「蘭学」とはどんな学問? その歴史や代表的な蘭学者・書籍も紹介【親子で歴史を学ぶ】

蘭学について学生時代に習った記憶はあっても、どのような学問だったのかは忘れてしまった人もいるでしょう。蘭学の内容や日本に広まった経緯を知ると、歴史の知識が深まります。蘭学の概要や代表的な蘭学者、書籍などについて見ていきましょう。

蘭学とは何?

「蘭学(らんがく)」は、江戸時代中期以降に発達した学問で、日本の近代化に貢献しました。どのような内容だったのか、さっそく見ていきましょう。

オランダから伝来した学問

蘭学とは、江戸時代にオランダから伝来した学問のことです。蘭学の「蘭」はオランダを意味し、オランダ語で書かれた書物を「蘭書」と呼びます。江戸時代に、日本が鎖国政策をとっていたときにも、オランダとは取引があったので、蘭書を手に入れられたのです。

蘭書を訳し、西欧の学術や文化などを研究しようとした人々を、蘭学者といいます。初期は、オランダ語を理解するための語学が中心であり、長崎で貿易交渉をしていた通詞(つうじ:通訳者)に、オランダ語を教わることから始まりました。

学問の種類は、幅が広い

最初は、オランダ語を学ぶことから始まりましたが、だんだんと蘭書に書かれている内容を学び、研究するようになっていきました。これまで目にすることがなかった新しい学問に、日本の学者たちは夢中になっていきます。

当時の学者たちは、あらゆることを蘭書から学ぼうとしました。蘭書の内容は、医学・天文学・数学・物理学・地学・暦学・測量技術などさまざまです。

通詞以外の蘭学者の中心は医者であり、蘭学の中でも医学が与えた影響は計り知れません。世界情勢の変化により軍備改革が叫ばれるようになると、測量技術・砲術・製鉄といった軍事に応用できる技術への関心も高まっていきます。

日本における蘭学の広まり

日本では、最初から蘭学を学べる環境にあったわけではなく、徐々に広まりをみせていきました。どのような経緯で、蘭学が国内に受け入れられるようになったのでしょうか。

公に解禁されたのは、8代将軍徳川吉宗の時代

蘭学は、最初から学者たちに開放されていたわけではなく、公に学べるようになったのは、8代将軍徳川吉宗(とくがわよしむね)の時代からです。

1720(享保5)年に「禁書令」が緩和されたことが後押しとなり、国内に蘭学が広がっていきます。吉宗は西欧の学術の輸入を認め、野呂元丈(のろげんじょう)青木昆陽(あおきこんよう)らにオランダ語を学ばせました。

老中の田沼意次(たぬまおきつぐ)が殖産興業政策を推し進め、国内の産業を盛り上げるための学問に興味を持ったことも、蘭学が広まる手助けとなります。

書籍の翻訳・塾の開校

禁書令が緩和されると、蘭書が積極的に翻訳されるようになります。翻訳された書籍を通じて、多くの蘭学者が生まれました。

学問を身に付けた蘭学者たちが私塾を開くなど、蘭学はますます盛んになっていきます。例えば、蘭方医と呼ばれる西洋医学を学んだ医師・緒方洪庵(おがたこうあん)が大坂に開設した「適塾(てきじゅく)」には、学問で身を立てようとする若者が多く集まりました。

「緒方洪庵肖像」 1901年  五姓田義松/画 大阪大学適塾記念センター蔵(PD)

ドイツ人医師のシーボルトが長崎に開設した「鳴滝塾(なるたきじゅく)」や、大槻玄沢(おおつきげんたく)が江戸に開設した「芝蘭堂(しらんどう)」なども有名です。

シーボルト事件から、蘭学の衰退まで

蘭学は江戸時代に隆盛を迎えますが、時代の変化とともに衰退していくことになります。衰退するきっかけや経緯を見ていきましょう。

シーボルト事件発生

1828(文政11)年に起きた「シーボルト事件」は、蘭学が衰退する契機になった出来事の一つです。この事件では、シーボルトが日本地図の写しを国外へ持ち出そうとしたために、本人や関係者が処罰されました。

シーボルトは出島(でじま)に監禁された後、国外追放・再渡航禁止となり、地図を渡した高橋景保(たかはしかげやす)らも処分を受けます。この日本地図は伊能忠敬(いのうただたか)が作成したもので、当時の日本の国防上の最高機密でした。

