シーボルトはどんな人物? 日本で何をした?
「シーボルト」はドイツで生まれ、オランダ商館付きの医師として来日します。長崎では西洋医学を教えるとともに、日本の研究にも尽力しました。
オランダ商館の医師として来日したドイツ人
シーボルトの正式名はフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトで、息子で次男のハインリッヒ(通称:小シーボルト)と区別するために「大シーボルト」と呼ばれることもあります。
1796(寛政8)年、当時は「神聖ローマ帝国」と呼ばれていたドイツのヴュルツブルクで生まれました。父・ヨハンは、シーボルトが生まれて1年ほどで亡くなり、その後は母方の叔父(おじ)に育てられます。
シーボルトの家系は、代々有名な医学者を輩出している名門で、シーボルトもヴュルツブルク大学で医学や植物学、動物学、地理学などの最先端の知識を習得しました。
1822(文政5)年、26歳のときにオランダ領東インド陸軍の軍医としてロッテルダムを出航し、翌年に長崎の出島(でじま)に到着しました。このとき、シーボルトは自身をオランダ人と偽って入国し、オランダ商館付きの医師になったとされています。
長崎での活動
当時の日本は鎖国(さこく)中で、幕府は、日本の情報が外国に流出することを極度に恐れていました。そのため、日本との貿易が許されていたオランダ人も、長崎の出島から出ることは許されていませんでした。
しかし、シーボルトは1824(文政7)年に出島の外での活動が許され、長崎に「鳴滝塾(なるたきじゅく)」を開きました。シーボルトは出島から鳴滝塾に通って、診療しながら医学を教えています。
また、当時のオランダは、日本についての情報収集もしていたため、シーボルトの任務には日本の自然・風習・社会を調査することも含まれていました。
オランダ商館長の江戸参府に随行
当時、ヨーロッパの国のなかでオランダだけが日本との貿易を許されていることに対して、オランダ商館長が江戸で将軍にお礼を申し上げるという習慣がありました。シーボルトにとっては、日本を知るための願ってもないチャンスです。
1826(文政9)年に、シーボルトはオランダ商館長のお供をして江戸へ行きました。江戸往復の道中では日本の地理や植生、天文などについての情報を集め、江戸に着いてからは日本の学者たちと交流しています。
例えば、天文や暦術(れきじゅつ)などを司る役人である幕府天文方の高橋景保(たかはしかげやす)からは、クルーゼンシュテルンの書籍を贈る代わりに、伊能忠敬(いのうただたか)の日本地図を受け取っています。幕府の眼科医・土生玄碩(はぶげんせき)からは、眼の手術法を教える代わりに、将軍から拝領した葵(あおい)の紋服を贈られました。
シーボルト事件と、その後の活動
江戸参府中に取得した品物などを外国に持ち出そうとした罪で、シーボルトは国外追放になります。この出来事は「シーボルト事件」といわれ、多くの日本人も連座しました。
禁制品を日本国外に持ち出そうとした事件
1828(文政11)年に、シーボルトは任期を終えて帰国の途につきますが、乗っていた船が嵐のため長崎に戻ってしまい、積荷が検査されることになります。その積荷のなかに、江戸参府の際に取得した情報や伊能忠敬の地図、葵の紋入りの着物などが含まれていたことで、大問題となりました。地図などは国外への持ち出し厳禁の品物だったからです。
シーボルトは、取り調べのために1年間ほど出島に拘束された後、1829(文政12)年に国外追放となりました。シーボルトに持ち出し厳禁の品物を渡した者たちも罰せられ、高橋景保は入牢中に病死、土生玄碩は家禄(かろく)と屋敷を没収されます。長崎でも多くの弟子や通訳、絵師ら50余名が連座しました。
ドイツ帰国後の活動と再来日
ドイツに帰国したシーボルトが行ったのは、日本についてヨーロッパに知らしめることでした。日本での研究などをまとめた書籍「日本」を、20年もの歳月をかけて刊行しています。
