ポツダム宣言とは? いまさら聞けない歴史の分岐点を分かりやすく解説【親子で歴史を学ぶ】

歴史の分岐点になったともいえる「ポツダム宣言」ですが、具体的な内容を知らない人もいるかもしれません。そこで宣言が出された経緯や内容、日本政府の対応などを詳しく紹介します。理解を深め、子どもと戦争や平和について考えてみるのもよいでしょう。
<画像・広島の原爆ドーム>

ポツダム宣言とは?

「ポツダム宣言」とは、どのようなものだったのか、概要を紹介します。いつ、どこで、誰が宣言したものなのか、時代的背景とあわせて見ていきましょう。

米・英・中の3国の共同宣言

ポツダム宣言は、第二次世界大戦末期にアメリカ・イギリス・中華民国が、日本に発した無条件降伏の勧告宣言のことです。1945(昭和20)年7月にドイツのポツダムで行われた会談で宣言の内容が協議されたため、ポツダム宣言と呼ばれています。

中華民国:1912(明治45)年に樹立された中国大陸の共和政国家

ツェツィーリエンホーフ宮殿(ドイツ・ポツダム)。ベルリンから約30㎞離れているポツダムの町にある、この宮殿で「ポツダム宣言」が採択された。米国トルーマン大統領、英国チャーチル首相、ソ連スターリン書記長が会談した。現在は、半分以上の部屋がホテルになっている。

第二次世界大戦は、1939(昭和14)年に、ドイツがポーランドに侵攻したことが始まりです。ドイツ・イタリア・日本の枢軸国(すうじくこく)と、アメリカ・イギリス・中華民国などを中心とする連合国が戦いました。

1945年にドイツが無条件降伏したことを受けて、アメリカ・イギリス・ソ連(現ロシア)の首脳が集まってポツダム会談が行われ、その後、中華民国の同意を得て、アメリカ・イギリス・中華民国の連名で宣言が発表されたのです。

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ソ連は、後から署名

ソ連は、ポツダム会談に参加していたものの、日本と「中立条約」を結んでいて交戦状態になかったため署名しませんでした。しかし、1945年4月に、ソ連が条約の不延長を通告、同年の8月に日本へ宣戦布告をします。

実は、1945年2月に行われた「ヤルタ会談」で、ソ連はアメリカ、イギリスと秘密協定を結んでおり、対日参戦することになっていました。そのため、ソ連は日本への宣戦布告後、あらためてポツダム宣言に署名したのです。

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ポツダム宣言の内容は?

ポツダム宣言は、日本にとって、簡単に受け入れられるものではありませんでした。どのような内容だったのか、提示条件などを紹介します。

基本的な内容は「日本の無条件降伏」

終戦のために、受け入れなければならない条件は13項目で、基本的には「日本の無条件降伏」です。無条件降伏の対象については賛否両論あり、日本国や日本政府ではなく、あくまでも軍隊の無条件降伏であるという見解が少なくありません。

そのほかにも、被害を与えた国へ賠償を行うこと、軍事産業の禁止、新しい規律ができるまで連合国が占領すること、日本の主権が及ぶ領土の限定などが盛り込まれていました。

民主的で平和的な国ができたら、占領軍を引き上げることや、言論・宗教の自由、基本的人権主義の確立など多岐にわたっています。これらの条件はアメリカが考案し、イギリスと中華民国の同意を得て発表されました。

受け入れない場合は「完全なる破壊」

宣言には、日本が受け入れない場合についての条件にも触れられています。条件については一切妥協せず、無条件降伏を受け入れない場合は、さらに苛烈(かれつ)な攻撃を加え、破壊するとされていました。

また、世界征服をもくろんでいる軍国主義者を永久に排除するために、「日本を占領する」と示されています。しかし、「日本人を奴隷(どれい)にしたり滅亡させたりするつもりはない」とも明示されていたのです。

日本政府の対応

ポツダム宣言に対して、日本政府は、どのような対応をしたのでしょうか?  最終的には受諾しますが、そこに至るまでの過程についても紹介します。

無条件降伏への反発・迷い

無条件降伏に対しては、政府内でも反発や迷いがあり、なかなか方向性を決められずにいました。政府は交渉の余地があるとし、ソ連を仲介人として交渉を進めることを考慮していたため、基本的に是非を明言しない態度を貫いていました。この時点では、ヤルタ会談でソ連が対日参戦することが決まっていたとは知らなかったのです。

また、首相が記者会見の場でノーコメントという意味の「黙殺する」と述べたことが、「拒否」と英訳されて広まってしまうという事態が起こります。この誤訳が、より状況を悪化させ、原爆投下につながったともいわれています。

2回の原爆投下

日本政府が黙殺を続けるなか、広島と長崎に原爆が投下されました。真意は明らかになっていませんが、条件をなかなか受諾しない日本にしびれを切らしたと考えられています。

そのほかにも、前述の通りの誤訳が原因、戦争を早く終わらせるため、自国の兵士を守るため、他国にアメリカの軍事力を見せつけるためなど、さまざまな見解があります。

原爆投下と同時期に、ソ連が中立条約を破り参戦したことも、日本を不利な状況に追い込みました。

広島原爆ドーム(広島市)。手前に見える写真は、原爆ドームの元の建物。1915(大正4)年広島県物産陳列館として建てられ、その後「広島県産業奨励館」と改称されていた。2023(令和5)年5月19日~21日には「G7広島サミット」が行われる。

ポツダム宣言受諾により8月15日終戦

原爆が投下され、頼りにしていたソ連にも宣戦布告されたことで勝てる見込みがないと判断し、1945年8月10日にポツダム宣言を受諾しました。

どのように国民に伝えるか慎重に検討され、「終戦の詔書(しょうしょ)」が作成されます。8月15日正午に、昭和天皇が詔書を朗読した音声がラジオで放送され、日本が降伏したことを国民に知らせました。

終戦に伴い、日本は日清(にっしん)戦争後に獲得した植民地を失います。さらに、沖縄などがアメリカの統治下、北方領土がソ連の統治下になったのです。

北方領土返還を求める看板(北海道羅臼町)。奥に見える島影が国後島。戦後の領土の最終的処理は平和条約によって行われるべきであり、ポツダム宣言は北方四島を日本から切り離すものではない、というのが日本政府の見解。

戦争の痛みを、風化させないことが大切

多くの国を巻き込んだ第二次世界大戦は、日本がポツダム宣言を受諾したことで終戦になります。受諾するまでに広島と長崎に原爆が投下され、多くの国民が命を失いました。

政府の対応が違っていたり、記者会見のコメントがきちんと英訳されたりしていれば、そのような悲劇は起こらなかったかもしれません。戦争を風化させないためにも、家族で戦争と平和について深く考えてみるのもよいのではないでしょうか。

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構成・文/HugKum編集部

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