シーボルトは、長崎の出島にあるオランダ商館で医師をしていた人物です。ドイツの大学医学部を卒業した後、オランダの陸軍軍医となり日本に渡ります。オランダはシーボルトに、今後の貿易のために、日本を調査する任務を与えていました。

シーボルト記念館(長崎市)。江戸時代の日本に西洋医学や博物学を伝え、欧州に日本を広く紹介したシーボルトを顕彰するために建てられた(1989)。隣地は国指定史跡「シーボルト邸跡」であり「鳴滝塾跡」だ。建物の正面は、オランダのシーボルト邸を模している。

蛮社の獄が起こる

幕府内に存在する蘭学の台頭をよく思わない人々との対立も、蘭学が衰退する一因となります。1839(天保10)年に起きた「蛮社の獄(ばんしゃのごく)」は、幕府が蘭学者を弾圧した事件です。

蛮社は「蛮学社中」の略で、南蛮の学問を学ぶ人たちの集まりという意味があります。日本の古典を研究する国学者たちは、蘭学者たちをそのように表現していたのです。

高野長英(たかのちょうえい)渡辺崋山(わたなべかざん)らが、江戸幕府の鎖国政策や、日本人の漂流者を送り届けるために入港したモリソン号の「異国船打払令」による撃退を批判したことが発端となり、幕府に捕らえられます。

逮捕の理由には、蘭学を快く思わない者による捏造(ねつぞう)された罪状もありましたが、幕府を批判した罪は重く、自宅の一室に閉じ込められる謹慎処分や終身刑となりました。

崋山幽居跡(愛知県田原市池ノ原公園内)。写真の池ノ原屋敷で謹慎生活をおくる崋山一家の困窮ぶりを見かねた門人・福田半香の計らいで、江戸で「崋山書画会」が開かれている。年少より画業を志した崋山は、文人画家として谷文晁にも師事していた。

開国論への傾倒と蘭学の衰退

開国論とは、鎖国の廃止を求める意見のことです。蘭学者の一部で開国論を唱える人が増え、鎖国をやめて外国との国交を行うべきというムードが高まりました。

結果的に鎖国の時代は終わり、明治時代となって西欧文明を積極的に受け入れる「文明開化」が起こります。文明開化が進んだことで、オランダ語だけでなく、英語やフランス語の必要性が高まりました。

以降、時代の流れが蘭学ではなく、オランダ以外の西洋も含めた学問である「洋学」へと変わっていったため、蘭学は衰退の道をたどることになります。

日本の有名な蘭学者たち

日本には数多くの蘭学者たちが存在し、現代の人々にも影響を与え、知名度が高い人も少なくありません。代表的な蘭学者について見ていきましょう。

解体新書を刊行「杉田玄白」

杉田玄白(すぎたげんぱく)は小浜(おばま)藩医の家に生まれ、医学や蘭学を学びました。1774(安永3)年、前野良沢(まえのりょうたく)や中川淳庵(なかがわじゅんあん)らとともに、「ターヘル・アナトミア」を翻訳した「解体新書(かいたいしんしょ)」を出版したことで知られています。

この本に対する反響はすさまじく、国内での蘭学の存在を大きなものにしました。それまで知られていた漢方の医学とは全く異なる西洋の医学は、人々を驚かせ、蘭学塾に若者が集まるきっかけにもなります。

杉田玄白 石川大浪/画 – Waseda.ac.jp, Wikimedia Commons(PD) 

杉田玄白の蘭学塾「天真楼(てんしんろう)」の出身者には、後に江戸に芝蘭堂を開設することになる大槻玄沢がいます。杉田家には玄白以外にも蘭学を学び、成功した人物が少なくありません。

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優れた翻訳家「前野良沢」

前野良沢は、蘭学の始祖として知られる青木昆陽からオランダ語を学んだ人物です。優れた翻訳家として活躍し、「和蘭訳筌(おらんだやくせん)」「魯西亜(ろしあ)大統略記」などの訳書があります。

長崎で手に入れた解剖学書「ターヘル・アナトミア」を持って、1771(明和8)年に杉田玄白らとともに人体の解剖に立ち会い、その内容の正確さに衝撃を受けました。そして、さっそく翌日からターヘル・アナトミアの翻訳に取り掛かったといわれています。

ターヘル・アナトミアの翻訳には、オランダ語の理解度が高い前野良沢も指導役として関わりました。しかし完成度に納得がいかず、解体新書出版の際には、翻訳作業に携わった人物として自分の名前を加えないように頼んだとされます。

