「ヤルタ会談」について、聞いたことはあるでしょうか? 第二次世界大戦中に開かれたこの会談では、戦時中の対策や戦後処理について、さまざまなことが話し合われました。東西冷戦や北方領土問題とも深い関わりのある、ヤルタ会談について解説します。
ヤルタ会談とは?
ヤルタ会談とは、いつ、どのような形で行われたのでしょうか? ヤルタ会談の概要について、紹介します。
1945年2月開催の三国首脳会談
ヤルタ会談とは、第二次世界大戦中の1945年2月4~11日まで、1週間にわたって行われた「三国首脳会談」です。アメリカのルーズベルト大統領、イギリスのチャーチル首相、ソビエト連邦のスターリン書記長兼首相が参加しました。
ここで話し合われたのは、今後の政策や戦後処理の問題です。当時のヨーロッパ戦線は、連合国側の進軍によりドイツの敗戦が濃厚な状況でした。そのため、連合国側の主要3カ国の首脳会談が行われたのです。
クリミア半島のヤルタで開催
会談は、ソ連領のクリミア半島南端「ヤルタ」で開かれました。ヤルタは黒海沿岸にあり、ソ連随一のリゾート地として知られた街です。皇帝や貴族の別荘地としても人気があり、豪華な別荘が立ち並んでいました。
会談が開かれたのは、ロマノフ家の離宮であった「リヴァディア宮殿」です。リヴァディア宮殿には、現在でも会談で使用されたテーブルや、ルーズベルト大統領が使用した寝室などが残されており、博物館として公開されています。
ヤルタ会談の内容
会談では、どのような内容が話し合われたのでしょうか? 会談の主な論点についてまとめました。
国際連合設立について
ヤルタ会談で話し合われた重要な事項の一つが、「国際連合」設立についてです。
第一次世界大戦後に「国際連盟」が発足しましたが、さまざまな問題があり、第二次世界大戦の開戦を避けることはできませんでした。この失敗を繰り返さないため、新たな平和機構として、国際連合を設立することが計画されたのです。
会談では「アメリカ・イギリス・フランス・ソ連・中国の5カ国は、国際連合の決定に対して、拒否権を持つ」ことが確認されました。この5カ国は、後に安全保障理事会常任理事国として規定されています。
ドイツ、ポーランドの問題について
会談では、ドイツの戦後処理や、ポーランドをめぐる問題についても話し合われました。ドイツについては、ドイツ全体や首都ベルリンの分割管理、および戦争犯罪人の裁判を開くことが決定されています。
また、ポーランドはイギリス国内に亡命政府があり、イギリスは、これを正式な政権として認めていました。しかし、ポーランド内にはソ連が樹立した政府も存在しており、今後、どちらを正式な政権とするかが問題になっていたのです。
ポーランド政権は、最終的には、戦後に国民投票を行って決める案が採用され、合意に達しました。
ヤルタ会談で交わされた密約
公に話し合われた内容以外にも、ヤルタ会談では、対日政策として交わされた密約がありました。これは「ヤルタ協定」と呼ばれていますが、内容はどのようなものだったのでしょうか?
