「大化の改新とは?」との質問に正しく即答できる人は、おそらくそう多くないでしょう。大化の改新に登場する主な人物は3人です。「一体何が起こったのか」「そこで表明された新しい政府の方針とは」といった疑問の答えを、分かりやすくまとめました。
大化の改新はいつ起こった?
大化の改新といえば、誰もが一度は耳にしたことがあるであろう有名な歴史的出来事です。子ども時代に語呂合わせなどを利用して頭にたたき込んだという人も少なくありません。
まずは、大化の改新が起きた年代についておさらいしておきましょう。
645年、または646年とも
小中学生の子どもを持つ親世代では、大化の改新は「645年」と覚えている人が大半でしょう。これは間違いではないのですが、現在の学校では「大化の改新は646年の出来事」と教えられることがあります。
まず、大化の改新とは、645年から始まった一連の政治改革のことです。そして、革命の始まりとなったのは、蘇我氏が討たれた「乙巳の変(いっしのへん)」という事件だということを確認しておきましょう。
革命の要となる政治の基本方針「改新の詔(かいしんのみことのり)」が表明されたのが646年のため、この年が大化の改新の年代という説があるのです。
記されているのは「日本書紀」
「日本書紀」は、大化の改新について記されている唯一の書とされています。現在のところ、日本書紀のほかに大化の改新の資料となるものは見つかっていません。
日本最古の歴史書とされ、奈良時代、720年に完成したといわれています。作者は太安万侶(おおのやすまろ)といい、大化の改新を断行した中臣鎌足(後の藤原氏)の次男である藤原不比等(ふじわらのふひと)の部下でもありました。
大化の改新はクーデター? 内容まとめ
大化の改新に関わるメインキャラクターは、豪族「蘇我入鹿(そがのいるか)」皇族「中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)」朝廷の役人「中臣鎌足(なかとみのかまたり)」の3人です。
それでは、大化の改新がどのようにして行われたのか、詳しく見ていきましょう。
乙巳の変について
聖徳太子の死後、政権を独り占めした蘇我氏の力は天皇よりも強くなり、その横暴なふるまいにより周囲から反感を買うようになっていきます。
ちょうどその頃、朝鮮からの貢ぎ物が献上される儀式が執り行われようとしていました。中大兄皇子と中臣鎌足は、この朝廷の儀式を「用心深い蘇我入鹿を討つ絶好のチャンス」だと考えたのです。
そしてまさに儀式の最中、中大兄皇子は蘇我入鹿を討ち果たします。これが645年に起きた「乙巳の変」です。同時に、初めての年号とされる「大化」が定められました。
大化の改新が起こった目的
大化の改新で目指したのは、聖徳太子が理想とした「天皇による中央集権国家」の建設です。乙巳の変の後に即位した孝徳天皇は、646年に政治の基本方針を示した「改新の詔」を表明します。
新しい政治体制のモデルは中国の律令制です。権力が分散される原因となっていた豪族の「氏姓制度」を廃止し、天皇を中心に法律で倒置された「律令国家」にするための改革が始まりました。
なお、蘇我氏を滅ぼしたとされる中大兄皇子が天智天皇として即位するのは、もっと後のことです。
改新の詔に記された内容
新しい国家を作る足がかりとした改新の詔にはどのようなことが定められていたのでしょうか。「公地公民制(こうちこうみんせい)」「国郡里制(こくぐんりせい)」「班田収授法(はんでんしゅうじゅほう)」「租調庸(そちょうよう)の税制」それぞれについて詳しく解説します。
土地や人に関する「公地公民制」
公地公民制とは「私有地・私有民を廃止し、全ての土地や人民は国が治める」とする制度です。
それまでは、蘇我氏をはじめとした豪族たちは、部曲(かきべ)という人民や田荘(たどころ)という土地を所有していました。朝廷の私有民である子代(こしろ)・私有地である屯倉(みやけ)も同時に廃止されています。
国が直接支配することで、中央の政治を全国に滞りなく行き渡らせることが目的でした。公地公民制により「日本の中心は天皇である」ということを知らしめようとしたのです。