多才の人・平賀源内

エレキテルで有名な平賀源内(ひらがげんない)は、戯作家(小説家)・企業家・画家・俳人などさまざまな才能を持つ人として知られ、蘭学も研究に取り入れていました。

全国各地から集めた品々を展示したり、交換したりするため薬品会(物産会)を開いたことでも知られています。当時の人々にとって博覧会のようなものであり、蘭学者たちも出品しました。

この薬品会がきっかけで杉田玄白と親しくなり、源内の弟子の一人が解体新書の扉絵や挿絵に携わっています。

「平賀源内が『土用の丑の日』を『鰻の日』にした⁉」 客足の少ない鰻屋に妙案を尋ねられた源内が、「本日、土用丑の日」と店頭に掲げた。すると、これが大当たりして大繁盛したという。これが源内土用の鰻説で、ほかに「春木屋説」「大田蜀山人説」などがある。

蘭学に関わる有名な書籍

蘭学は、蘭書を翻訳することから始まり、さまざまな訳書が誕生しました。蘭学を知る上で欠かせない有名な訳書や書籍、その内容などを見ていきましょう。

解体新書

解体新書は、杉田玄白・前野良沢らが中心となって翻訳された医学書です。ドイツ人医師が記した解剖書のオランダ語訳版「ターヘル・アナトミア」を翻訳したもので、1774(安永3)年に出版されました。

骨や血管などの人体の部位がリアルに表現され、遠近法の技法で陰影をつけて描かれていることが特徴です。「神経」「軟骨」「頭蓋骨(ずがいこつ)」など、現代の医学でもよく使用される用語は、このときに生み出されました。

日本で初めて完全な形で翻訳された本格的な医学書として知られ、後の医学の発展に大きく貢献しています。

『ターヘル・アナトミア(複製)』[国立科学博物館蔵] Momotarou2012,  Wikimedia Commons

ドドネウス本草図譜

「ドドネウス本草図譜(ほんぞうずふ)」は、ベルギー出身の医師・植物学者ドドネウスの著書で、1554(天文23)年に刊行されました。薬用植物の種類や効能などを、詳細な挿絵とともに解説しています。

当時の蘭学者たちに愛され、平賀源内も入手していた本として有名です。1763(宝暦13)年に源内が刊行した「物類品隲(ぶつるいひんしつ)」の中に、挿絵としてサフランの絵を写したものが掲載されています。

また、本草学者の野呂元丈が、原文の一部を抜き出して翻訳し、「阿蘭陀本草和解(おらんだほんぞうわげ)」として紹介したことでも知られています。

蘭学事始

「蘭学事始(らんがくことはじめ)」は、杉田玄白が自身の回想録として、晩年に著したものです。解体新書を刊行するまでの経緯や、国内における蘭学の発展などについて記しています。

玄白の死後は、杉田家に伝えられていましたが、原本は火事で焼失してしまいました。完全に失われたと思われていましたが、幕末になって、偶然にも写本が見つかります。

発見されたときのタイトルは「和蘭事始」でしたが、福沢諭吉(ふくざわゆきち)が1869(明治2)年に「蘭学事始」というタイトルに修正して書籍として出版し、広く知られるようになりました。今日でも、「当時の人々に蘭学がどのように受け入れられていったのか」を知るために欠かせない資料の一つとなっています。

明治2年刊の『蘭学事始』Wolfgang Michel CC0, Wikimedia Commons

蘭学が当時の日本に及ぼした影響を知ろう

鎖国によって、外国文化の流入が制限されていた江戸時代ですが、日本はオランダとは取引を続けていたので、学者たちは蘭学を学ぶことができました。当時の人にとって、貴重な西欧の文化や技術を学べる機会だったので、多くの学者が研究の対象にしたのです。

オランダ語を学ぶところから始まり、さまざまな書籍が訳されたことで、蘭学は広がりを見せていきます。蘭学者が開いた私塾に多くの若者が集まるなど、学問で身を立てようする人も増えていったのです。

やがて文明開化が起こり、蘭学から洋学へと姿を変えていくことになりますが、当時の蘭学者たちの中には、現代でも偉人としてその名が残る人々が少なくありません。蘭学とは、どのような学問だったのかを知ることで、当時の日本に与えた影響力の大きさをより理解しましょう。

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構成・文/HugKum編集部

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