本能寺の変の基礎知識
「本能寺の変(ほんのうじのへん)」は、織田信長が天下統一への仕上げとして、残った敵を攻略している最中に起きました。いつ、どのような場所で起こったのか、事件発生当日の状況をおさらいしましょう。
織田信長の重臣、明智光秀の反乱
本能寺の変は、信長が京都の本能寺に滞在中に、重臣の明智光秀に裏切られて自害した事件です。1582(天正10)年6月2日の夜、光秀は1万3000人の軍勢を率いて居城・亀山城を出発し、明け方ごろに本能寺に到着します。
光秀はもともと、信長から中国地方で毛利(もうり)氏と戦っている羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の援軍に行くように命じられていました。軍備をととのえるために京都の北にあった自分の城に入り、中国地方へ行くと見せかけて本能寺を襲撃したのです。
一方、信長が本能寺に連れて行った護衛は、わずか150人程度でした。用意周到な光秀軍の前になすすべもなく、信長は寺に火を放って自害します。
現場となった本能寺とは
本能寺は、1415(応永22)年から続く法華宗(ほっけしゅう)のお寺です。
本能寺の変で焼失した後、羽柴秀吉が現場から1kmほど離れた現在の場所に移しました(1591)。境内には、信長をまつる廟(びょう)も建てられています。
当時の本能寺は、寺というよりも城のような建物だったことが分かっています。広大な敷地の周囲は、幅2m以上の堀と土塁(どるい)で囲まれ、土塁には「とげ」のある木がたくさん植えられていました。
このため、信長も安心して、少ない人数で滞在したのでしょう。100倍近い大軍で押し寄せたにもかかわらず、光秀は苦戦を強いられ、攻撃開始から信長が自害するまで4時間もかかったといわれています。
本能寺の変にまつわる謎
本能寺の変は、明智光秀が謀反(むほん)を決意した理由や、織田信長の最期の様子など、不明な点が多く、現在もさまざまな説が取り沙汰されています。昔習った内容とは違う説を聞いて、戸惑う人もいるでしょう。
どれも仮説の域を出ませんが、自分なりに検証してみることで、遠い昔の出来事がリアルに感じられるかもしれません。本能寺の変にまつわる、主な謎と学説を簡単に紹介します。
織田信長の遺体は、どこに?
信長は燃え盛る炎の中、切腹して果てたといわれています。当時、戦いに勝った側は、相手の首を持ち帰り、勝利の証としていました。
光秀も、信長の首を求めて焼け跡をくまなく捜したはずです。しかし、どんなに捜しても遺体は見つかりませんでした。後日、羽柴秀吉が葬儀のために遺体を捜させたときも見つからず、等身大の木像で代用したそうです。
遺体の行方については、燃えつきたために特定できなかったとする説が有力ですが、誰かがこっそり持ち出したという説もあります。
いずれにしても、光秀が勝った証拠として自分の首を捜すことが分かっていた信長は、絶対に見つからないように準備したうえで自害したと考えられています。
明智光秀の謀反の動機は?
本能寺の変における最大の謎が、謀反の動機です。
光秀は、信長を死に追いやったものの、その後は味方を得られず、政権をにぎることはできませんでした。結果をみれば、謀反は失敗であり、有能な光秀が、なぜそのようなことをしたのか理解に苦しみます。
このため、本能寺の変は、光秀が個人的な感情で衝動的に起こしたものと考えられてきました。個人的な感情の内容としては、主に以下の三つの説があげられています。
・信長から理不尽な扱いを何度も受け、恨んでいた
・信長の激しい気性に恐怖を感じていた
・自分が天下を取りたかった
光秀が信長を恨んでいたことや怖がっていたことは、江戸時代から伝わる有名な話です。しかし、当時の記録に、そうした話はみられないため、ほぼ創作とされています。
近年は、光秀が信長に代わって天下を取ろうとしたとする野望説も新たに登場しています。
本能寺の変に黒幕がいたのは、本当?
