二・二六事件の概要
「二・二六事件(ににろくじけん)」は、いつ、どこで、誰が起こした事件なのでしょうか。基本的な言葉の意味もあわせて見ていきましょう。
1936年2月26日に発生したクーデター
二・二六事件は、1936(昭和11)年2月26日に、東京で起きたクーデターです。陸軍の「皇道派(こうどうは)」に属する青年将校22人が、約1,500人の部隊を率いて武力蜂起(ほうき)した出来事を指しています。
皇道派とは、陸軍に存在した派閥の一つです。天皇親政(しんせい)の実現を掲げており、革命のためには武力行使も辞さない過激な思想を持っていました。
なお将校とは、兵を指揮する立場にある軍人のことです。二・二六事件では、青年将校らの企ては失敗に終わり、以降、日本でクーデターは起こっていません。
二・二六事件が起こった背景
陸軍の青年将校たちは、なぜクーデターに走ったのでしょうか。二・二六事件が起こった背景をひもときます。
経済格差の広がり
二・二六事件が起こる6年ほど前に「世界恐慌」がありました。日本経済も深刻な打撃を受け、都市部では企業の倒産で多くの失業者が出たのです。
農村では作物の価格が下落して、人々の暮らしは非常に苦しくなりました。地方の農村では、娘を売って窮状をしのぐ家もあったほどです。
しかし政府は適切な対策をせず、国民を失望させます。また巨大な資本を持つ財閥が、不景気をよそに好業績をあげ続けており、激しい経済格差が生じました。
当時は、貧しい農村育ちの人が軍隊に入るケースが多く、故郷の窮状に心を痛める軍人が増えます。農村出身の若い将校たちの間でも、私利私欲に走る政治家や財閥を倒して平等な社会を実現しようとする機運が高まっていったのです。
陸軍内部の派閥争い
陸軍内部で起こっていた派閥争いも、二・二六事件の原因の一つです。当時の陸軍の内部には「皇道派」と「統制派(とうせいは)」の二大派閥があり、激しく対立していました。
天皇親政を唱えて革命を主張する急進的な皇道派に対し、統制派は政党や財閥・官僚と協調しながら政治に介入しようと考えます。事件前、両者の争いは、いったん統制派が勝利しており、皇道派の主要人物は重要な役職から外されていました。
さらに事件の直前に、多くの皇道派青年将校が所属する「第一師団」の満州(まんしゅう:中国の東北地方)への派遣が決まります。満州派遣決定により、追い詰められた皇道派青年将校らが、急遽(きゅうきょ)、武力蜂起を決意したことが二・二六事件の直接の原因といえます。
二・二六事件の流れ
二・二六事件は、どのような経過をたどったのでしょうか。発生から収束までの流れを見ていきましょう。
青年将校率いる部隊が、政府要人らを襲撃
青年将校たちはまず、彼らが腐敗政治の元凶と考えていた政府要人の暗殺に向かいます。実際に襲われた人物の名前と、当時の役職は以下の通りです。
●内閣総理大臣・岡田啓介(おかだ けいすけ)
●侍従長・鈴木貫太郎(すずき かんたろう)
●内大臣・斎藤実(さいとう まこと)
●大蔵大臣・高橋是清(たかはし これきよ)
●陸軍教育総監・渡辺錠太郎(わたなべ じょうたろう)
●前内大臣・牧野伸顕(まきの のぶあき)
首相官邸にいた岡田啓介は、襲撃を知ってとっさに女中部屋に隠れ、難を逃れます。鈴木貫太郎は銃弾を受けるも一命を取りとめ、牧野伸顕は襲撃直前に脱出に成功します。
一方、斎藤実・高橋是清・渡辺錠太郎の3人は殺害され、各所で警備にあたっていた人々も多数亡くなりました。

陸軍大臣に国家改造断行を迫る
要人の襲撃後、部隊は警視庁や陸軍省、首相官邸などがある永田町、および三宅坂の一帯を占拠します。そして陸軍大臣の川島義之(かわしま よしゆき)に面会し、国家改造の断行を迫りました。
陸軍は当初、青年将校らに対して同情的な態度を示します。身内の起こした事件を、何とか穏便に解決したいとの思惑もありました。
そこで大臣は、青年将校らに対してクーデターを容認するような告示を出します。その後は、決起部隊を指揮下に置いて占拠地帯の警備を命じ、食料の補給まで行ったのです。
天皇の意思により形勢が変わる
陸軍大臣の告示と命令を受け、一時は優勢となった決起部隊でしたが、まもなく形勢が大きく変わります。青年将校らが最も崇敬(すうけい)する昭和天皇が、彼らを反逆者と見なしたのです。
天皇は、重臣が何人も殺傷された事実を重く受け止め、陸軍大臣に早急な鎮圧を命じます。同士討ちをためらう陸軍に、自ら近衛師団(このえしだん:皇室の守護を担う軍隊)を率いて鎮圧に向かうと告げるほどでした。
天皇の強い意思により、陸軍上層部は考えを改めます。武力鎮圧の命令を出し、29日には約2万4,000人の軍勢で決起部隊を包囲しました。包囲軍はラジオやビラを使って、決起部隊の兵士らに元の隊に戻るように呼びかけます。
彼らの多くは、事情を知らずに連れ出されただけだったので、呼びかけに従って素直に戻っていきました。青年将校も一部は自決しましたが、ほとんどが投降し、発生から4日で事件は解決します。

二・二六事件のその後
短期間で収束したものの、二・二六事件は、その後の日本社会に大きな爪痕(つめあと)を残します。青年将校らと、陸軍の運命を見ていきましょう。
青年将校たちの運命
クーデターの失敗を悟ったとき、青年将校のうち2人は自決しましたが、他は皆、降伏しています。彼らは投降し、軍法会議と呼ばれる裁判の場で自分たちの行動の正当性を主張して、世間に認めさせようと考えたのです。
しかし陸軍上層部は、逆のことを考えていました。正当な裁判を実施すれば、当初クーデターを容認した自分たちの失態が明らかになります。
そこで「一審制・非公開・弁護人なし・上告なし」の特別な軍法会議を開き、早々に判決を下してしまったのです。その裁判によって事件の中心となった17人に死刑判決が下り、1週間後にはほとんどが処刑されました。

軍部の発言力が強まる
事件後、上層部に残っていた皇道派の幹部も、統制派によって軍の中枢から締め出されます。さらに統制派は、事件の責任の一端は政財界にもあるとして、内政に干渉するようになりました。
武力蜂起の恐ろしさを見せつけられた政府も、軍の意見には逆らえなくなります。軍部の発言力はどんどん強まり、政治を意のままに動かす体制が築かれていきました。
軍主導により、二・二六事件の翌年には「日中戦争」が勃発(ぼっぱつ)し、1938(昭和13)年には「国家総動員法」が公布されます。以降、1945(昭和20)年8月に敗戦を迎えるまで、日本では軍主導の政治体制が続きました。
国政を揺るがした二・二六事件
二・二六事件は、若き陸軍将校たちが、政治の腐敗を正すと同時に、軍の主導権を奪い返そうとしたクーデターです。しかし彼らの企ては、反対に軍上層部の保身と野望に利用されてしまいます。
もし二・二六事件が起きなかったら、もし正当な軍法会議が開かれていたら、日本の歴史は変わっていたかもしれません。国政を揺るがした大事件について、子どもと一緒に想像を巡らせ、意見を交わしてみるのもよい勉強になるでしょう。
「国家総動員法」についてもチェック

構成・文/HugKum編集部