今年の土用の丑の日は、7月28日です。土用の丑といえば「うなぎ」ですが、なぜ、この日に「うなぎ」を食べるようになったのでしょうか?そして、なぜ「蒲焼き」というのか、また、関東と関西の「蒲焼き」にはちがいがあることをご存じですか?
なぜ、「蒲焼き」と言うの?
うなぎの蒲焼きが最初に記録されたのは、室町時代の『大草家料理書』。
〈宇治丸かばやきの事,丸にあぶりて後に切也,醬油と酒と交て付る也,又,山椒味噌付て出しても吉也〉
宇治丸とは京都の宇治川のうなぎ、ということ。丸にあぶりて、と書いてあることから、初めは開くことなく丸ごと焼いていたんですね。「蒲焼き」の由来は、その丸ごと焼いたうなぎが、蒲(ガマ)の穂の形や色に似ていることから、という説が有力です。
江戸時代初期にうなぎを裂いて開く手法が開発され、蒲の穂とは全く違う形状になりましたが、蒲焼きという名はそのまま残りました。
関東と関西では、うなぎのさばき方が違う
近年、ニホンウナギの稚魚であるシラスウナギが減っており、2014年には絶滅危惧種に指定されるほどに。漁獲量の減少とともに、年々、値上がりをつづけているうなぎですが、暑い夏を乗り切るために日本人が培ってきた食文化の風習です。丑の日には、ちょっと贅沢をしたいですね。
ところで、関東と関西ではうなぎの蒲焼きは違うって、知っていました?
関東:うなぎを背開きにし、竹串を使って白焼きにしてから、蒸し器に入れて蒸す。頭を落として、タレをかけながら付け焼きにする。
関西:うなぎはお腹から開いて、金串を使い、タレをかけながら焼く。
武士が縁起をかついで「腹開き」を嫌い、江戸では「背開き」に?
また当初、うなぎは背から裂いていたようですが、江戸中期になると京都で腹開きの蒲焼きが目撃されています。
江戸は武士が多いため、切腹をイメージさせるということで背開きに、商人の多い関西では腹を割って話すという意味から腹開きになったとよくいわれますが、蒸すという工程が入った江戸では形が崩れにくい背開きに、焼くだけの関西はうなぎを効率よくさばくことができる腹開きが定着した、とよくいわれますが、蒸すという工程が入った江戸では形が崩れにくい背開きに、焼くだけの関西はうなぎを効率よくさばくことができる腹開きが定着したといわれています。
関西では「まむし」とも言う
さて関西では、うなぎを「まむし」ということも。これは江戸時代、鰻丼を江戸では「どんぶり」、関西では「まぶし」と呼んでいた名残り。まぶしとは、ごはんにうなぎをまぶす、という意味です。まぶしの音が変化して、まむしになったそうです。
夏の土用の丑にうなぎを食べるのはなぜ?
「土用」は季節の変わり目
土用とは本来、春夏秋冬それぞれの最後のおよそ18日間のことをいいます。各土用が開けると立夏、立秋、立冬、立春となる。つまり、季節の変わり目だったんですね。なかでも夏の土用は、旧暦で過ごした明治以前はちょうど夏バテが起こる時期。
『万葉集』の中に、
〈石麻呂(いしまろ)に われ物申す 夏痩に 良しといふ物ぞ 武奈伎(むなぎ=鰻)取り食(め)せ〉
と、ひどく夏痩せした石麻呂さんにうなぎを食べてはいかが、とすすめる歌があります。つまり万葉の時代には、夏バテは、うなぎを食べれば回復するという知識があったんですね。
江戸時代に「夏の土用の丑の日」=「うなぎ」が広まった
そして、夏の土用の丑の日、つまり土用最初の日にうなぎを食べるようになったのは江戸時代。安永・天明年間(1772〜89)ごろだったといわれます。「エレキテル」の発明で知られる平賀源内が広めたという説や、神田の鰻屋が始めたという説などいろいろありますが、どこが始めたのかは確証がないようです。
江戸では「土用の丑」とブランド化された江戸前鰻が結びつき、蒲焼屋が大繁盛。つまりバレンタインデーにチョコと同じ。土用の丑にうなぎは、商売繁盛のためです。
タンパク質や脂肪、ビタミンA、B1、B2、D、カルシウムなどをたっぷり含んで栄養満点。記憶力を高めるドコサヘキサエン酸も多く含まれるといううなぎ。コロナ禍2年目の夏、免疫力を上げるためにも、ちょっと奮発して、土用にうなぎ、ぜひいかがでしょう。
構成/tsurumaki