遺跡に残る「貝塚」はゴミ溜めじゃなかった? 研究の歴史と日本にある貝塚を紹介【親子で歴史を学ぶ】

「貝塚」からは食料の残骸だけではなく、人骨・装身具なども出土しています。ゴミ溜めというよりも、なんらかの精神的な意味のある場所だったのかもしれません。貝塚研究の歴史を振り返るとともに、日本各地の貝塚について紹介していきます。
<画像・国指定史跡の曽谷貝塚(千葉県市川市)>

貝塚とは何?

「貝塚(かいづか)とは縄文時代のゴミ溜め」というように、学校で習った人が多いのではないでしょうか。しかし、研究が進むにつれて、貝塚の役割が徐々にわかってきました。

貝殻が層をなして積み重なった遺跡

貝塚は、貝殻(かいがら)が層をなして積もり、年数を重ねたことにより「地層」となって現在まで残っているものです。

なぜ、貝殻が積み重なっていたかというと、人々が食べ物の残骸(ざんがい)をそこに集積していたからです。残骸の中には、身を食べ終わった貝殻もあり、貝殻は土に還らないため、多くが土の中に残りました。

貝塚からは、貝だけでなく人や動物の骨、土器をはじめとする道具、装飾品なども、よい保存状態で発見されています。そのため、貝塚は縄文時代の様子を知るための貴重な遺跡となっています。

大森(おおもり)貝塚の「貝層剝離断面標本」(東京都品川区)。貝塚の発見者・モース博士が詳細な発掘場所を書かなかったため、品川区と大田区の2カ所に「石碑」がある。その後の調査により、初発掘は品川区側と判明。この標本は、大森貝塚遺跡庭園内にある。

じつは、ゴミ溜めではなかった?

貝塚は、貝殻などの食料残滓(ざんし)が多く集積していたため、以前はゴミ捨て場だったと考えられていました。しかし、発掘研究が進むにつれて、前述したように壊れていない土器や装身具、人や動物の骨などが発見されています。

道具が貴重だった時代に、壊れていない道具を捨てたり、遺体をゴミのように扱ったりすることは考えにくいでしょう。そうすると、貝塚はスピリチュアルな場であったと考えるほうが自然です。

食べ物も人や動物も、いずれはすべて自然に還っていくものですから、「再び戻ってきてほしい」と願いを込めて葬る場だったのかもしれません。なお、壊れていない道具や装飾品は、遺体の副葬品だったと考えられています。

貝殻の成分により、遺物の保存性が高い

他の遺跡に比べて、貝塚から出土する遺物の保存状態がよいのは、なぜでしょうか。それは、貝殻の成分である炭酸カルシウムの効果です。

炭酸カルシウムが作用して、貝塚の土壌はアルカリ性に保たれています。そのため、腐朽(ふきゅう)しやすい人骨や魚の骨、動物の角・骨などでできた道具や装身具がそのまま残ったのです。

その証拠に、地層の断面が露出している貝塚を見学すると、普通の遺跡では残りにくい人骨などが出土していることがわかります。

貝塚研究の始まり

貝塚の研究は、19世紀に入ってから始まりました。それ以前も「古くからあるもの」と認識されていたようですが、本格的に調査されたことはありませんでした。

日本で初めて発掘されたのは大森貝塚

日本で初めて発掘された貝塚は、東京都品川区にある「大森貝塚」です。この発掘をきっかけに、日本で考古学研究が広く行われるようになったため、日本考古学発祥の地ともいわれています。

大森貝塚は1877(明治10)年、E.S.モースによって発見、発掘されました。モースは「列車の窓から貝塚の地層を発見した」というエピソードを残しています。

貝塚は、じつに多くの情報を内蔵している遺跡です。人骨からは人種が、地層からは年代がわかります。当時の海が、どこまでだったのか、海岸の進退も研究できます。

さらに、貝塚が集落にあったととらえることで、当時の暮らしや生活環境もわかってきました。

モース博士像(大森貝塚遺跡庭園/東京都品川区)。モース博士は、少年時代から貝類に興味があり、13歳のころ、研究者が見学に来るほどの見事な標本をつくっていたという。列車の窓からでも、すぐに貝層を発見できたわけだ。

