「ゾンビみたい」「何で生きてるの?」3000人に1人の難病を抱え、見た目を否定され続けてきた10年間。孤独な自分を支えたのは“たったひとつの夢”【ガラス作家・大河内愛美さん|前編】

物心ついたときから、顔や身体にカフェオレ斑やこぶ状のブツブツがあり、「ゾンビ」「バイオハザード」などと心ない言葉を浴び、苦しんできたガラス作家の大河内愛美さん。3000人に1人の難病「レックリングハウゼン病」という先天性の難病だと知ったのは16歳のときでした。自身でも望んでいない見た目で避けられ、病気のせいで背骨まで切る大手術……。それでもコンプレックスを強さに変えて、内面の美を競うコンテストに出場し、中部大会でグランプリを受賞しました。心を閉ざした大河内さんはどのように絶望の沼から抜け出し、夢を叶えたのでしょうか。その軌跡を、前後編2回に渡ってお届けします。

小学校のときからずっと「キモい」と言われ続けてきた

――今はとてもはつらつとしている大河内さんですが、小さい頃は……。

大河内さん ずっとネクラでした。特に小学校以降、ですね。身体じゅうにあるカフェオレ斑やブツブツについては、親からは「生まれつき」と説明されていましたし、ごく小さい頃はそれほど気にとめていなかったんですよね。でも、小学校に入学した頃から「キモい」「死ね」「菌がうつる」などと言われて……。ずっといじめに遭ってきました。

だから、だれともしゃべらないし、しゃべれない。小学校では、長い20分休みやクラスでレクリエーションをする時間だけはみんなと参加していました。でも、それ以外の時間は教室でひとりで過ごしたり、校庭でひとり一輪車や竹馬をしたりしていました。

小学生の頃の大河内さん。首にカフェオレ斑があります。

――先生や親御さんにはいじめのことは伝えたのですか?

大河内さん 親は「生まれつき」と言うから言ってもしょうがないのかな、と思っていました。でも、自分の中では「どうして私の身体にはこんなにブツブツがたくさんあるんだろう…増えてきたし、大きくなってる気もするな…他の人にはないのになんでなんだろう…」と違和感や不安はありました。とはいえ、当時は病気と思わないし、それが腫瘍とも思わず、イボだと思っていました。

親は、私が気にしていても「生まれつきのものだから気にしなくていい」と言うだけでした。「あなたを大切に思う人なら気にしないはず」というような感じで。そんなふうに言われて、こちらからいじめのことは言い出せませんでした。

学校の先生は……、いじめを知っているはずなのに、何も対応してくれませんでした。大人は信用できないと、そのときから強く感じるようになりました。

カフェオレ色のシミやブツブツが全身にできて増えていく

――改めて、大河内さんを悩ませるレックリングハウゼン病とはどんな病気でしょうか。

大河内さん 症状でいえば、皮膚にカフェオレ色のシミ状の斑や神経線維腫と呼ばれるブツブツが出て増えてくる病気です。遺伝子の異常で発生するようで、根本的な治療方法はなく、日本では難病に指定されています。皮膚以外にも身体の内部の骨や神経系、目にも表れることがあります。全国に約4万人の患者さんがいると言われています。変わった病気だと思われるかもしれませんが、意外にたくさんいますよね。

でも、どんなふうに身体に表れるのかは人それぞれで、ちょっとしたシミくらいのカフェオレ斑があるだけだと、気づかない人も多いらしいです。遺伝性疾患であるけれども、私の両親には表れていません。

大河内さんの身体にあるカフェオレ斑

大河内さん 実は、このような病状については、16歳のときに自分で調べてわかったんです。高校生になって自分で携帯電話を持つようになってインターネットで調べたら、症状ととても似ている病気が出てきたんです。それがレックリングハウゼン病でした。

心配になって母に相談して受診をしたら、やはりレックリングハウゼン病だと診断を受けました。原因もわからず治療薬もない難病。ショックでした。でも、医師からはカフェオレ斑もブツブツも「そのままにしておいていい」と言われました。

セカンドオピニオンなんて、考えもしませんでした。ネットで調べて出てきた自分の皮膚の病状と病名が一致するものばかりでしたし、一緒に行った母も「何かしても変わらなかったり、今より目立つようになったりするなら、何もしない方がいいよね」と言っていて、そうだよな、と思うしかなかったです。

その後、合併症として悪性末梢神経鞘腫瘍(MPNST)が発覚。命を分けた大手術はこちらから

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いじめられすぎて何も感じなくなった。だれかに訴えてもムダ

――では、ひとりで自分の病気の知識をつけ、黙っていじめに耐えてきたのですか?