ソ連の対日参戦が決定
会談が開かれる以前から、アメリカは、ソ連に対して何度も「対日参戦」を要求しています。対してソ連は、「日ソ中立条約」をもとに、中立を守る姿勢を貫いてきました。
しかし、会談においてソ連は終戦後の南樺太(からふと)返還と、千島(ちしま)列島の領有を求め、アメリカは見返りとして、ソ連に対日参戦を求めたのです。その結果、「ドイツ降伏の2~3カ月後にソ連が対日参戦する」という密約がなされました。
ドイツは45年5月に降伏し、ソ連は3カ月後の8月に日本に侵攻することとなったのです。
現在も続く北方領土問題へ
45年8月下旬~9月上旬にソ連は日本に侵攻し、北方四島の択捉(えとろふ)島、国後(くなしり)島、色丹(しこたん)島、歯舞(はぼまい)群島を占拠しました。日本人は強制退去させられ、現在まで占拠が続いています。
ヤルタ協定があったことや、45年4月に、ソ連が日本に対して「日ソ中立条約を延長しない」と通告したことなどから、ソ連の侵攻は、国際法上違反ではないというのがロシア側の主張です。しかし、日本からすると、ヤルタ協定はあくまで密約であり、受け入れられるものではありません。
この北方領土問題が解決されない限り、ロシアとの平和条約締結はないとし、日露間での大きな問題として、現在まで解決にはいたってません。
ヤルタ会談のその後
第二次世界大戦後の処理などが話し合われたヤルタ会談ですが、その後、世界はどのような動きをしたのでしょうか? 会談による影響をみていきましょう。
東西冷戦が勃発
ヤルタ会談では、特に、ヨーロッパの問題について東西の利害が対立する状況となりました。ポーランドをはじめ、東ヨーロッパでの勢力を拡大したいソ連と、ソ連の勢力拡大を懸念するアメリカとの対立が、明確に現れたのです。
世界は、アメリカを中心とする西側(資本主義)と、ソ連を中心とする東側(社会主義)に二分されました。直接的な武力闘争は起こらなかったものの、東西の交流が制限されるなどの緊張状態が続く「冷戦」が始まったのです。
東西に分断されたドイツは冷戦の象徴的な存在で、経済的に苦しむ東側から、発展する西側に亡命する人が後を絶たず、ベルリンの壁が造られることになりました。
マルタ会談で冷戦終結を宣言
冷戦終結が宣言されたのは、89年12月2、3日にかけて、地中海マルタ島で開かれた「マルタ会談」の場です。
マルタ共和国の沖に停泊したクルーズ客船で行われた会談には、アメリカのジョージ・H・W・ブッシュ大統領と、ソ連のハイル・ゴルバチョフ書記長が出席しました。
中心となった議題は、ドイツ再統一問題や中東紛争問題、軍備管理・軍縮問題などです。米ソ間で具体的に何らかの合意があったわけではありませんが、ブッシュ大統領がゴルバチョフ書記長の政策を支持することなどが発表されました。
そして「ヤルタからマルタへ」というキャッチフレーズが掲げられ、約44年続いた東西冷戦の終結が宣言されたのです。
戦後の体制を決めたヤルタ会談
ヤルタ会談においては、国際連合の設立やヨーロッパの処遇などが話し合われました。しかし、表立って話し合われた事項だけではなく、対日政策についての密約なども交わされ、現代の日本にも多大な影響を与える会談となったのです。また、東西冷戦の発端ともなったヤルタ会談は、戦後の世界情勢に大きな意味を持つ出来事といえるでしょう。
もっと詳しく知りたい方のために
ヤルタ会談とそれをとりまく時代や世界情勢について、もっと知りたい方のために、参考図書をご紹介します。
小学館版学習まんが 世界の歴史17「冷戦と超大国」
歴史教科書で有名な山川出版社の編集協力を得て誕生した「学習まんが世界の歴史」。第17巻では、第2次世界大戦後の超大国であるソ連とアメリカが対立した時代を中心に扱っています。「鉄のカーテン」をはさんだ東西の動き、指導者たちの交代、そして冷戦後への世界へと、今日の国際関係を理解するための大事なポイントが、ドラマチックにまんがのストーリで描かれています。
二玄社「ヤルタ会談 世界の分割 戦後体制を決めた8日間の記録」
フランスの元政治家でジャーナリストでもある作者が、ヤルタ会談での3カ国の首脳たちの思惑や心理合戦を克明に描いています。戦後現代史の分岐点ともいえる「世界を分割した一週間」を時系列で追う、ヤルタ体制の原点記録となっています。ヤルタ密約、ヤルタ協定を全文収録。
構成・文/HugKum編集部