関ヶ原の戦いとは? 時代背景や関わった人物まで分かりやすく解説

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関ヶ原の戦いは、日本史の学習では必ずと言っていいほど出てくる重要な出来事です。多くの人物が決戦に向けて思惑を巡らせる様子はドラマティックで、本や映画などでもよく取り上げられます。有名なエピソードを交えて分かりやすく解説します。

関ヶ原の戦いを簡単に解説

「関ヶ原(せきがはら)の戦い」という名前は覚えていても、詳しい内容を忘れてしまった人も多いのではないでしょうか。戦いが起こった時期や場所など、基本情報をおさらいしましょう。

東軍と西軍による天下分け目の戦い

関ヶ原の戦いは、1600(慶長5)年に、全国の主だった戦国大名が東軍と西軍に分かれ、美濃(みの)の「関ヶ原」で戦ったという史実です。東軍のリーダーは徳川家康、西軍は石田三成(みつなり)でした。日本の支配者が決まる大きな合戦だったことから、「天下分け目の戦い」と表現されることもあります。

史跡関ケ原古戦場決戦地(岐阜県不破郡)。中央に石碑、右に東軍徳川、左に西軍石田の幟(のぼり)が見える。

 

大規模な合戦だったものの、濃霧の中、午前8時の開戦から、わずか6時間程度で決着したといわれています。三成との決戦に向けて、家康が諸大名に対して周到に根回ししており、勝敗は最初から決まっていたようです。

エピソードの一部には創作も?

関ヶ原の戦いには、「小早川秀秋(こばやかわひであき)の裏切り」をはじめ、いくつかの有名なエピソードがあります。しかし、その一部は、江戸時代に入ってから創作されたという可能性が、最近の研究で示唆されるようになりました。

勝者による事実の書き換えは、歴史においてよく起こります。戦いに勝った家康も、当時は、豊臣(とよとみ)家から政権を奪った存在です。幕府にしてみれば、家康の行為を正当化するためにも、関ヶ原の戦いには大義名分があったことをアピールする必要があったのでしょう。

歴史の教科書に書いてある内容が、最新の研究や史料の発見により、実は違った、と判明することはよくあります。自分たちの幼少期に習った内容が、子どもの教科書では変わっているケースにも出合うかもしれません。

子どもに歴史を教えるときは、常識だと思っていたことが、時代とともに変わる可能性も頭に入れておきましょう。

関ヶ原とは、どこにある?

関ヶ原は、現在の「岐阜県不破郡(ふわぐん)関ケ原町」にあります。名前に「原」が付いているため、広い原野をイメージする人がいるかもしれませんが、実際は周囲を山に囲まれた盆地です。

三成の陣のあった笹尾山から「関ケ原」を望む(岐阜県不破郡)。確かに、盆地といえる。

 

関ヶ原は、大阪方面から岐阜や愛知に抜ける際に必ず通る場所で、672(弘文元)年に起こった「壬申(じんしん)の乱」でも重要な役割を果たしました。

江戸から進軍してきた家康を、大坂城方面へ行かせたくなかった三成は、関ヶ原の東にある大垣(おおがき)城に入り、防衛線を張ります。大垣城は堅固(けんご)な城で、戦上手(いくさじょうず)で知られる家康も手を焼いたようです。

大垣城(岐阜県大垣市)。城主・伊藤盛宗が西軍に属していたため、石田三成が入城して根拠地にした。家康が手を焼いた堅固な平城である。現在の天守は、1959(昭和34)年に再建された。

 

そこで家康は、策を弄して三成を城からおびき出し、関ヶ原での決戦に持ち込んだといわれています。

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関ヶ原の戦いが起こった原因

関ヶ原の戦いは、豊臣秀吉が天下を統一してから10年後の1600年に起こります。平和な世がやってくるはずの時期に、なぜ天下分け目の合戦が起きたのでしょうか。開戦までの経緯を解説します。

豊臣秀吉の死

織田信長の後継者として天下統一を成し遂げ、政権を樹立した秀吉は、大名の中でも抜きん出た勢力を持つ徳川家康をひどく警戒していました。秀吉の息子・秀頼(ひでより)は幼く、自分の死後に、家康がおとなしくしているとは到底思えなかったのです。

家康の野望を止めるため、秀吉は「五大老」と「五奉行」の制度を設けて、みなで秀頼を支えるよう言い残しました。家康は五大老、石田三成は五奉行の1人です。五大老には、家康に意見できる唯一の大名・前田利家(としいえ)も選ばれています。

利家は、家康をけん制する役目を果たしていましたが、秀吉の死から、わずか1年後に亡くなってしまいます。止める者がいなくなった家康は、秀吉の遺言を守らなくなっていったのです。

