前編では幼少期に受けたいじめ、レックリングハウゼン病だと気付いたときのことなどを伺いました
目次
「ガラス作家になる」という夢に支えられ、つらいいじめからも耐えてきた
――小学校、中学校時代に激しいいじめを受け、心が折れそうになったご自身を支えたのが、「ガラス作家になりたい」という夢でした。芸術大学でガラスを学ぶ目的のために、不登校にならずにがんばったのですね。
大河内さん はい、その甲斐あって、家から通える名古屋芸術大学に合格しました。全国にある芸大の中でガラスを学べるところも限られますし、家から通えるところも限られるので、絶対に合格したくて、学科もデッサンの練習もがんばりました。
憧れの人への思いも原動力に
大河内さん がんばれた理由はほかにもありました。私には、中3のときから応援している俳優さんがいて、出ている番組は欠かさず観ていました。高校生のときにはサイン会でお目にかかったこともあって、「いつか自分も一人前のガラス作家になって、その姿でもう一度会いに行きたい」、そんな静かな願いを、ずっと大切にしてきました。
だからこそ、大学でも、その後に研修生として入った瀬戸市新世紀工芸館でも、ガラス制作に専念することができたんです。
「自分から誰かに発信すれば届く」前向きになれた理由
大河内さん 2018年、23歳のときにはロンドンで展覧会を開くことができ、作品にも少し自信が持てるようになりました。そのタイミングで、その方のInstagramの投稿に、思い切って「中3のときから応援していて、当時から目指していたガラス作家になって活動しています。いつか一緒にお仕事するのが夢です」というコメントを書いたんです。そうしたら3日後くらいに、ご本人から「いいね」の反応があったんです! 幻かと思いました。
半年後くらいに、出演される舞台が近くであったので、チケットを取って観に行くことにしました。その際、終演後にご挨拶ができる機会があり、短い時間でしたがお話ししたり、作品をお渡ししたりすることができたんです。ひとりのファンとして応援するだけではなく、ガラス作家として努力してきた姿をお見せしたいと思っていたので、本当にうれしかったです。

大河内さん これまで、いじめに苦しんできた約10年間の時間が、少し和らいだような気がしました。自分から誰かに声をかけたり、何かを伝えたりすることをあきらめていた私が、「発信すれば、ちゃんと届くんだ」と感じられたんです。この出来事がなければ、自分の病気を発信しようとは思わなかったですね。
「みんなに症状を知ってほしい」SNSで自分の難病と皮膚の状態を発信
大河内さん 以後はかなり前向きになり、今の自分の病気、レックリングハウゼン病を隠すことなく、世の中の人たちに知ってもらいたいと思い、SNSで発信しようと決意しました。それには、病状を診てもらうのが一番だと思い、自分の胸や背中の写真を撮って、難病を抱えている自分の姿を世界に向けて発信しました。

――発信してみてどうでしたか?
大河内さん いろんな反響がありました。厳しい意見もありました。でも、これまでずっと苦しみに耐えてきたから、多少の批判はなんてことないんです。いろいろなことを言われても、この病気を知ってほしいという思いは揺るぎませんでした。
「この腰痛の理由は……」患者の会の方との出会いで命拾いを
――発信することで、さまざまな出会いがあったのですよね?
大河内さん はい。ブログで身体の写真と病気に関する文章を載せたら、レックリングハウゼン病の患者会を作った人から「名古屋に行くから会いませんか?」と連絡が来たんです。これが、まさに命を分ける出会いでした。
会っていろいろ話す中で、「最近腰痛がひどい」という話をしたら、「病院に行っているの?」と聞かれました。高校生のときに診断してもらって以来一度も行っていないと答えたんですよね。当時、医師に「カフェオレ斑はレーザーで消せるけれど色素が薄くなるだけだよ、 ブツブツも取っても増えるから意味がない」と言われてしまって。それに、腰痛は病気とは関係ないだろうと思い込んでいました。

