことに始まります。最初は九段で「井筒屋」の屋号を掲げ菓子の製造販売をしておりました。が、やがて代が替わり、徳兵衛のひ孫に当たる栄太郎(のちに細田安兵衛を継承)が安政四年に現在の本店の地である日本橋に店舗を構えました。数年後、自身の幼名にちなみ、屋号を「榮太樓」と改号。アイデアマンであった栄太郎は代表菓子である金鍔の製造販売に加え、甘名納糖、梅ぼ志飴、玉だれなど今に続く菓子を創製し、今日の基盤を築きました。
構成/HugKum編集部 イラスト/小春あや