なお、土地を取り上げられた豪族や皇族には、代わりに食封(じきふ)と呼ばれるお給料のようなものが支給されるようになりました。
国の分け方「国郡里制」
国郡里制とは「全国の土地を国・郡に分け、地方行政組織・警備兵・連絡手段を設置する」と地方の統治機構を規定したものです。国や郡とは現在の都道府県のようなものと考えるとよいでしょう。
各地は国司・郡司・里長によって管理されることとしました。国司は朝廷から派遣され、国史は地方の有力者を郡司に任命します。地方行政組織が天皇の意向に沿った政治を代理で行うことになったのです。
なお、国郡里制の完成は、701年の大宝律令(たいほうりつりょう)制定まで待たなければなりません。
戸籍と財産「班田収授法」
班田収授法とは「戸籍・計帳を作り、国民に田んぼを配る」という法のことです。6年ごとに戸籍を新しくして、国民の一人一人に決まった大きさの田んぼを与えるということを定めました。
田んぼがもらえるのは6歳以上の全ての公民です。支給される田んぼのことを「口分田(くぶんでん)」といいます。口分田はその民の財産となりますが、亡くなったときは国に返還しなければいけません。
税に関する決めごと「租調庸の税制」
租調庸の税制とは「公民は国に祖(米)・調(布か特産物)・庸(労働もしくは米や布)を納めること」とする統一税制のことをいいます。祖・調・庸とは次の通りです。
・祖:田んぼの税金。収穫の約3~10%を納める
・調:主に繊維製品。代用として特産物や貨幣も認められた
・庸:朝廷への出張労働。できない者は米や布を納める
祖は地方政府へ納める税で、庸・調は朝廷へ納める税です。祖調庸の税制も唐(当時の中国)の制度をモデルとしたものでしたが、なじみやすいように当時の慣習に合わせて日本風にしたとされています。
テスト対策は?覚え方もチェック
大化の改新はテストでよく出題される重要な出来事です。覚えやすい語呂合わせを、解説も交えて紹介します。
645年の覚え方
まずは、645年が大化の改新という基本的な語呂合わせです。
「無事故に終わる大化の改新」
無事故(むじこ)という部分が645年になっています。故意のクーデターなので事故ではないという意味なのか、スムーズに行われたという意味なのかは不明ですが、いろいろ考えることで記憶に定着するかもしれませんね。
「虫殺しの大化の改新」
こちらは虫殺し(むしごろし)が、645年の部分です。少し怖い覚え方ですが、蘇我入鹿が討たれたときに自害した父・蘇我蝦夷(そがのえみし)に「虫」という漢字が入っているので覚えやすいのではないでしょうか。
645年、646年を合わせた覚え方
乙巳の変・大化の改新としっかり覚えたいときは、645・646年が入った語呂合わせがよいでしょう。
「無事故で終わった大化の改新、むしろ大変な改新の詔」
こちらは大化の改新も改新の詔もばっちり入ったお得感満載な語呂合わせです。「むしろ」の部分が646年になります。
「天皇無視した蘇我いなくなり、無心で進む中央集権」
こちらは蘇我氏がどうして討たれることになったのか、大化の改新の目的は何だったのかといったところまで覚えられます。「無視=64」「い=5」「無心=64」「む=6」となり、年号はやや複雑かもしれません。
歴史的な出来事もしっかり覚えよう
蘇我氏が中大兄皇子と中臣鎌足によって討たれた事件は「乙巳の変」です。その後に行われた政治改革が「大化の改新」となります。このあたりは曖昧になりがちな部分なので、子どもに教えるときは特に注意が必要でしょう。
現代の子どもたちが勉強している日本の歴史は、親世代が習ってきたものとは違う部分もちらほらと見られます。子どもと2人で首をひねらなくてすむよう、ときどきこうして現在のスタンダードについて確認しておくとよいかもしれませんね。
巨大な古墳はなぜ、どうやって作られたのか? 大陸からわたってきた仏教は、日本にどのような影響を与えたのか? 聖徳太子(厩戸皇子)が行った政治とはどのようなものだったのか? 等々、古代日本の政治の流れがよく理解できます。 大和政権が現れた古墳時代や、聖徳太子(厩戸皇子)が活躍した飛鳥時代から大化の改新を経て、新しい国家ができていく時代の流れを描きます。
構成・文/HugKum編集部