本能寺の変は、光秀が単独で起こしたのではなく、黒幕がいたとする説を耳にした人もいるでしょう。黒幕の存在を仮定すれば、光秀の無謀とも思える行動にも、納得できる部分がたくさん出てきます。
今のところ、黒幕として特に有力視されている候補は以下の通りです。
・朝廷
・足利義昭(あしかがよしあき)
・羽柴秀吉
・徳川家康
光秀は、朝廷や室町幕府と深いつながりがあったので、実は朝廷側のスパイだったのでは、と勘繰る人もいました。また、秀吉や家康は信長側の人間ですが、後に天下人(てんかびと)となったことから、光秀をそそのかして邪魔な信長を謀殺したのではと疑われています。
特に、本能寺の変で最も得をした秀吉は、黒幕の条件にぴったり合う人物といってよいでしょう。
本能寺の変の「その後」
信長が無念の死を遂げた後、織田家や世の中は、どうなったのでしょうか。本能寺の変の「その後」を見ていきましょう。
信長の嫡男も倒される
信長は1576(天正4)年に、長男の信忠(のぶただ)に家督を継がせています。信忠は本能寺の変の前日、信長が開催した茶会に同席し、夜になって自分の宿所に戻ります。
朝になって、本能寺が光秀に攻撃されていることを知ると、手勢を率いて救出に向かいます。しかし間に合わず、近くの二条御所(にじょうごしょ)に立てこもって明智軍と戦いました。
御所に火が放たれて、いよいよ追いつめられると、家来に遺体を隠すように命じて自害します。光秀は、せめて信忠の首だけでもと必死に捜しますが、見つかりませんでした。
残った信長の子どもたちも、その後に政権をにぎった羽柴秀吉に倒されたり、家臣になったりして、時代の流れに飲み込まれていきます。
「三日天下」で終わった明智光秀
光秀は本能寺の変の後、周辺地域を制圧して、信長の居城・安土城(あづちじょう)に入ります。本格的に天下に号令を出そうと、親交のあった大名に声をかけますが、思ったような反応が得られませんでした。
光秀は謀反の計画を極秘に進めていたので、他の大名に根回しする余裕がなかったのです。首を持ち帰れなかったため、信長の死を信じない人もいました。
光秀が焦りはじめたころ、事件を知った秀吉が中国地方から戻ってきます。秀吉の帰還は、当時の常識では考えられないほど早く、光秀は十分な準備ができないまま迎え撃つことになりました。
「山崎(やまざき)の合戦」と呼ばれるこの戦いで、光秀は敗れ、退却中に命を落とします。本能寺の変からわずか10日余りの出来事でした。なお、数日しか天下を取れなかった光秀の様子は「三日天下(みっかてんか)」と呼ばれています。
豊臣秀吉が信長の後継者に
主君の敵(かたき)を真っ先に討った秀吉は、織田家の中で発言力を強めます。山崎の合戦から約2週間後に開かれた後継者を決める清洲会議(きよすかいぎ)では、信長の孫「三法師(さんぼうし)」の後見人となって優位に立ちました。
三法師はまだ小さな子どもでしたが、信忠の嫡男(ちゃくなん)だったので、織田家の正統な後継者であると主張したのです。
その後、秀吉は古参の重臣・柴田勝家(かついえ)や信長の三男・信孝などライバルを次々に倒し、「小牧・長久手(こまき・ながくて)の戦い」で徳川家康にも勝利しました。
名実ともに信長の後継者にふさわしい立場となった秀吉は、朝廷から「関白」に任ぜられ、自身が天下人として君臨することになります。
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多くの謎に包まれた本能寺の変
天下人の側近になるほどの人物が、いきなり謀反を起こしたうえに、三日天下で終わった本能寺の変には、分からないことが多く、さまざまな憶測を呼んでいます。
あるはずの遺体が見つからなかったり、羽柴秀吉が異常な早さで戻ったりしたことにも、いかにも裏がありそうです。
本能寺跡の発掘調査や古文書の解読など、真実を解き明かす研究は現在も続けられています。最新情報を元に、あれこれと想像をめぐらせてみると、何か新しい気付きが得られるかもしれません。
もっと知りたい人はこんな参考図書も
小学館版 学習まんが人物館「明智光秀」
小学館 学習まんがシリーズ レキタン8「明智光秀と本能寺の変ほか」
朝日新聞出版 日本史BOOK―歴史漫画タイムワープシリーズ「本能寺の変へタイムワープ」
吉川弘文館 歴史文化ライブラリー232「検証 本能寺の変」
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構成・文/HugKum編集部