豊臣秀吉はどんな人? 天下統一を果たした才能と、その生涯【親子で歴史を学ぶ】

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豊臣秀吉は、天下人の中でも知恵者として知られる武将です。戦国時代はどの武将の人生も波瀾万丈でしたが、秀吉ほど生まれと晩年の生活が違った人はいなかったかもしれません。秀吉が行った政策と、その生涯を追っていきましょう。

豊臣秀吉とは

「豊臣秀吉(とよとみひでよし)」は、安土桃山時代、いわゆる戦国時代に活躍した武将です。まずは、秀吉がどのような人物であったのか、少年時代や、性格について見ていきましょう。

農民から大出世した天下人

秀吉は、尾張国(現在の愛知県西部)の貧しい農家に生まれました(1537)。確かな史料は多くありませんが、15~16歳ごろ、故郷を出て、近隣の国々を転々としながら、さまざまな仕事をしていたといわれています。

17歳ごろから織田(おだ)家に仕えはじめ、やがて織田信長の有力武将として知られるようになりました。そして信長の死後、ついに天下統一を果たして武士の頂点に立ちます。

秀吉は、決して恵まれた生まれではありませんでしたが、自らの才覚と行動力でのし上がり、国のトップになった出世人だったのです。

豊臣秀吉公像(京都市東山区)。1995年の阪神淡路大震災で損傷した秀吉公像が、修復保管されていた蔵から、2019年、24年ぶりに豊国神社唐門(国宝)前に安置された。清水焼の陶製だ。

優れた人心掌握術

秀吉は、人の心をつかむ才能に非常に長けていたといわれています。「信長の草履(ぞうり)を懐で温めていた」という逸話が有名ですが、信長がピンチの際には、自ら志願して最も危険な場所で敵の侵攻を食い止めました。

部下が戦(いくさ)に敗れたときも責めることなく、生きて帰ったことをたたえたそうです。投降した武将を、信長が処分しようとしたときは、自分の陣へ連れてきて、信長の命に反し武将を逃がしたと伝えられています。

秀吉は上司から信頼を、部下から敬意を勝ち取る術を知っていたのです。力を持つ人々を、ことごとく味方に付ける人心掌握術こそ、秀吉が出世できた最大の理由といえるでしょう。

豊臣秀吉の生涯

織田家に仕えはじめたころの豊臣秀吉は、一介の使用人に過ぎませんでした。そこから、どのような経緯をたどって、天下を取るに至ったのでしょうか。

織田信長に仕え、才能を発揮

初めて秀吉(当時は木下藤吉郎と名乗っていた)が信長の目に留まったのは、「墨俣一夜城(すのまたいちやじょう)」を建てたときだといわれています(1566)。

築城作業が難航するなか、秀吉は機転を利かせ、川の流れを利用して木材を運び、一夜にして重要な砦(とりで)を築き上げたそうです。

さらに1570(元亀元)年の「金ヶ崎(かねがさき)の戦い」では、退却する軍の最後尾という最も危険な殿(しんがり)で奮戦し、信長から信頼を得て重用されるようになりました。1573(天正元)年には「羽柴(はしば)秀吉」と改名します。

「金ヶ崎の退き口(のきぐち)」(福井県敦賀市)。「金ケ崎崩れ」とも呼ばれる織田軍の撤退戦の地。浅井(あざい)長政と朝倉義景軍に挟み撃ちされ、絶体絶命の危機だったが、秀吉は明智光秀らと殿を務め、功績を挙げた。

 

その後も「長篠の戦い(1575)」「信貴山城(しぎさんじょう)の戦い(1577)」など数々の戦で活躍し、信長の下で勢力を伸ばしていきました。

柴田勝家に勝利し、大坂城を建立

1582(天正10)年に「本能寺の変」が起こり、主君である信長が、明智光秀に討たれてしまいます。秀吉はすぐに仇討ちに向かい、「山崎(やまざき)の戦い」で光秀を下しました。

信長の後継者問題では、「清洲会議(きよすかいぎ)」で、信長の重臣・柴田勝家(かついえ)の意見を跳ね飛ばし、信長の孫・三法師(さんぼうし、後の秀信)を後継者に据えます。

1583年「賤ヶ岳(しずがたけ)の戦い」で関係が悪化した柴田勝家に勝利し、その勢いで、秀吉は織田家の実力者を次々と討ち取ったのです。同年に政権の拠点となる「大坂城」を建立しました。

関白に任命後、天下を統一

秀吉は、有力武将を次々と取り込み、その勢力をさらに増していきました。1585(天正13)年に朝廷から「関白(かんぱく)」に任命されると、紀伊(和歌山と三重の一部)・四国・越中(富山)を平定します。

1586年に秀吉は天皇から「豊臣」姓を与えられ、「太政大臣(だいじょうだいじん)」にも任命されました。1587年には九州を平定、1590(天正18)年には最後まで抵抗を続けた北条氏を降伏させて、関東・東北を含む天下統一を達成したのです。

小田原城天守(神奈川県小田原市)。1590(天正18)年、秀吉は天下統一の仕上げとして、北条氏政・氏直の籠(こも)る小田原城を、数十万の大軍で総攻撃した。3か月の籠城戦の末、ほとんど無血で開城させた。北条側が、和議か、抗戦継続か、をめぐって議論するも、一向に結論が出なかった……これが「小田原評定(ひょうじょう)」という言葉になった。

 

秀吉は1598(慶長3)年、伏見城で亡くなりました。がん・感染症・脚気(かっけ)など死因は諸説ありますが、はっきりしたことは分かっていません。

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豊臣秀吉が行った政策

豊臣秀吉(イメージ)