大河内さん そうですね。いじめも、毎日のようにされていると、あいさつみたいなもので、だんだん何も感じなくなるんです。それがあたりまえみたいな。帰るときに靴がなかったこともあったし、上履きを隠されたこともあるし、「なんでまだ生きてるの?」とか心ない言葉をかけられたこともあるけれど、いちいち感情を動かさないのです。

だれかに訴えてもきっと何もしてくれないでしょうし。助けを求めたことはないですね。先生はいじめを見ていても注意もしないし、言ってもムダだと思っていました。

とにかく人と関わりたくない。人前に出て何かをすればみんなの目線を一気に集めます。 何かしてヘンって思われるくらいならば、何もしない方がいい、とずっと思ってきました。

テレビでガラス作家の仕事に触れ、「自分もゼッタイにガラスをやりたい!」

――何か楽しみはなかったのでしょうか。

大河内さん 小学校6年生のときに、夕食を食べながら、当時放送されていた『TVチャンピオン』を見ていたら、ガラス作家の人が吹きガラスをやっていたんです。高温のドロドロのガラスをさおで巻き取って形を作っていくと、キラキラ輝く作品が完成する――。思いがけない形ができあがる様と、透き通った中に美しい色があり、魅せられました。「私、将来これをやりたい! 大人になったらガラス作家になろう!」と直感で決めました

大河内さんがつくったガラス作品の数々

部室ではしゃべるのに、大勢になると自分を無視する。人なんか信用できない

――中学生になると、いじめは少しはよくなりましたか?

大河内さん いえ、中学校ではむしろ悪化していきました。ふたつの小学校の生徒が集まって1つの中学校区になっていたのですが、私のことは別の小学校出身の子たちの間でもすでにうわさの的でした。入学式の3日後から別の小学校から来た男の子に「死ね」って言われたんです。うわさが回るのが早いなと思いました。

中学時代、私のあだ名は『バイオ』になっていました。当時ゾンビゲームの『バイオハザード』がはやっていたからのようです。制服では隠せないクビ元や顔、腕などのカフェオレ斑のシミやブツブツをゾンビに例えたのでしょうか。『大河内がいるから教室に入れない』とか言ってきて……。気づいたらさらにどんどん広がっていき、いじめがエスカレートしていきました。

女の子はしゃべってくれる子もいるんですが、その場の空気になんとなく合わせている感じがあったりして……。美術部に所属していて、部室にいるときは、みんな和やかに話してくれるんです。でも、部室を出ると他の子たちの目があるからか、目を伏せて関わろうとしないんです。

明らかなイジメではないけれど、とても傷つきました。どこまで心を許したらいいのかわからなくなって。「人は信じちゃいけないんだ」って思いました。だから、高校生のときは「できるだけ人と関わらないように」と決めていました。

耐えられたのは「ガラス作家になりたい」というたったひとつの夢

――よくがまんされていましたね。

大河内さん 「ガラス作家になりたい」という夢を抱き続けていたから。ガラス作家になるためには芸術大学に行かないと。そのためには地元の中学にもしっかり通って、中学から高校、大学とスムーズに進級しなければなりません。

以後の私は、ガラス作家になる!ということに集中しようと思うようになりました。「学校に行かなくなったらガラスができない」とさえ思いました。今、中学に行かなくなったら高校も行けないし、そうしたら芸術大学にも行けない…。自分の将来の夢のためにがんばると決めたんです。その夢がなかったら、不登校になっていたかもしれません。

大河内さんが作ったガラス作品

大河内さん まずは自分の志望校の名古屋芸術大学に合格するためにがんばろう。高校になると芸術系の大学受験のための塾に通い、デッサン力を磨き、志望大学に合格するという目標だけのために、毎日を生きていきました。

――いじめにあうと、ただ悲しくつらくなるだけではないのですね。傷つかないよう心にガードを張り、だれも信じなくなる。それでもいじめの言葉を投げつけられ、どんどん心を失っていく……。いじめを受ける人のこんな感情に、みんな気づいているでしょうか。次回はそんな暗黒の時期を必死に抜け出した大河内さんに訪れたある転機について伺います。

後編では前向きになれた転機や、ビューティージャパンでグランプリ獲得したお話などを伺いました

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大河内さんの著書もチェック

大河内愛美 電子書籍 780円(税込)

指定難病「レックリングハウゼン病」と共に生きるガラス作家が、偏見やいじめを乗り越え、自分らしい人生を切り開いていく姿を綴ったエッセイ。吹きガラスとの出会いが彼女の世界を変え、夢へと導いていきます。巻末には作品集も収録。

お話を聞いたのは

大河内愛美さん ガラス作家

1994年、愛知県生まれ。生まれながらにカフェオレ斑や突起が身体じゅうにできる難病レックリングハウゼン病を発症し、今に至る。見た目を理由にイジメに遭い、つらさを抱えて大人になるが、小6のときにガラス作家になるという夢を持ち、実現の道のために努力した。2017年名古屋芸術大学卒業、2019年瀬戸市新世紀工芸館 研修生修了。2020年に合併したMPNSTの手術で背中にボルトを7本埋め込み、定期的な検査を続ける。現在、「ガラストクラス」主宰。ガラストクラスという名は『ガラスと暮らす』という意味と、『硝子人として暮らしたい』という2つの意味を込めている。

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取材・文/三輪泉

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