「元禄文化」の特徴とは
どの文化にも、核となる人々や地域が存在します。元禄文化の担い手は、どのような人々で、どこで栄えたのでしょうか。元禄文化の主な特徴を見ていきましょう。
町人を中心とした華やかな文化
元禄文化が生まれる前までは、日本の文化の中心は、公家(くげ)や大名、一部の豪商など上流階級の人々でした。
しかし、江戸時代も17世紀後半になると、世の中は平和になり、一般庶民の生活にも、ゆとりが出てきます。
農業をはじめ、さまざまな産業が発展し、経済力をつけた町人も現れました。豊かになった町人が、学問や娯楽にいそしみ、絵画や文学、演芸などのジャンルで活躍を見せたのが、元禄文化の大きな特徴です。
元禄文化は、いつ、どこで栄えた?
元禄文化の「元禄」は、当時の元号です。元禄期(1688~1704年)に栄えたことから、元禄文化と呼ばれています。また、元禄文化の中心は、主に当時、上方(かみがた)と呼ばれていた大坂(現大阪)や京都です。
特に大坂は、商業の発展が目覚ましく、周辺諸国からも多くの人が移り住んで大都市に発展します。
活気に満ちあふれる上方で、町人が盛り上げた元禄文化からは、貴族中心の雅(みやび)な文化とは違う、力強く華やかな雰囲気が感じられます。
元禄文化の時代背景
元禄期は、江戸時代の前半にあたる時期です。将軍は5代目となり、戦国の世の記憶も薄れつつありました。元禄期の世の中では、何が起きていたのでしょうか。当時の様子を見ていきましょう。
5代将軍徳川綱吉の最盛期
元禄期は徳川綱吉(つなよし)が5代将軍に就任し、活躍した時期に重なります。綱吉といえば、「生類憐(しょうるいあわれ)みの令」(1687)が有名ですが、実は、学問好きな人物としても知られています。
綱吉は、戦(いくさ)のない社会で、武士が秩序を維持するためには、武芸よりも学問が重要と考え、儒学(じゅがく)を奨励しました。
学問は武士だけでなく、暮らしが安定した町人の間にも広まり、寺子屋(てらこや)教育によって、一般庶民が普通に読み書きできる世の中になります。
医学や天文学などの実用的な学問が発展したり、科学技術も大きく進歩したりしました。印刷・出版技術も向上し、書物や版画の大量生産が可能になります。誰でも、安価で本や絵を楽しめるようになったのも、元禄文化が生まれた大きな要因といえるでしょう。
元禄文化で活躍した人物と代表作品
元禄時代には、後世にも大きな影響を与えた文化人がたくさん現れました。主な人物と代表作品を紹介します。
尾形光琳「燕子花図屛風(国宝)」
尾形光琳(おがたこうりん)は、1658(万治元)年に京都で生まれました。実家は裕福な呉服商でしたが、光琳の浪費癖や、最大の得意先であった東福門院(とうふくもんいん、天皇の后)の崩御(ほうぎょ)などが原因で、店の経営は苦しかったといわれています。
しかし、絵師としての腕は素晴らしく、その作品は海外でも高い評価を受けています。『燕子花図屛風(かきつばたずびょうぶ)』は、日本の絵画史における光琳の代表作として、国宝に指定されているほどです。豪華な金箔(きんぱく)を背景に、流れるように咲く濃紺の燕子花が映え、とても鮮やかな作品です。
松尾芭蕉「おくの細道」
松尾芭蕉(まつおばしょう)は1644(寛永21)年に、現在の三重県伊賀市で、武家の次男として生まれました。
奉公先の主人が俳諧(はいかい)を習っていたため、芭蕉自身も俳諧に親しむようになり、1675(延宝3)年(諸説あり)、30代半ばで江戸に移り住んで、俳諧の師匠となったのです。
1689(元禄2)年、芭蕉は46歳のときに、弟子の曾良(そら)を1人連れて、東北や北陸を巡る旅に出ます。この旅の様子を綴(つづ)った紀行文が、代表作『おくの細道』です。芭蕉は旅の途中で、各地の俳人と交流を重ね、数々の名句を残しました。
著名な句には、岩手県で詠んだ「夏草や兵(つわもの)どもが夢の跡」や、山形県で詠んだ「閑(しずか)さや岩にしみ入る蟬(せみ)の声」などがあります。聞くだけで情景が目に浮かぶ芭蕉の句は、未だ色褪(あ)せず私たちの心に響きます。
市川團十郎「暫」
