
使う場面に違いがある「練習」と「稽古」
「練習」と「稽古」は、どちらも能力や技術などを向上させるために繰り返し習うという意味の語です。でもまったく同じ意味かというとそうではなく、使う場面に違いがあるようです。
たとえば、サッカーの場合はどうでしょう? 「サッカーの練習」は〇ですが、「サッカーの稽古」は×でしょう。

では相撲はというと、「相撲の練習」は×ですが、「相撲の稽古」は〇でしょう。「練習」と言っても間違いではないかもしれませんが、「稽古」の方がしっくりきます。
ピアノは「練習」「稽古」どちらも可
でもピアノの場合はというと、「ピアノの練習」「ピアノの稽古」、どちらも言えそうです。

一体どのような違いがあるのでしょうか?
「練習」と「稽古」では、「稽古」の方がやや古めかしい言い方で、芸事や習い事、日本古来の武術などに用いられることが多いようです。
茶道や華道、相撲や剣道、柔道などは「稽古」がしっくりきます。相撲の場合でも、「突き押しの練習をする」とか「投げ技の練習をする」などと言えなくもありませんが、やはり「稽古」の方が適切でしょう。
「練習」はスポーツの場合、武道以外のものに対して広く使います。ピアノの場合はどちらも使えますが、ニュアンスが異なります。
「練習」は自分で技術を向上させるという意味になり、「稽古」は教えを受けに行くという意味になるのです。
南北朝時代に使われていた「稽古」に見る深い意味
ところで「稽古」の方がやや古めかしい言い方だと書きましたが、実はどちらもけっこう古く、ともに平安時代から使われていました。「練習」がその時代から使われていたというのは、ちょっと意外な気がしませんか。
南北朝時代には「練習」と「稽古」を同じ文章の中で使っているものがあります。『連理秘抄(れんりひしょう)』(1349年)という連歌論集で、それには、
「只堪能(かんのう)に練習して、座功をつむより外(ほか)の稽古はあるべからず」
とあります。
意味は、ひたすら連歌の道に深く通じて学習し、連歌の一座に参加して経験を積むこと以外の修業はない、ということです。
今仮に「練習」を学習、「稽古」を修業と置き換えてみましたが、ここでは明らかにこの2語を使い分けていて、とても興味深い文章です。「稽古」には、「練習」と違って、学問、芸術、武術などを単に上達させるだけでなく、それをきわめるために努力し学ぶという意味合いがあったようです。
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監修

辞書編集者、エッセイスト。元小学館辞書編集部編集長。長年、辞典編集に携わり、辞書に関する著作、「日本語」「言葉の使い方」などの講演も多い。文化審議会国語分科会委員。著書に『悩ましい国語辞典』(時事通信社/角川ソフィア文庫)『さらに悩ましい国語辞典』(時事通信社)、『微妙におかしな日本語』『辞書編集、三十七年』(いずれも草思社)、『一生ものの語彙力』(ナツメ社)、『辞典編集者が選ぶ 美しい日本語101』(時事通信社)。監修に『こどもたちと楽しむ 知れば知るほどお相撲ことば』(ベースボール・マガジン社)。NHKの人気番組『チコちゃんに叱られる』にも、日本語のエキスパートとして登場。新刊の『やっぱり悩ましい国語辞典』(時事通信社)が好評発売中。