徳川家康と石田三成の対立

秀吉は天下統一後、大名同士が無断で婚姻関係を結んだり、領地をやり取りしたりする行為を禁止していました。しかし秀吉の死後、家康はそれを無視して、どんどん力を付けていきます。家康の勝手な行動に、三成をはじめ豊臣方の大名は不満を募らせます。

一方、秀吉が生きていたころから、豊臣政権の中では、合戦で手柄を立てた「武断派」と、内政担当の「文治派」が対立していました。天下が統一され、合戦が減ると、武断派の大名には出番がありません。

武断派の大名たちは、自分たちの不満をよそに、幅を利かせる三成ら文治派に腹を立て、家康に接近します。家康はその状況を利用して三成の危機感をあおり、戦に持ち込んだといわれています。

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関ヶ原の戦いの勝敗と戦後

関ヶ原の戦いは、日本じゅうの大名を巻き込んだ大合戦です。戦いの結果は、後の世にも、大きな影響を及ぼしました。関ヶ原の戦いの勝敗や、戦後の様子を見ていきましょう。

勝者は徳川家康率いる東軍

戦いが始まった時点では、石田三成率いる西軍が兵力数で勝っており、有利と思われていました。しかし西軍には、最初から戦う気がない大名や、裏切ることを決めていた大名もいたようです。

笹尾山の三成陣跡。堅牢な馬防柵を巡らしてある。関ケ原は、南西にある北国街道が軍事上、重要なポイントとなるため、三成はこの笹尾山に布陣している。小早川秀秋の裏切りがなければ……と思わせる立地だ。

 

例えば毛利輝元(もうりてるもと)は西軍の総大将として大坂城にいましたが、戦いの終わりまで出陣しませんでした。合戦に加わっていた毛利の武将・吉川広家(きっかわひろいえ)も、自陣から全く動いていません。

同じような考えの大名はほかにもいて、開戦後に寝返ったり、戦線を離脱したりしたというのが通説です。彼らは、豊臣秀吉の恩に報いるために西軍に加わったものの、実際には、徳川家康の実力を分かっており、ひそかに東軍に内通していたとされています。

岐阜関ケ原古戦場記念館(岐阜県不破郡)。家康の最後の陣地跡に建てられていて、ここに来れば、関ヶ原の戦いのすべてが分かる。アンバサダーとして、女優の竹下景子が就任している。2020(令和2)年開館。

戦後の変化とは

関ヶ原の戦いが終わった後、三成は捕えられ処刑されます。秀吉の後継ぎであった秀頼は、天下人(てんかびと)から一大名に格下げとなりました。西軍に加わった他の大名たちも、改易や取り潰し・流罪などの厳しい処分を受けます。

一方、東軍に参加した大名には、西軍から没収した所領が恩賞として分配されました。家康自身も直轄地を大幅に増やし、ますます勢力を強めます。関ヶ原の勝利から3年後には、征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)となり、江戸幕府を開きました(1603)。

家康はさらに、1614(慶長19)年の大坂冬の陣と、翌年の大坂夏の陣で、豊臣家を滅ぼします。この時点で、徳川家に対抗できる勢力はいなくなり、その後、260年以上にわたって戦のない平和な時代が続いたのです。

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新たな権力者が生まれた関ヶ原の戦い

関ヶ原の戦いは、豊臣秀吉が築いた政権を守りたい石田三成と、奪いたい徳川家康との決戦でした。諸大名にとっても、自分たちの未来が決まる一大事です。三成率いる西軍と家康率いる東軍のどちらに付くべきか、迷った大名も数多くいたでしょう。

たった数時間で決着がついた戦にもかかわらず、多くのエピソードが残っているのも、まさに「天下を分ける」戦いだった証(あかし)です。関ヶ原の戦いについては、現在も多くの歴史学者が研究を続けています。今までの常識が覆り、大名たちの本音が分かる日が、いつか来るかもしれません。

「関ケ原」をもっと知るための参考文献

ポプラ社 コミック版日本の歴史「歴史を変えた日本の合戦『関ケ原の合戦』」


日本を真っ二つに分た天下分け目の東西決戦。そこに至る経緯を、史実に沿ってドラマチックに描いた歴史コミックです。豊臣秀吉の死後、五大老筆頭の徳川家康と、彼から離反する石田三成の対立を、その心理戦も含め克明に描きます。

小学館版 少年少女学習まんが 日本の歴史11「天下の統一」


歴史学習まんがのシェアNo.1の小学館学習まんがシリーズ11巻です。織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の三人を中心に、それぞれの「天下統一」の経緯が描かれます。小学生から大人まで楽しめる歴史学習&エンターテイメントの一冊です。

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構成・文/HugKum編集部

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