大河内さん その方に「病院にちゃんと行ったほうがいいよ」と言われて、紹介してもらった大学病院に行きました。そこで、この病気は本当は定期的に検査を受ける必要があること、合併症として 悪性末梢神経鞘腫瘍(MPNST) が起こる可能性があることを知りました。
もしかして、関係ないと思っていたあの耐えがたい腰痛も、病気とつながっているのかもしれない——そう考えた途端に胸がざわつきました。
CTとMRIを撮ったら、やはりMPNSTが発生していました。腰痛は、身体の内部にできていた腫瘍が脊椎を圧迫して起きていたのです。医師からは「すぐに手術をしましょう。肺に穴があくかもしれません。下半身不随になるかもしれません。背骨を切り取ります」と言われました。
頭がついていきませんでした。でも手術をしないという選択肢もなかった。2019年の年末のことです。年が明けて3月には入院することになりました。
8時間に及ぶ大手術、身体に残った手術痕は20cmも
――ちょうどその頃には、コロナ禍で大変なことになっていましたよね。
大河内さん 面会は全面禁止、孤独な入院生活でした。全身麻酔で背骨を切る……、恐ろしくて手術前夜は眠れませんでした。手術は8時間に及びました。
幸いなことに手術は成功し、悪性腫瘍を取り出してもらいました。手羽先くらいの大きさだったそうです。背骨を削り、切り取り、ボルト7本で固定したので、術後はコルセットが必然でした。手術のあとは縦に20㎝弱。術後の放射線治療も必要でした。抗がん剤治療がなくてすんだのはまだよかったです。痛い、つらい治療でしたが、とにかくコルセットがとれるまでがまんするしかない、という状況でした。

大河内さん 手術する前は、コルセットの装着は3か月と言われていました。でも、うまく骨がくっつかなくて、「あと3か月」「もう半年」と言われ、リハビリをしながらコルセットを装着し続けました。
病気で静養中、SNSで「美のコンテスト」を発見、思い切って肌を出した
――コルセットをつけている期間はガラスの制作もできなかったのですか?
大河内さん 仕事はできず収入も途絶え、運転もできないし、コロナなので外にも出られない。将来が見えなくなりました。仕方なく家でできることは何かと考え、ライブ配信を始めました。自分の病気のことを知ってもらおうと思ったんですよね。だから、あえてコルセットを見せながら配信していたんです。
ジリジリしながら骨がつくのを待っていました。結局、何とか仕事に戻れるようになるまでに、トータルで1年半かかりました。その間、いろいろとSNSで発信をすることで、何とか自分を保っていたような感じです。
――そんな中、「ビューティジャパン中部NEO大会」、つまり美のコンテストに出たのですよね?
大河内さん コルセットをつけて安静にしていなければいけないときに、手持ち無沙汰でネットをいろいろ見ていたら、この大会を見つけたんです。

単なる見た目の美しさだけでなく、内面美や個性、社会的使命、信念と影響力、それらを兼ね備えた『日本の美』をもつ粋な女性を、新たな『美の基準』として定義する。
『美人コンテスト』ではなく、スキルやキャリア、生き方、 考え方、さらにはその人がもつ使命や、バックグラウンドに基づいた『その人にしか成し得ない美しさ』に焦点を当てている。 個々の女性がもつ独自の美しさが評価され、その美しさが社会での活躍や影響力につながることを目的とする(略)
「えっ、この大会のコンセプト、自分が届けていきたいことに似ている、これ出たいな!」と強く思いました。コルセットが2021年9月にようやく取れたので、翌年2022年にエントリーしました。
「この病気があったからこそ前向きに生きていく」そんな姿勢を見せた
――コンテストでロングドレスをまとった大河内さんは、堂々として美しかったですね。
大河内さん ドレスを着るのはどうしようかと悩んだんです。肌の露出も多いから……。でも、ドレスを着て身体の様子もわかるようにしながらステージに立つことで、自分を理解してもらえる、そして自分が変わるきっかけになると思ったんです。

