「平賀源内」の肩書きが多すぎる! エレキテルやうなぎ、殺傷事件まで、生涯のエピソードを解説【親子で歴史を学ぶ】

平賀源内は、さまざまな分野で能力を発揮した人物です。江戸時代を題材にした時代劇や小説などに登場することもあり、源内について知ると当時の文化への理解が深まります。源内の生涯や発明品、有名なエピソードなどを紹介します。

平賀源内とは?

平賀源内は、江戸時代中期に活躍した人物です。どのようなことをした人なのか、さっそく見ていきましょう。

発明家や作家など複数の顔を持つ

源内は発明家・作家・本草学者・陶芸家・画家・起業家などの肩書を持ち、発電器「エレキテル」を復元したことでも有名です。本草学とは、植物や鉱物などの効能を研究する薬物学を指します。

また、鉱物の知識を生かして鉱山の開発事業にも携わりました。当時の政務を執り行っていた老中・田沼意次に才能を見出され、目をかけられていた時期もあります。

単にさまざまなものを作ったり広めたりするだけでなく、幕府や資産家などを巻き込み、国益に結び付けることを重視した活動をしていました。

平賀源内 肖像(部分)[画:木村黙老 慶応義塾図書館所蔵] Wikimedia Commons(PD)

土用の丑の日にうなぎを食べる習慣を広めたとも

源内は、コピーライターの先駆け的な扱いをされることもあります。うなぎの売れ行きが悪くなる夏に、源内はうなぎ屋から相談を受けて「土用の丑の日」という宣伝文句を教えました。

土用の丑の日に「う」が付くものを食べると、縁起が良いという言い伝えがあります。今でこそ有名な話ですが、当時は一般に知られていませんでした。

源内が考案した宣伝を見た人が、意味を知りたがってうなぎ屋を訪れたことで店は繁盛し、他のうなぎ屋もまねしたので、土用の丑の日にうなぎを食べる習慣が広まったと考えられています。

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平賀源内の生涯

平賀源内は約50年の生涯の間にさまざまなことを学び、世の中に広めようとしました。生まれてから亡くなるまでに起きた主な出来事を、時系列に沿って見ていきましょう。

幼少時代からクリエイティブに活動

源内は1728(享保13)年、高松藩(現在の香川県)の小役人の子どもとして生まれました。子どもの頃から優れた才能を発揮し、からくりの掛け軸「おみき天神」を作って周囲を驚かせたそうです。

この掛け軸は酒を供えると天神様の顔が酔ったように赤くなる仕掛けで、顔の部分に透明の素材を使用し、通常の顔色と赤い色の2色が入れ替わる仕組みになっていました。

その非凡さは評判になり、「天狗小僧」と呼ばれていたと伝わっています。また、13歳のときに高松藩の藩医・三好喜右衛門から本草学を学びました。

長崎で異国の文化に触れ江戸で活躍

1749(寛延2)年に家督を継いだ源内は、1752(宝暦2)年に長崎へ行って勉学に励みます。当時の長崎は、外国の文化に触れられる数少ない場所でした。

その後、妹の夫に家督を譲ると江戸へ移り住み、有名な本草学者・田村藍水(たむららんすい)に弟子入りして物産会や薬品会を開催します。

1763(宝暦13)年、これまでの出品物をまとめた「物類品隲(ぶつるいひんしつ)」を刊行し、付録の中でサトウキビや朝鮮人参の栽培法、砂糖の製造法などを述べました。

平賀源内による博物学書『物類品隲』 Photo by Momotarou2012, CC 表示-継承 3.0, Wikimedia Commons

作家としても活動するようになり、当時の世相を風刺した小説「根南志具佐(ねなしぐさ)」や「風流志道軒伝(ふうりゅうしどうけんでん)」などを発表します。自作の浄瑠璃作品も上演され、好評を博しました。

獄中でその生涯を閉じる

1776(安永5)年、源内はエレキテルの復元に成功します。エレキテルは静電気発生装置のことで、当時の西洋で見世物や治療用具として使用されていたものです。

源内が再現したエレキテルの複製 Photo by Momotarou2012, CC BY-SA 3.0, Wikimedia Commons

源内は破損したエレキテルを入手し、長い時間をかけて修理していました。国内で普及させようとしましたが、当時の社会には受け入れられなかったようです。

1779(安永8)年、源内は酔った勢いで殺傷事件を起こして投獄されます。なぜ事件が起きたのか、詳しい経緯ははっきりしていません。一説によると、ものを盗まれたと勘違いしたのではないかとされます。

その後、牢屋を出ることなく源内は亡くなりました。諸説ありますが、破傷風で亡くなったのではないかといわれています。

平賀源内の主な作品や発明品

平賀源内は、芸術や創作の面でも頭角を現し、さまざまな作品や発明品を作り上げています。芸術作品の中には、現代に受け継がれているものも少なくありません。源内の主な作品や発明品を見ていきましょう。

