マッカーサーとはどんな人物? 功績や経歴をチェックしよう【親子で歴史を学ぶ】

マッカーサーについて知っているつもりだけど、実はよく知らないという人は多いのではないでしょうか。戦後から現代に至る日本の歩みに大きな影響を与えたマッカーサーとはどのような人物なのか、経歴や名言・エピソードを当時の世界情勢も交えて紹介します。
<画像:フィリピン・コレヒドール島のマッカーサー元帥像>

マッカーサーは何をした人?

マッカーサーと聞いて、「戦後の日本で指揮を執った人」「GHQの人」など、漠然としたイメージを持つ人は多いものです。マッカーサーが日本史において長く名を残すのはなぜなのか、その詳細を紹介します。

連合軍代表として降伏文書に調印

1945年8月14日、太平洋戦争で劣勢を強いられた日本は、アメリカ・イギリス・中国による降伏勧告宣言「ポツダム宣言」の受託を決断します。

同年9月2日、東京湾上に停泊するアメリカの戦艦ミズーリ号の甲板で、降伏調印式が執り行われました。そこに連合国軍代表として参加し、調印をしたのがアメリカの軍人ダグラス・マッカーサーです。

そのときのマッカーサーは、トルーマン大統領の任命により連合国軍最高司令官の地位にありました。当時の日本においては敗戦、連合国軍においては勝利の象徴としての役割を担った存在こそがマッカーサーだったのです。

八王子・雲龍寺のマッカーサー元帥像。「日本再建ノ三大恩人銅像」のひとつとして、中華民国の蒋介石、スリランカのジャヤワルデネ大統領の銅像とともに立つ。

日本の占領政策における責任者

太平洋戦争後、東京には連合国最高司令官総司令本部(GHQ=General Headquarters)が置かれました。マッカーサーは最高司令官として、日本の非軍事化および民主化を推し進めていったのです。

当時の総理大臣・幣原喜重郎に対し、マッカーサーは以下の五大改革を指示しました。

●圧政的諸制度の撤廃(特別高等警察の廃止など)
●労働組合の結成促進
●女性の解放
●教育の自由化
●経済の民主化

これを背景に、日本は急速に民主化を進めていきます。1946年10月29日に制定された日本国憲法は、大日本帝国憲法が掲げた天皇主権から一転、国民主権・平和主義の憲法となりました。

1951年に連合国軍最高司令官を解任されて帰国の途に就くまでの間、マッカーサーは近代日本の基盤作りに尽力したのです。

マッカーサーの経歴

日本の近代化に大きな影響を与えたマッカーサーは、どのような経歴を持つ人物なのでしょうか。その人生を幼少期から順に見ていきましょう。

軍人家庭に生まれる

1880年1月26日、アーカンソー州リトルロックの兵営(兵士が生活する場所)でマッカーサーは生まれました。父アーサー・マッカーサー・ジュニアは南北戦争の英雄で、母メアリー・ピンクニー・ハーディ・マッカーサーは南部で綿花業を営む裕福な家庭出身の女性です。

父親が軍人だったため、マッカーサーが生まれたのは兵営でした。幼少期のマッカーサーは、父の異動に伴い各地の兵営を転々としながら過ごしたようです。

軍人の道へ

青年となったマッカーサーは、軍人として名を挙げた父の後を追って軍人への道を選びます。長兄のアーサー3世が海軍へ進んだのに対し、マッカーサーは父と同じ陸軍への道を選びました。

1899年、名門ウェストポイント陸軍士官学校に入学します。その際、母メアリーも士官学校近くのホテルへ移り住み、マッカーサーを見守り続けたとの逸話が残されています。

