「義和団事件(ぎわだんじけん)」は、中国国内はもちろん、日本や欧米諸国にも、大きな影響を及ぼしました。世界史の授業でも、特に重要なポイントとして取り上げられる出来事です。義和団事件が起こった背景や、事件後の展開を分かりやすく解説します。
義和団事件とは? 簡単に解説
清(しん)王朝末期の中国で、「義和団」と呼ばれる宗教団体の運動がきっかけで起こった一連の騒動を、義和団事件といいます。事件の概要と、義和団の実態を見ていきましょう。
中国で起きた外国勢力排斥運動
義和団事件は、西洋諸国の侵略に苦しむ清王朝が、反キリスト教運動を展開していた義和団を支持することで、外国勢力を退けようとした事件です(1897~1900)。
「義和団の乱」や「北清事変」などと呼ばれることもあります。
もともとは一宗教団体が起こした、キリスト教信者や西洋人の排斥運動でしたが、義和団の勢力は急速に拡大し、清王朝と日本、欧米諸国を巻き込んだ国家間の紛争へと発展します。
義和団とは?
義和団は、中国の山東(シャントン)省で生まれた宗教団体です。義和団の起源は民間の自警団という説や、かつて存在した白蓮教(びゃくれんきょう)という説などがあり、はっきり特定されていません。
義和団は「義和拳(ぎわけん)」と呼ばれる拳法によって、刀や槍、銃弾をも跳ね返す不死身の力を得られると民衆に説きます。神として崇拝する対象は、「西遊記」の孫悟空(そんごくう)や「三国志」の諸葛孔明(しょかつこうめい)、趙雲(ちょううん)といった人気ヒーローでした。
分かりやすい教義によって民衆の支持を得ることに成功し、生活困窮者などを吸収して勢力を拡大させていきます。そのなかで、キリスト教信者や貿易商、鉄道や電線にいたるまで、西洋文明にまつわるさまざまなものを襲撃していきます。
1900年にはとうとう北京(ペキン)に集結し、各国の公使館を包囲するまでになりました。
義和団のスローガン「扶清滅洋」
「扶清滅洋(ふしんめつよう)」は、義和団が掲げていた外国人排斥運動のスローガンです。「清を扶(たす)けて洋を滅ぼす」という意味で、洋は西洋諸国を指します。
清王朝は当初、義和団を鎮圧しようとしていました。
しかし、「清を扶ける」という王朝側に立ったスローガンを用いていたことから、清王朝内部にも義和団に賛同する者が多く、うまくいかなかったとされています。
義和団事件が起こった背景
義和団のような一つの宗教団体が強大化し、国際紛争にまで発展した理由はどこにあるのでしょうか。義和団事件が起こった背景を解説します。
アヘン戦争後の植民地化
アヘン戦争は、19世紀半ばに起こったイギリスと清王朝の争いです。
当時の中国では、イギリスによって密輸入されるアヘンの害が深刻でした。清王朝はアヘンの取り締まりを強化し、押収したアヘンを焼却します。
密貿易で莫大な収益を得ていたイギリスは怒り、清王朝に戦争を仕掛けたのです。
戦いに勝ったイギリスは「南京(ナンキン)条約」を締結し、領土とした香港(ホンコン)島の自由貿易や治外法権などを認めさせました。
アヘン戦争をきっかけに、ヨーロッパ諸国による中国の植民地化が加速します。
間もなく、イギリス・フランス連合軍との間で、第2次アヘン戦争とも呼ばれる「アロー戦争」が勃発(ぼっぱつ)しました(1856年10月)。またもや敗北した清王朝は、国内でのキリスト教の布教を認めるなど、さらに不利な条約を結ぶことになります。
キリスト教の信者数の増大
アロー戦争後に締結された「天津(ティエンチン)条約」では、それまで禁止されていた中国内陸部でのキリスト教布教活動が認められました。多くの宣教師が内陸へ進出してキリスト教を広めた結果、中国人のキリスト教徒の数が増大します。
宣教師は、信者獲得のために慈善事業などを行う一方で、戦勝国の立場から傲慢(ごうまん)な振る舞いをすることもありました。また、中国人のキリスト教信者が農村の伝統に従わなくなるなど、一般住民との間に確執が生まれます。
特に山東省では、ドイツ人宣教師が強引な布教活動の果てに、軍を動員して反抗した村落を焼き討ちにするなど、ほとんど侵略ともいえる行為に及んでいました。
このため民衆の間では、キリスト教やキリスト教をもたらした西洋諸国への憎悪が、日に日に高まっていきます。
中国古来の拳法を用い、中国の伝説的ヒーローを神とした義和団は、キリスト教に反発する民衆に受け入れられ、またたく間に勢力を拡大させたのです。
義和団事件の流れ
義和団の勢力が北京を占領したのを機に、清王朝は外国勢力の排斥を図ります。連合軍への宣戦布告から鎮圧されるまでの、義和団事件の流れを見ていきましょう。
8カ国連合軍へ宣戦布告
1900年6月、義和団は北京を占領して、日本やドイツから来ていた外交官を殺害します。当時、清王朝の実権をにぎっていた「西太后(せいたいごう)」は、義和団の鎮圧に乗り出しました。