大河内さん 3分のスピーチでは、あえてガラス作家になった経緯などは話さず、レックリングハウゼン病であること、この病気のために苦しかったこと、そしてそれを乗り越えるために自分がしたことなどを伝えました。あえて身体の状態がわかる写真も出して、「この病気があっても、いや、あったからこそ前向きに生きていく」という姿勢を見せたつもりです。だから、中部NEO大会でグランプリを取れたことは、本当に自信になりました。
だれかの助け舟を待っていても来ない。自分で漕ぎ出す
――今は腰の調子も前よりよく、検査などをしながらガラス作家として精力的に活動をされているのですよね。思えばほんの小さい頃から見た目だけで判断され、心ない言葉に深く傷ついてきました。打ちのめされてもおかしくない中、深い悩みから抜け出し、前を向くことができた。その理由は……。
大河内さん 自分が病気だということを人に話すのは勇気がいります。そこを乗り越えて、誰かひとりでもいいから「病気を抱えている人の気持ちを知ってもらう環境をつくること」は大事かな、と思います。だから、SNSなどを通して包み隠さず発信してきました。方法は人それぞれでいいと思うんです。顔を出さなくてもいいし、仮名でもいい。でも自分はあえてこの身体や顔を出して意見を言っていこうと決めました。

大河内さん 私はいじめにあって苦しい時代もありました。だれも助けてくれなかったのもつらかった。でも、だれかの助け舟を待っていても、来ないと思うんです。自分が変わろうって思わないと変われないんですよね。そう思うようになってから、生き方はかなり変わりました。
「10年先生きていられるかわからない」でも難病があっても幸せと胸を張りたい
- ――大河内さんはSNSで『10年先生きていられるかわからない』と書かれていました。人間は誰でも命に限りがありますが、大河内さんは限られた時間をどう生きていこうと思いますか?
大河内さん 10年先生きていられるかわからない、と書いたのは、MPNSTが転移再発の確率が高いことや、5年生存率が40~50%ということ、40代以下の女性の乳がん発症率が一般より11倍高いということ……、レックリングハウゼン病のさまざまなリスクを感じているからです。ただ、今は病気のことも、以前より受け入れられるようになっています。
私は限られた時間を、悔いなく生きていきたい、と思っています。やらずに後悔するより、挑戦してみる、思いを打ち明けてみる…なんでも行動してみることが大切なのかな…と。ビューティジャパンのプレゼンでは「自分が動けば世界は変わる」と、まっすぐ前を見て語りました。自分が行動していくことで、未来は変えていける、そう信じて過ごしています。
小さな一歩だとしても、それが積み重なれば振り返ったときに、大きな道になっていることってありますよね。難病があっても幸せ! って胸を張って言える人生にしたいです。
――いじめにあった10年間は、ただ耐えて、いじめのことを考えないようにして生きてきました。でも、それでは何も変わりませんでした。さまざまな体験の中で、「とにかく前向きに生きること」の大切さを知り、行動するうちに、自分や周囲が変わっていくことを実感したのですね。まっすぐに行動していたら、誰かが見てくれる。そして、自分を認め、積極的に生きることで、自分の人生が変わっていく。大河内さんに教えてもらいました。
前編では病気が発覚した当時のことを伺いました
大河内さんの著書もチェック
指定難病「レックリングハウゼン病」と共に生きるガラス作家が、偏見やいじめを乗り越え、自分らしい人生を切り開いていく姿を綴ったエッセイ。吹きガラスとの出会いが彼女の世界を変え、夢へと導いていきます。巻末には作品集も収録。
お話を聞いたのは
1994年、愛知県生まれ。生まれながらにカフェオレ斑や突起が身体じゅうにできる難病レックリングハウゼン病を発症し、今に至る。見た目を理由にいじめに遭い、つらさを抱えて大人になるが、小6のときにガラス作家になるという夢を持ち、実現の道のために努力した。2017年名古屋芸術大学卒業、2019年瀬戸市新世紀工芸館 研修生修了。2020年に合併したMPNSTの手術で背中にボルトを7本埋め込み、定期的な検査を続ける。現在、「ガラストクラス」主宰。ガラストクラスという名は『ガラスと暮らす』という意味と、『硝子人として暮らしたい』という2つの意味を込めている。
Instagram:@manamiokochi
X:@manamiokochi
取材・文/三輪泉