壬申の乱の原因や経過をわかりやすく解説。ゆかりのスポットも紹介【親子で歴史を学ぶ】

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「壬申の乱」は何が原因で発生し、誰と誰が戦ったものだったのでしょうか? 壬申の乱の経緯を、始まりから終わりまで分かりやすく紹介します。ゆかりの地についても触れていますので、知識を深めて子どもに説明できるようになりましょう。
<上画像:奈良明日香村の天武天皇・持統天皇陵への道>

壬申の乱とは?

まず、「壬申(じんしん)の乱」が、どのような戦いだったのか、概要を紹介します。戦いが起こった原因や、起こるまでの背景とともに見ていきましょう。

672年に、皇位継承争いが原因で起きた内乱

壬申の乱は、天智天皇(てんじてんのう)の崩御後の672年に、「大友皇子(おおとものおうじ)」と「大海人皇子(おおあまのおうじ)」が後継者の座をめぐって起こした内乱です。

本来であれば、弟の大海人皇子が後継者であるにもかかわらず、天智天皇が自分の息子である大友皇子に継がせようとしたことが原因です。

天智天皇は、わざと大海人皇子に皇位を譲ると伝え、その返答次第では暗殺しようと目論(もくろ)んでいました。それを察した大海人皇子は、出家(しゅっけ)すると偽って、妻とともに吉野(奈良県)に逃れ、力を蓄えた後に内乱を起こしたのです。

壬申の乱の経過

大海人皇子が吉野に逃れた後、どのようにして壬申の乱が起きたのでしょうか?  戦いの始まりから終わりまでの経過を、順を追って見ていきましょう。

大友皇子の不穏な動き

大友皇子は、自身の地位を脅かす者として大海人皇子を危険視し、滅ぼそうと目論んでいました。

やがて大海人皇子は、大友皇子が食料を吉野に運べないようにしようとしている、天智天皇の墓をつくるために集めていた労働者が武器を所持していた、というような情報を耳にします。

こうした不穏な動きから、朝廷が戦いの準備を進めていると察し、身の危険を感じた大海人皇子は、挙兵を決意して「壬申の乱」が起こったのです。

瑠璃光院(京都市左京区)。数寄屋造りの建物と日本庭園で知られ、磨かれた机面に反射する紅葉が見事だ。院内一階には、背中に矢傷を負った大海人皇子が傷を癒やされたという伝説の「八瀬の釜風呂」がある。日本式蒸し風呂の原型で、現存する希少な遺構。見学も可。

大海人皇子が、東国の豪族を味方につける

大海人皇子は、わずかな従者を率いて美濃(みの)国(岐阜県)に向かいました。東国(とうごく)への出入り口だった「不破道(ふわみち)」を塞ぐことと、東国の豪族を味方につけることが目的でした。そして、吉野を出発してからほんの数日で、両方の目的を達成したのです。

大友皇子軍は、不破道を押さえられたことで、戦闘能力に長けていた東国の豪族を味方につけることができなくなり、不利になったといわれています。

そこで西国(さいごく)の豪族を味方につけようとも試みましたが、思うように協力を得られませんでした。朝廷の独裁的ともいえる政権への不満がたまっていたことが、味方を増やせなかった理由の一つとされています。

各地で戦いが起こる

大海人皇子軍は、吉野(奈良県)から桑名(三重県)を経由し、不破道に近い野上(岐阜県)に本営を置きます。その後、美濃(岐阜県)・近江(滋賀県)・大和(奈良県)・河内(大阪府)・伊賀(三重県)など各地で戦いが起きました。

「関ヶ原の戦い」というと、1600(慶長5)年の徳川家康(いえやす)と石田三成(みつなり)の「天下分け目の戦い」が有名ですが、壬申の乱においても同じ場所で戦いが起きています。

家康はその縁起を担いで、大海人皇子軍が本営を置いたとされる場所に、自軍の本営を置いたといわれています。

「瀬田橋の戦い」で大海人皇子が勝利

勝敗が決定的になったのは「瀬田(せた)橋の戦い」です。瀬田橋(滋賀県)の東側に大海人皇子軍、西側には大友皇子軍が着陣し、激しい戦いが繰り広げられました。最終的に大海人皇子軍が勝利し、大友皇子は自害します。

瀬田の唐橋(滋賀県大津市)。京都・宇治川に架かる宇治橋、淀川に架かる山崎橋とともに「日本三古橋」と呼ばれる。天智天皇の近江遷都時に造られたとされる。現在の橋より約80m下流で橋脚の基礎が発見され、「瀬田橋の戦い」のころのものと考えられている。

その後、大海人皇子は、天武(てんむ)天皇として即位したのです。天皇中心の中央集権を目指し、都を再び飛鳥(あすか)に移しました。

「八色の姓(やくさのかばね)」による身分制度の確立や、「飛鳥浄御原令(あすかきよみがはらりょう)」という法典の制定を命じるなど、朝廷政治の基礎を築いたのです。

なお、飛鳥浄御原令の完成前に天武天皇は亡くなりました。その後、皇后が持統(じとう)天皇として即位し、法典を完成させて施行したといわれています。

天武天皇(イメージ)

壬申の乱ゆかりのスポット

「壬申の乱ゆかりの地を知りたい、訪れてみたい」という人もいるのではないでしょうか。数ある中から有名なスポットを紹介します。

「野上行宮跡」と「天武天皇社」

岐阜県不破郡にある「野上行宮跡(のがみあんぐうあと)」は、大海人皇子が壬申の乱で本宮を置いた場所です。

「日本書紀」によると、2カ月近く滞在していたとされています。現在は当時の面影はありませんが、当時を偲(しの)ばせる石垣がわずかに残っています。

三重県桑名市にある「天武天皇社」は、天武天皇と持統天皇を御祭神として祀(まつ)っている神社です。二人が桑名郡家に滞在したことにちなみ創建されました。天武天皇は、すぐに桑名郡家を出ましたが、皇后は約2カ月をこの地で過ごされたようです。

天武天皇と持統天皇陵(奈良県高市郡明日香村)。東西38m、南北45mの墳墓は、八角形の五段築成と考えられる。686(朱鳥元)年に崩御した天武帝のために造られたが、後に702(大宝2)年に亡くなった妻・持統帝も天皇として初の火葬により、合葬されている。

「自害峯の三本杉」と「御霊神社」

岐阜県不破郡の小高い丘の中腹にある「自害峯(じがいみね)の三本杉」は、追い詰められ自害した大友皇子の首を地元の人が譲り受け、埋葬したといわれている場所です。場所を示すために三本杉が植えられました。なお、明治時代には、宮内庁が調査して「弘文(こうぶん)天皇御陵候補地」とされました。

滋賀県大津市には、鳥居川町・北大路・瀬田大江に大友皇子を祀った「御霊(ごりょう)神社」があります。

鳥居川町の神社は、675(天武天皇4)年に、大友皇子の子の大友与多王(よたのおおきみ)によって創建され、北大路の神社は781年(天応元年)に子孫によって創建されたとされています。瀬田大江の神社の創建年代は不明です。

皇位継承争いが発端で起きた壬申の乱

672年に起きた壬申の乱は、大友皇子と大海人皇子による皇位継承争いが発端でした。天智天皇が、本来であれば弟が即位することになっていたにもかかわらず、息子に皇位を継がせようとしたために起こったのです。

戦いに勝利したのは大海人皇子で、天武天皇として朝廷政治の基礎を築きました。壬申の乱ゆかりのスポットは紹介した場所以外にもあるので、調べてみるのもよいでしょう。

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構成・文/HugKum編集部

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