 

豊臣秀吉は、「太閤検地(たいこうけんち)」と「刀狩令(かたながりれい)」で、豊臣政権の安定を狙いました。この二つは、どのような政策だったのでしょうか。

年貢徴収を合理化「太閤検地」

「太閤検地」は、1582~1598年の間に行われました。検地とは、その土地でどれだけの作物が収穫できて、誰がどれだけの年貢を納められるのか調べることをいいます。

それまで、土地に関しては申告による情報しかなかったため、年貢を納める基準があいまいでした。太閤検地では、秀吉が役人を送り、ほぼ同一の基準で全国の田畑や屋敷の面積などを調べたのです。

さらに、米を量る升(ます)を統一することで、全国から公平に年貢を取れるようになりました。土地の生産力を、米の量で表わす「石高制(こくだかせい)」は、太閤検地により確立したものです。

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農民による一揆を抑制「刀狩令」

納める量は公平になったものの、年貢率が収穫高の3分の2と高かったため、各地で農民による一揆が起こりました。一揆とは、圧政に対して団結して暴動を起こすことをいいます。

一揆を防ぐため、秀吉は1588年に「刀狩令」を出し、農民から刀や槍(やり)などの武器を取り上げたのです。農民たちに協力させるため、武器は仏像を造る材料にすると伝えられました。

これにより、武士と農民の身分が、明確に区別されたことになります(兵農分離)。さらに1591(天正19)年に出された「身分統制令」により、職業や身分を固定する制度が進められました。

豊臣政権を弱らせた朝鮮出兵

日本を統一しただけでは飽き足らず、豊臣秀吉は「朝鮮」に兵隊を送り込んでいます。

「文禄の役(ぶんろくのえき)」「慶長の役(けいちょうのえき)」と呼ばれる、2度の朝鮮出兵について見ていきましょう。

亀甲船と激突「文禄の役」

「文禄の役」とは、1592(文禄元)年に起きた秀吉軍と朝鮮・明(みん)軍との戦いのことです。

天下を統一した秀吉は、明(中国の当時の王朝)を征服しようと考えます。当時の明は衰退期にあり、朝鮮などの従属国との結び付きも弱っていました。そこで、まずは朝鮮に狙いを付け、兵を向かわせたのです。

秀吉軍の猛攻を迎え撃ったのは、「李舜臣(りしゅんしん)」という将軍でした。鉄板で覆われた頑丈な亀甲船(きっこうせん)を率い、制海権を握って秀吉軍の補給路を断ったのです。

さらに、明軍が応援に来ると戦は膠着(こうちゃく)状態に陥り、秀吉は明と講和交渉の席に着くことになりました。

多くの犠牲を出した「慶長の役」

明との講和交渉が決裂した結果、1597(慶長2)年に「慶長の役」が始まります。秀吉軍は大軍で攻め入り、朝鮮半島を侵略していきました。

ところが1598年、戦いの最中に秀吉が亡くなってしまいます。徳川家康を含む豊臣家の五大老は、兵を朝鮮から撤退させ、これにより慶長の役が終結したのです。

朝鮮だけではなく、日本にとっても、2度にわたる朝鮮出兵は、多大な犠牲を生むものでした。疲弊しきった大名たちの不満は、1600(慶長5)年に起きた「関ヶ原の戦い」の火種となってしまいます。

「文禄の役」「慶長の役」は、豊臣家の衰退の一因となったといえるでしょう。

小学生におすすめ!豊臣秀吉の理解が深まる本

子どもが興味を持ったときが、知識を吸収するタイミングです。学校の授業などで、豊臣秀吉に興味を持った小学生におすすめしたい「伝記」を2冊紹介します。

学習まんが 少年少女 人物日本の歴史 豊臣秀吉

歴史上の有名人について知りたいときは、それぞれの出来事を細切れに学ぶより、その人の生涯を通して歴史の流れをつかんだ方がイメージが湧くという人も多いものです。

「学習まんが 少年少女 人物日本の歴史 豊臣秀吉」は、豊臣秀吉の伝記をマンガで紹介した1冊です。登場人物が生き生きと動き回るので、やや難しい部分も抵抗なく読み進められるでしょう。子どもにはイメージしにくい当時の暮らしなども、絵が想像力の助けになってくれるはずです。

超ビジュアル! 歴史人物伝 豊臣秀吉

本を読み慣れている子どもや、より深く勉強したい子どもには「超ビジュアル! 歴史人物伝 豊臣秀吉」がおすすめです。

コミカルなマンガで大まかなストーリーが描かれた後、カラフルで写実的なイラスト付きの解説ページが続きます。大筋を理解してから解説文に入るため、より知識が定着しやすいでしょう。戦国時代の豆知識や秀吉の人柄が分かるエピソードも豊富で、大人が歴史を復習する資料としても役立つかもしれません。

豊臣秀吉は戦国時代を代表する武将の一人

豊臣秀吉は、低い身分に生まれながら、関白や太政大臣といった重職に就いた「戦国一の出世頭」です。社会でうまく立ち回る処世術の見本として、ビジネスシーンで取り上げられることも少なくありません。

秀吉が生まれたころは、まだ身分が固定されておらず、転職も自由で能力と行動力次第でチャンスをつかめる時代でした。これは、現代にも通じるところがあるのではないでしょうか。子どもが目標を達成するための力を学ぶのにも、豊臣秀吉の人生はよい見本になるかもしれません。

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構成・文/HugKum編集部

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