日本にある貝塚を紹介

日本には、縄文時代の貝塚が、およそ2,400カ所ほどあるといわれています。そのなかで代表的な貝塚を、いくつかみてみましょう。

日本最大の貝塚は加曽利貝塚

日本最大規模の貝塚は、千葉県千葉市にある「加曽利(かそり)貝塚」です。北と南の二つの貝塚からなり、北貝塚は直径約140mのドーナツ形、南貝塚は長径約190mの馬蹄(ばてい)形をしています。

加曽利貝塚がある地域に、縄文人が住みはじめたのは約7,000年前です。北貝塚の形成が始まったのは約5,000年前(縄文中期)、南貝塚の形成が始まったのは約4,000年前(縄文後期)とされています。

さらに、加曽利貝塚の周辺には、縄文時代の「ムラ」の跡が残っており、復元集落では縄文人の暮らしを想像できるようになっています。

「加曽利貝塚縄文遺跡公園」(千葉市若葉区)。千葉市内には貝塚が約120カ所ある。加曽利貝塚は北貝塚と南貝塚が連結し、全体としては8の字形をした「双環状集落」だ。1966(昭和41)年開館の加曽利貝塚博物館は入場無料。近くへ移転後、2027年再開館予定。

参考:教育委員会事務局生涯学習部文化財課加曽利貝塚博物館

千葉県は、日本一の貝塚密集地帯

千葉県の東京湾沿岸は700カ所以上の貝塚がある、日本一の貝塚密集地帯です。千葉県の貝塚の数は、全国の約2割を占めます。千葉県に貝塚が多い理由は、その地域が当時から高い山がなく、水に囲まれていて、貝の生息に適していたためです。

日本は、縄文時代には気候が温暖化し、現在よりも海岸線は内陸にくいこんでいました。海面が上がったことで入り江や遠浅(とおあさ)の干潟(ひがた)が拡大し、貝の生息に適した水域が増えたため、貝塚が多く残ったのです。

日本各地にある貝塚

日本中にある貝塚の中から、いくつか特徴的なものをみてみましょう。

●鳥浜(とりはま)貝塚
福井県三方上中(みかたかみなか)郡の高瀬川と鰣(はす)川の合流点にある貝塚です。縄文時代の遺物を含む地層は、厚さ3m以上の規模です。丸木舟・櫂(かい)・石斧(せきふ)柄・丸木弓・鉢(はち)・椀(わん)などの植物性遺物が豊富に出土しています。

●沼津(ぬまづ)貝塚
宮城県石巻(いしのまき)市にある貝塚で、縄文時代前期以降の遺物が大量に出土しています。出土品の多くは、動物の骨や角でできた釣針(つりばり)や銛(もり)、櫛(くし)などの装身具に縄文土器などです。出土品は保存状態のよいものが多く、重要文化財に指定されています。

●日下(くさか)貝塚
大阪府東大阪市の生駒(いこま)山麓の扇状地で発見された、縄文時代後期から晩期の貝塚です。1966(昭和41)年には、縄文時代の遺物を含む層から、ほぼ完全な形の馬の骨格が見つかりました。1972(昭和47)年には、遺跡南側が国の史跡に指定されています。

縄文時代の暮らしを想像してみよう

貝塚は長い間、縄文人の「ゴミ溜め」と思われていました。しかし、出土品に人骨や装飾品なども含まれていることから、現在ではスピリチュアルな場だったのかもしれないと考えられています。

貝塚の遺物が、他の遺跡よりも保存状態がよいのは、貝殻に含まれる炭酸カルシウムの作用です。そのおかげで、貝塚からは当時のさまざまな情報を得ることができました。

貝塚の周りには、縄文時代のムラがあったこともわかっています。復元されたムラや博物館を訪れると、縄文時代の様子がよくわかります。

歴史の勉強を兼ねて、縄文人の暮らしを想像してみるのも、楽しいのではないでしょうか。

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構成・文/HugKum編集部

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