しかし鎮圧が難しいと判断すると、逆に義和団を支持する路線に変更し、日本や西洋諸国に宣戦布告します。
義和団の鎮圧と北京議定書の締結
宣戦布告を受けた各国は、連合軍を結成して北京に出兵します。
イギリス・アメリカ・ドイツ・フランス・オーストリア・イタリア・ロシア・日本の8カ国による連合軍は、義和団を鎮圧し、北京の奪還に成功しました。
このとき西太后は、義和団を見捨てて西安(シーアン)に逃れています。
義和団が鎮圧され、連合軍に敗れた清王朝は、「北京議定書」を締結します。北京議定書で、清は巨額の賠償金を課せられたほか、北京と天津に外国軍隊の駐留を認めることになりました。
義和団事件後の影響
外国勢力を排斥しようとしていた西太后ですが、義和団事件収束後、一転して西洋文化を取り入れ始めます。
「光緒新政(こうしょしんせい)」と呼ばれる近代化に向けた改革でしたが、清王朝の権威は既に取り返しのつかないほど弱っていました。
賠償金支払いのために重い負担を課したこともあり、民衆の不平不満は外国ではなく、清王朝に向けられることになります。
義和団事件後、国内での清王朝への不信感は一気に高まり、1911年の「辛亥(しんがい)革命」によって滅ぼされてしまうのです。
一方、義和団事件は他国にも大きな影響を及ぼしました。ロシア軍は事件収束後も、義和団によって破壊された鉄道の修理事業を警備する名目で、満州に居座り続けます。
満州の支配と朝鮮への進出を匂わせるロシアの動きは、日本やヨーロッパ諸国を警戒させ、新たな緊張状態を生み出しました。
義和団事件と日本の関わり
義和団事件は、日本の歴史にも深く関わる出来事でした。8カ国連合軍に参加したことで、日本の軍事力が西洋諸国に認められ、ロシアとの戦いに踏み切るきっかけになったのです。
日本軍の活躍と、その後の展開を見ていきましょう。
日本軍の活躍
8カ国連合軍が北京に出兵したとき、全体の指揮に当たったのは日本軍の将校でした。足並みがそろいにくい多国籍軍をよくまとめ、勝利に貢献したと伝わっています。
前線の日本人兵士も、ヨーロッパの軍人に引けを取らない働きを見せました。義和団事件で日本軍が活躍したことで、西洋諸国の日本を見る目が変わり、日英同盟(1902)の実現につながります。
日露戦争のきっかけに
義和団事件の収束後(1901)、連合軍に参加した各国は、北京議定書に基づいて兵を引き上げることになりました。しかし、ロシアだけは撤兵せず、満州に部隊を駐留させます。
ロシアは義和団事件の直前にも、朝鮮に対する威嚇行為を繰り返していました。このため満州での軍隊駐留は、朝鮮進出を本格化させるためのものだということが誰の目にも明らかでした。
危機感を強めた日本は、同じくロシアを警戒していたイギリスと同盟を結んで対抗します。
義和団事件で西洋諸国が日本の力を評価したことと、ロシア軍が満州に居続けたことが、日露戦争(1904)のきっかけになったのです。
もっと知りたい方のために
義和団事件のころの中国や世界情勢について、もっと深く知りたい方のために、関連図書をご紹介します。
小学館版 学習まんが 世界の歴史14 「ゆれる中国」
歴史教科書で有名な山川出版社の編集協力を得て誕生した「学習まんが世界の歴史」。
第14巻では、18世紀後半~20世紀初めまでの中国を中心に扱っています。複雑な中国近代史の流れも、まんがのストーリーとしてすんなり理解できます。
集英社版 学習漫画 中国の歴史9 「革命と戦争のあらし 近代中国」
列強の侵略に苦しむ清の末期から、内乱・革命を経て中華人民共和国成立までの中国の近現代史を概観する歴史漫画です。第二次世界大戦を挟んでの激動の時代が描かれます。
中公文庫 マンガ中国の歴史6 「西太后と義和団事件」
外圧と内乱に揺れる清の末期、まさに義和団事件の頃の中国を活写。西太后の迷走から孫文の革命運動、そして毛沢東の新国家体制の模索まで波乱の時代を追います。
中公新書 「中国、1900年―義和団運動の光芒」
義和団事件をぐっと深く掘り下げたい歴史通のパパママにはこちらをご紹介。19世紀末、山東省に起きた義和拳・大刀会など小林拳の修得者による反教会闘争と、その抵抗運動がいかにして広がり列強を震撼させたかが克明に描かれます。本書ではこの歴史的流れを儒教・仏教・道教の三教が混成した挙国運動として解説します。
義和団事件への理解を深めよう
外国人を排斥するために起こした義和団の運動は、弱っていた清王朝をさらに弱体化させ、植民地化を促進する結果となりました。ロシアをはじめ、日本や西洋諸国が自分たちの国で争うのを、清の民衆はどのような思いで見ていたのでしょうか。
義和団事件の背景や流れをしっかりと押さえて、当時の国際情勢への理解を深めていきましょう。
構成・文/HugKum編集部