1903年、母の手厚いサポートのおかげもあり、マッカーサーは主席で士官学校を卒業しました。そして、いよいよ軍人としての第一歩を踏み出すことになったのです。

父の副官として日本へ

卒業後のマッカーサーは、フィリピンへと配属されました。1905年、駐日米国大使館付武官として日露戦争直後の日本へ赴任した父に招かれ、副官として日本を訪れます。

このときマッカーサーは、東郷平八郎・大山巌・乃木希典などの日露戦争で活躍した人物と会見し、強い感銘を受けたとされています。

マッカーサーはおよそ8カ月かけて、日本を始め中国・東南アジア・インドなどを両親とともに周遊しました。マッカーサーのアジアに詳しい軍人としての基盤は、そのときに作られたといえそうです。

第一次世界大戦から太平洋戦争

1914年にヨーロッパで第一次世界大戦が勃発すると、戦火が拡大しつつある1917年にはアメリカも参戦を決断します。この戦争において、マッカーサーは自ら提案した「レインボー師団(強化された州兵部隊)」を率いてフランス戦線で活躍し、13もの叙勲を受けます。

帰国後の1919年、39歳の若さで母校ウェストポイント陸軍士官学校の校長に就任すると、1930年には陸軍参謀総長に就任、退役後の1935年にはフィリピンの軍事顧問就任と、実績・経験を積んでいきました。

1941年、日米間の緊張に伴い、マッカーサーはフランクリン・ルーズベルト大統領の要請により、フィリピン駐在アメリカ極東軍司令官に就任します。太平洋戦争では一度オーストラリアへ敗走するものの、1945年7月にフィリピンを奪還し、終戦を迎えると同時に戦勝国代表の1人として来日することになるのです。

国民の支持を得るも大統領と対立した晩年

1950年に勃発した朝鮮戦争に伴い、マッカーサーは国連軍最高司令官として陣頭指揮を執ります。しかし、戦況はこう着し、マッカーサーは状況打開の一手として北朝鮮を支援する中国との交戦を主張しました。

一説によると、このときマッカーサーは中国に対する原爆の使用を要請したともいわれています。一方、世界大戦突入を恐れたトルーマン大統領はそれを退け、同時にマッカーサーの更迭を決めました。

帰国後のマッカーサーは、コンピュータメーカー「レミントンランド社」の会長に就任します。国民からの絶大な支持を背景に全国を遊説したマッカーサーは、1964年4月5日、84歳でその激動の生涯を閉じました。

ダグラス・マッカーサー記念館(アメリカ・ヴァージニア州ノーフォーク)。かつては市庁舎と裁判所だった博物館エリアでは、勲章、制服、パイプ、日本駐留中に贈られた品々など、マッカーサーの寄贈品や私物が展示されている。

当時の世界情勢

マッカーサーが生きた当時の世界は、各地で大きな戦争が勃発する時代でした。当時の世界情勢・時代背景を詳しく見ていきましょう。

世界中を巻き込む大戦が勃発

マッカーサーが活躍した1900年代前半から半ばにかけて、地球上では世界中を巻き込む大戦が連続して勃発していました。1914年、連合国と同盟国間との争いによって開戦した第一次世界大戦は、1918年まで約4年間続きました。

続く1939年に勃発した第二次世界大戦(太平洋戦争)は、主要国を次々に巻き込みながら戦火を広げ、1945年の終結まで実に6年以上を費やすことになったのです。

大きな戦争が立て続けに起きたこの時代は、同時に優秀な軍人が強く求められる時代でもありました。そのような時代背景をもとに頭角を現したマッカーサーが時代の寵児となったのは、ある意味当然の成り行きだったのかもしれません。

欧米化が進む日本も戦争へ

1853年、浦賀沖にペリーが来航したことをきっかけに、約200年続いた日本の鎖国が終わりを迎えます。明治維新を経て海外との行き来が活発になる中で、徐々に日本と外国との利権争いが起きるようになりました。

1894年、朝鮮支配を目論んだ日本は、同じく朝鮮進出を目指していた清との戦争に突入し、1895年に勝利を収めます。日清戦争の終結から間もない1904年には、朝鮮・満州の支配権を巡って日露戦争が勃発し、1905年に日本の勝利で終結しました。