ほかにも、日本の開国を促すため、黒船来航で知られるペリー提督に日本の情報を提供したり、オランダ国王ヴィレム2世やロシア皇帝ニコライ1世の日本への親書を起草したりしました。
その後、1859(安政6)年にオランダ貿易会社の顧問として再来日をはたすと、1861(文久元)年には対外交渉の幕府顧問となりますが、同年に帰国します。1866(慶応2)年、ドイツ・ミュンヘンで敗血症のために70歳で亡くなりました。
日本に関するシーボルトの功績
シーボルトが残した功績はいろいろありますが、なかでも日本人に西洋医学を教えたこと、ヨーロッパ人に日本について伝えたことが大きいでしょう。
日本人に、西洋医学を教える
ドイツで最先端の知識を身に付けたシーボルトは、診療や臨床講義だけでなく、さまざまな分野の科学を系統立てて解説することができました。
当時は、日本国内で蘭学(らんがく)が普及し、西洋医学に関心を持つ人々が増えはじめていた時期だったこともあり、長崎の鳴滝塾でシーボルトの薫陶(くんとう)を受けた日本人は100人以上いるといわれています。
弟子のなかには、高野長英(たかのちょうえい)・二宮敬作(にのみやけいさく)・伊藤圭介(いとうけいすけ)などの優秀な人物がいました。彼らやシーボルトの活躍によって、多くの命が救われたのです。
ヨーロッパで、日本について紹介する
シーボルト事件後に帰国したシーボルトは、約20年の歳月をかけて全7巻の「日本」を出版します。日本の地理や歴史、風俗、人種、言語など、多くの分野にわたって記述されており、この書籍は日本研究の基礎となりました。
さらに、「日本」のほか「日本動物誌」(1833~1850年)や「日本植物誌」(1835~1870年)を刊行します。こうした功績から、シーボルトはヨーロッパにおける日本研究の権威と目されるようになりました。
シーボルトの家族
シーボルトには、日本で生まれた娘・イネのほかにも、帰国後に誕生した長男、次男がいます。長男、次男は外交官として来日し、姉・イネとも交流がありました。
娘・イネは、日本初の女医
シーボルトは長崎で、楠本滝(くすもとたき)という日本人女性との間に、娘・イネをもうけました。滝は「おたきさん」と呼ばれ、シーボルトが発見したアジサイの新種「オタクサ」に名前が残っています(のちに「シノニム」と判明)。
イネは、日本で初めて西洋医学を学んだ女医で、47歳のときには宮内省御用掛(くないしょうごようがかり)として、明治天皇の皇子誕生に立ち合うほど高い技術を持っていました。
1875(明治8)年に医術開業試験制度が始まりましたが、女性には受験資格が与えられなかったため、イネは東京・築地の医院を閉鎖して長崎に帰らざるを得ませんでした。その後は、弟・ハインリッヒの援助で生活し、1903(明治36)年に77歳で亡くなりました。
シーボルトの長男・アレキサンデル、次男・ハインリッヒは、ともに外交官として日本で活躍しました。特に、ハインリッヒは「小シーボルト」とも呼ばれ、歌舞伎を世界に紹介したり、大森貝塚の発掘の際に「考古学(こうこがく)」という言葉を創作したりしたことでも有名です。
維新前の日本に、近代科学を伝えた人
シーボルトはドイツから日本に来て、西洋医学や近代科学を伝えた人物です。それだけでなく、ヨーロッパでは、ほとんど知られていなかった日本について紹介した人でもあります。
シーボルトが来日した当時の日本は鎖国中で、外国文化に触れられるのは長崎の出島のみでした。蘭学が広まりはじめていた時期でもあり、シーボルトの鳴滝塾には、志のある学生が押し寄せ、技術や知識を身に付けていったのです。
シーボルトは最新の医学や科学を伝えることで、明治維新前の日本で多くの人材を育てたといってもよいでしょう。
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構成・文/HugKum編集部