法隆寺とは?
日本には、たくさんの寺院がありますが、なかでも「法隆寺(ほうりゅうじ)」は、多くの人々にその名が知られる有名な寺院です。まずは、法隆寺がどのような建築物であるのか見ていきましょう。
現存する最古の木造建築
飛鳥時代に建てられた「法隆寺」は、日本に現存する最古の木造建築として知られています。
607(推古天皇15)年頃、奈良県の斑鳩(いかるが)町に建てられましたが、「日本書紀(720)」によると670(天智天皇9)年の火事により、そのほとんどが焼け落ちてしまったとされています。
再建時期は明らかではないものの、建材の伐採時期の調査結果から、少なくとも1300年以上前に建て直されていたことが証明されました。
なかでも最も古いものは、西院にある金堂・五重塔・中門・回廊です。これらを含む木造建築群は、日本のみならず世界においても最古のものとされています。
日本初の世界文化遺産の一つ
1993(平成5)年に「法隆寺地域の仏教建造物」と「姫路城」が、日本で初めて世界文化遺産に登録されました。法隆寺地域の仏教建造物には、法隆寺だけではなく、法起寺(ほっきじ)にある三重塔も含まれます。
700(文武天皇4)年前後に建てられた建築物には、6世紀頃の中国・北魏(ほくぎ)から随(ずい)の文化が色濃く残り、それ以降に建てられたものには唐(とう)の様式が見られます。
法隆寺には、遠い昔から日本と中国が密接に交流していた証(あかし)が残されているのです。
さらに法隆寺には、仏教における最古の建造物も多く保存されており、長い歴史の中で多くの寺院に影響を与えてきました。宗教的な観点から見ても、日本の歴史的観点から見ても、とても重要な遺産であるといえるでしょう。
法隆寺の歴史
「誰が」法隆寺を建てたのかという問いに答えられる人はいても、「なぜ」建てることになったのかは、知らない人も多いのではないでしょうか。ここでは法隆寺の成り立ちを紹介します。
聖徳太子により建立
法隆寺を建てたのは「聖徳太子(しょうとくたいし)」です。なぜ、聖徳太子が法隆寺を建てたのかというと、それは父の願いでした。
586(用明天皇元)年、聖徳太子の父である用明(ようめい)天皇が、聖徳太子と妹である後の推古(すいこ)天皇に「快癒(かいゆ)を祈る寺を建てたい」と願いました。しかし用明天皇は、翌年の587年に亡くなってしまいます。
その後、聖徳太子は601(推古天皇9)年、斑鳩の地に「斑鳩宮(いかるがのみや)」という宮殿を建て、そこに亡き父の遺願であった寺を建てることにしました。
そして607年(606年という説も)に完成したのが、法隆寺(当時は斑鳩寺)なのです。
朝鮮伝来の建築技術
現代でも、優良木造住宅は、メンテナンスが行き届いていれば100年以上保(も)つとされます。しかしそれでも、法隆寺の1300年は、驚異的な長さといえるでしょう。
耐久性の秘密は、木材と構造にあります。法隆寺は「ヒノキ」で建てられているのですが、ヒノキの耐久性と保存性は木材の中でも最高レベルです。
さらに解体や補修がしやすい構造になっているため、劣化しても建物すべてを取り壊す必要がありません。また、五重塔の各階は、中央を支える心柱(しんばしら)から独立しているため、地震が起こっても揺れを逃すことができるのです。
こうした建築技術は600年代、「仏教伝来」と一緒にやってきた朝鮮の職人たちによって日本に伝えられたとされています。
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法隆寺の見どころ
法隆寺の敷地面積は、18万7000㎡と広く、予備知識なしに訪れると、どこから鑑賞すべきか迷ってしまうでしょう。ここでは法隆寺の見どころを厳選して紹介します。
中門に立つ「金剛力士像」
金剛力士像は、西院伽藍(がらん)の入り口「中門」の左右に一体ずつ立っています。
金剛力士像は仏教の守護神なので、寺院の入り口でも見かけることが多いのですが、法隆寺の金剛力士像は日本に残る、まさに最古のものなのです。
向かって右側の開口しているのが「阿形(あぎょう)」、左側の閉口しているのが「吽形(うんぎょう)」といいます。「阿吽(あうん)の呼吸」という言葉も、この仏教用語からつくられました。
立地的に雨風にさらされるため、修復されることも多く、さすがに建築当時の姿を保ってはいないとされています。それでも迫力のある表情や、長年その姿を守ろうとしてきた人々の思いには圧倒されるものがあるでしょう。
仏像が安置される「金堂」
金堂(こんどう)は、「中の間」「東の間」「西の間」の三つに分かれています。それぞれに「天蓋(てんがい)の天人(てんにん)と鳳凰(ほうおう)」と呼ばれる華麗な天蓋があり、楽器を演奏する童子(天人)と鳳凰が吊り下げられています。