その後、日本は第一次世界大戦にも参戦、最終的には太平洋戦争へと突入していくことになるのです。

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マッカーサーの名言

マッカーサーは、その生涯の中でいくつもの名言を残しています。後世に語り継がれる名言のうち、特に有名な二つを見ていきましょう。

「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」

マッカーサーについてあまり知らなくても、「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」という言葉を見聞きしたことがある人はいるかもしれません。

もともと軍人の間で歌われていた「兵隊の歌」の歌詞の一部で、トルーマン大統領から連合国軍最高司令官を解任されたマッカーサーが、1951年4月19日にアメリカ上下両院合同会議で行った演説中に引用したことで知られるようになりました。

言葉の意味には諸説ありますが、「役目を終えたものは潔く表舞台から立ち去るべき」「老いて表舞台から姿を消しても、功績は語り継がれる」などが有力です。

「I shall return」

1942年、第二次世界大戦の指揮をフィリピンで執っていたマッカーサーは、思いがけない日本軍の猛攻に苦しんでいました。戦況が悪化し、大統領命令でオーストラリアへの敗走が決まった際、口にした言葉が「I shall return」です。

「わたしは必ず戻る」との言葉の通り、後にマッカーサーは日本軍からフィリピンを奪還し雪辱を果たします。

数々の戦果を挙げた名司令官ならではの、敵前逃亡せざるを得ない悔しさや反撃への強い思いが込められた言葉といえるでしょう。

「マッカーサー道路」の通称もある東京都市計画道路環状2号線。GHQが虎ノ門のアメリカ大使館から東京湾の竹芝桟橋までの軍用道路を要求したという俗説からの通称だが、実際は戦後68年にわたって工事が中断しており、全線開通は2022年12月。

マッカーサーのエピソード

華々しい経歴や功績によって歴史に名を残すマッカーサーですが、その人となりは意外に知られていません。マッカーサーの人柄が垣間見える主なエピソードを紹介します。

昭和天皇との会見

1945年9月27日、マッカーサーは昭和天皇との初めての会見に臨みました。この席で昭和天皇は「戦争の責任は自分ひとりにある」との趣旨の話をされたといわれています。

太平洋戦争終結から間もない当時、世界では昭和天皇を戦犯として裁くべきとの論調が高まっていました。そのような状況の中で、多くの軍人が裁かれることを憂い責任を負おうとした昭和天皇の姿勢に、マッカーサーは強い感銘を受けたとされています。

天皇の出迎えは副官に任せたマッカーサーですが、会見終了後には自ら玄関まで見送っています。自らが認めた相手に対しては敬愛の情を惜しまない、そのようなマッカーサーの人柄がよく表れたエピソードといえるでしょう。

トレードマークの「コーンパイプ」

マッカーサーといえば、まずトレードマークの「パイプ」を思い浮かべる人が多いのではないでしょうか。当時の写真に残されている大きなパイプは、コーンパイプと呼ばれるものです。

マッカーサーといえばこのパイプというイメージがあるが…

マッカーサーが愛用していたのと同じ火皿が大きいタイプのコーンパイプは、現在マッカーサーにちなんで「マッカーサータイプ」と呼ばれています。

常にコーンパイプをくわえていたイメージを持たれがちなマッカーサーですが、実際のところは違っていました。

マッカーサー付きの通訳によると、マッカーサーがコーンパイプを使用したのは人目に触れる屋外のみで、屋内では別の高級パイプを愛用していました。

コーンパイプを利用して、マッカーサーは自らの「勇猛でたくましい軍人」というイメージを巧みに演出していたのです。

日本の近代化に貢献したマッカーサー

マッカーサーは、GHQの最高司令官を始めとする数々の名誉あるポストを歴任した有名な軍人です。特に戦後日本に与えた影響は大きく、日本の近代化に多大な貢献を果たしました。

その経歴とともに名言やエピソードを知り、マッカーサー自身や彼が生きた激動の時代へと思いを馳せてみてはいかがでしょうか。

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構成・文/HugKum編集部

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