現代も上演される「神霊矢口渡」

「神霊矢口渡(しんれいやぐちのわたし)」は、源内がペンネームの福内鬼外(ふくちきがい)名義で書いた作品です。江戸人形浄瑠璃の名作として、現代でも文楽や歌舞伎などで上演されることがあります。

内容は、武将・新田義興(にったよしおき)をまつる新田神社の縁起を脚色したものです。物語は全部で5段あり、お舟とその父親の頓兵衛が登場する4段目が有名です。

歌川国貞によって描かれた「神霊矢口渡」4段目。謀殺された新田義興の息子・義岑を慕うお船が、彼を討とうとする父・頓兵衛から救おうと奮闘する場面 Wikimedia Commons(PD)

それまで江戸では、大阪で人気のある作品を上演するのが一般的でしたが、神霊矢口渡は江戸を舞台にした作品として大ヒットしました。

独特の色彩が特徴「源内焼」

源内は故郷の志度に、陶器の製法を伝えたとされます。志度焼は別名を源内焼といい、源内の指導をもとに発展したと伝わります。源内焼は緑や褐色など複数の釉薬を使用した、独特の色彩が特徴です。

美術的な観賞価値が高く、江戸時代に作られた源内焼の置物や大皿の中には、国の文化遺産に登録されているものもあります。

褐釉アメリカ地図皿(作者不詳)[東京国立博物館所蔵ColBase(PD)

実は源内は、2度目の長崎遊学中に天草で採取される陶石の素晴らしさに気付き、「陶器工夫書」を幕府の代官に提出して意見を述べていました。

源内の意見は取り入れられませんでしたが、故郷に伝えた製法は受け継がれます。日本の陶器の歴史に影響を与えた人物の1人だといってよいでしょう。

燃えない布「火浣布」

源内は1764(宝暦14)年に秩父の山中で石綿(アスベスト)を見つけ、火浣布(かかんぷ)を製作しました。石綿は繊維状の鉱石で、この繊維を使用して織った布は熱に強く燃えない性質を持っています。

幕府に献上したところ好評になり大量の注文を受けますが、原料入手の難しさや技術的な行き詰まりもあって、量産化はできませんでした。

源内はものを試作するのは上手でしたが、事業として発展させるのは不得意だったのではないかといわれています。

平賀源内への理解が深まるおすすめスポット

源内は生涯を通じて幅広く学問を学び、さまざまなものを生み出しました。その活動をより詳しく知るには、ゆかりの品物や作品を見られる場所への訪問がおすすめです。源内への理解が深まる二つのスポットを紹介します。

平賀源内記念館

平賀源内記念館がある場所は源内の生まれ故郷、香川県さぬき市志度です。JR志度駅から徒歩約10分、琴電志度駅から徒歩約5分の場所にあります。

平賀源内記念館

「歩く」をコンセプトにしており、源内が歩んだ道のりをたどるように見学ができます。源内は本草学の研究や鉱山開発などで、さまざまな土地を訪れました。

「志度・高松」を始め、「長崎」「伊豆・秩父・秋田」「江戸」と、源内とゆかりが深い地域別に展示をしています。コーナーごとに年譜が掲示され、いつ何をしたのかが分かりやすくなっています。源内の作品の展示や、エレキテルの体験コーナーなども見どころです。

参考:平賀源内記念館 Hiraga Gennai Memorial Museum

平賀源内旧邸

平賀源内記念館から歩いて数分の場所にある、別館「平賀源内旧邸」もおすすめです。源内の生家を利用した施設で、薬草園や源内工房などがあります。

薬草園は源内の誕生200年を記念し、その偉業をしのぶために作られました。園内には源内がまとめた「物類品隲」に登場する約100種類の植物が植えられ、植物ごとに効能や生薬名などが記載されています。

源内工房では、平賀家に伝わる品々や源内焼を見ることができます。源内焼を再現するために発足した「源内焼クラブ」の活動場所でもあり、予約をすれば絵付け体験も可能です。

マルチな才能を発揮した平賀源内

平賀源内は、江戸時代の中期にさまざまな分野で才能を発揮した人物です。植物や鉱物に造詣が深いだけでなく、芸術の分野でも活躍し、小説や浄瑠璃などをヒットさせています。

また国産陶土を活用する意見書を書いたり、火浣布の試作品を幕府に献上したりなど、国益も考えて行動していました。源内について学べば、当時の文化や政治・技術などの知識が増え、日本史への興味関心を増すきっかけになるかもしれません。

機会があれば、志度の平賀源内記念館を家族で訪れてみてもよいでしょう。

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構成・文/HugKum編集部

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