中の間には、金堂の本尊である国宝「釈迦三尊像(しゃかさんぞんぞう)」があります。このお釈迦様は、聖徳太子の姿を写した像でもあり、うっすらと微笑(ほほえ)むような表情が印象的です。両隣には「毘沙門天(びしゃもんてん)像」と「吉祥天(きっしょうてん)」が置かれています。
東の間で見られるのは、国宝「薬師如来(やくしにょらい)像」です。光背(こうはい)の裏に法隆寺創建の由来が刻まれており、創建当時は薬師如来が本尊だったとされています。西の間には重要文化財「阿弥陀(あみだ)三尊像」が置かれています。
失われた名画「法隆寺金堂壁画」
金堂には、「法隆寺金堂壁画」という名の巨大な壁画が描かれています。
しかし、これは1300年前のものではありません。1949(昭和24)年に金堂は火災に見舞われ、オリジナルの壁画は焼け焦げてしまったのです。
焼損した壁画ですが、その大きさ・美しさ・価値の高さから、変わらずに重要文化財とされてきました。高さ約3.1mの壁画には、等身大の仏様の姿が、鉄線描による強い輪郭の線で緻密に描かれています。
現在、金堂で見られるのは、一流の日本画家たちの手による模写ですが、経年劣化のひび割れまで忠実に再現された壁画は、古代日本美術の素晴らしさを伝える貴重な資料といえるでしょう。
釈迦をまつる「五重塔」
五重塔とは、お釈迦様の遺骨である仏舎利(ぶっしゃり)を安置する場所で、広い意味でいえば仏様のお墓です。
仏舎利は世界じゅうに伝来し、日本にも多くの五重塔があります。その中で、最も古い歴史を持つのが法隆寺の五重塔です。
五重塔の心柱の下にある心礎に、仏舎利は納められています。心柱の周りを囲む最下層には、粘土や石膏で造られた多くの塑像(そぞう)が配置されています。この群像は「塔本塑像」という名で、国宝に指定されました。
心柱を囲む四面には、お釈迦様にまつわる四つの逸話が表現されています。お釈迦様の生存時から、亡くなった涅槃(ねはん)と遺骨の分配、死後のシーンまで、ストーリーを追うと興味深く鑑賞できるでしょう。
国宝が並ぶ「大宝蔵院」
大宝蔵院には、法隆寺に伝来した重要な仏像や物品が納められています。特に有名なのは「玉虫厨子(たまむしのずし)」と「百済(くだら)観音像」の二つの国宝でしょう。
厨子とは、仏像などを安置する法具で、小さな仏堂のようなものです。銅板の下に玉虫の羽が敷き詰められていることから、玉虫厨子と名付けられました。保存状態がよく、構造も仏堂によく似ているため、貴重な史料でもあります。
百済観音像は、高さ209.4cmのスラリとした観音菩薩像です。史料が非常に少なく、作者や制作した目的も謎に包まれています。600年代に制作されたと見られますが、同時代の仏像とは異なる優美さが魅力です。
法隆寺周辺の観光スポット
法隆寺観光と合わせて訪れたいのが、「法起寺」と「斑鳩神社」です。二つの寺社の見どころや、法隆寺との関係を知っておきましょう。
法起寺
法起寺は、聖徳太子が建立した七つの寺の一つとされています。「岡本宮を寺にするように」と命じられた聖徳太子の息子「山背大兄王(やましろのおおえのおう)」により、聖徳太子の死後に建てられました。
岡本宮は、聖徳太子が法華経(ほけきょう)を説いた場所ともいわれており、法起寺は別名「岡本寺」とも呼ばれます。法起寺の三重塔は、法隆寺と同じく世界最古の木造建築であり、古都奈良の風情を感じられる人気の名所です。
斑鳩神社
斑鳩神社が祀(まつ)っているのは、学問の神で知られる菅原道真(すがわらのみちざね)です。「古今一陽集(こきんいちようしゅう)」によると、法隆寺の管主・湛照(たんしょう)が、先祖である菅原道真を祀るために建立したとされています。
当時は、斑鳩神社も法隆寺が管理していました。しかし、明治に入って、寺と神社が分離されるようになって以降、斑鳩神社は法隆寺村が管理するようになったのです。
法隆寺の鬼門を守る鎮守社とされ、秋祭りでは斑鳩神社のご神霊を乗せた神輿(みこし)が法隆寺の境内へ渡ります。参道となる階段からは、天満池(てんまいけ)の向こうにたたずむ法隆寺五重塔の眺めを楽しめるでしょう。
・名称:斑鳩神社
・住所:奈良県生駒郡斑鳩町大字法隆寺
・電話番号:0745-70-1200(斑鳩文化財センター)
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法隆寺で飛鳥時代の文化に触れよう
飛鳥文化は、日本最初の仏教文化です。世界最古の木造建築である「法隆寺」は、数々の歴史的建造物を擁し、その文化を現代まで伝えてきました。
誰が、なぜ、法隆寺を建てたのかを調べていくと、聖徳太子やお釈迦様も登場し、当時の人々と仏教の密接な関わりが見えてきます。
寺社見学は、興味を持たない子どもからすれば、退屈な旅になりがちですが、建立された背景や価値を教えてあげると、また違った印象を与えることができるかもしれません。
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構成・文/HugKum編集部