歌舞伎(かぶき)界の名門「市川家」初代・團十郎(だんじゅうろう)も、元禄文化の立役者の1人です。彼が考案した「荒事(あらごと)」が江戸で大人気となったことで、市川家は長い間、江戸歌舞伎界のトップに君臨します。
『暫(しばらく)』は、團十郎が演じた荒事の代表的な演目で、後に、市川家のお家芸「歌舞伎十八番」の一つに選ばれています。
悪役が善良な人々を殺そうとするシーンで、主役が「しばらく、しばらく」と言いながら登場し、人々を救う単純明快なストーリーです。
特徴的な「隈取(くまどり)」や、悪役を追い払った後に見せる豪快な「元禄見得(みえ)」は、この作品の見どころの一つとなっています。
井原西鶴「好色一代男」
井原西鶴(いはらさいかく)は、元禄時代のベストセラー作家です。1642(寛永19)年に大坂の裕福な町人の子として生まれますが、15歳で俳諧の道を志した西鶴は、21歳で師匠となり活躍しました。その後、作家に転向し『好色一代男(こうしょくいちだいおとこ)』(1682)で文壇デビューを果たします。
『好色一代男』は、色事を通して庶民の生活を描いた画期的な作風が受け、大ヒット作となりました。このときから、色事を含め世間の雑事を描いた、庶民が主役の文学作品は「浮世草子(うきよぞうし)」と呼ばれるようになります。
西鶴は、他にも『日本永代蔵(にっぽんえいたいぐら)』(1688)や、『世間胸算用(せけんむねさんよう)』(1692)などの名作を残しています。
近松門左衛門「曾根崎心中」
近松門左衛門(ちかまつもんざえもん)は、元禄期の売れっ子劇作家です。1653(承応2)年に、現在の福井県で武士の家に生まれましたが、父親が浪人となり、京都に移住したため、彼も京都で公家に仕えるようになります。
このころ、京都で評判だった「浄瑠璃(じょうるり)語り」と出会い、劇作家への道を歩みはじめました。人間味にあふれるストーリーが評価され、浄瑠璃界に新風を巻き起こしたのです。
特に、代表作『曾根崎心中(そねざきしんじゅう)』(1703)は、時代物が中心だった浄瑠璃の世界に、男女の悲恋という世話物要素を持ち込んだことで人気を集めます。
『曾根崎心中』のヒットによって、心中がブームとなり、幕府が「心中禁止令」を出したほどでした。
間違えやすい「化政文化」との違い
江戸時代に起こった文化の一つに「化政(かせい)文化」があります。元禄文化とは、時代も中心地も異なりますが、どちらも庶民が主役だったため、混同されがちです。
「元禄文化」と「化政文化」の主な違いを見ていきましょう。
多くの人が学問を学べるように
「化政文化」の最盛期は、江戸時代後期の「文化・文政期(1804~30年)」です。元禄文化の中心は上方でしたが、化政文化は江戸を中心に発展しました。
文化・文政期は、国学者「本居宣長(もとおりのりなが)」や『解体新書』(1774)を出版した「杉田玄白(げんぱく)」、日本地図を作った「伊能忠敬(いのうただたか)」など、学者が活躍した時期でもあります。
私塾や藩校、寺子屋など教育の場が充実して、多くの人が学問を学べるようになりました。
元禄文化がより庶民化
文化・文政期には学問だけでなく、娯楽も盛んになりました。このため化政文化は、元禄文化がより「庶民化」したものともいわれます。
「滑稽本(こっけいぼん)」や「人情本」、子ども向けの読み物など、庶民が好む文学作品が生まれ、「落語」や「相撲(すもう)」などのエンターテインメントも流行します。
特に、人気を集めたのが「浮世絵(うきよえ)」です。「錦絵(にしきえ)」と呼ばれる多色刷りの版画が開発されたことで、浮世絵は、庶民の間で大変もてはやされました。当時の人々にとって錦絵は、白黒テレビがカラーテレビになったような斬新さだったのかもしれません。
代表的な作品として、歌川広重の「東海道五十三次」、葛飾北斎(かつしかほくさい)の「冨嶽(ふがく)三十六景」などが挙げられます。
多くのものを生み出した元禄文化
元禄文化は、戦がなくなったことで、庶民にも芸能・芸術を楽しむゆとりが生まれたことにより発展しました。元禄文化は徳川家がもたらした、平和の象徴といってもよいでしょう。
元禄期に生まれた絵画や文学作品、舞台作品は、後世の日本の文化にも大きな影響を与えています。松尾芭蕉や市川團十郎など、現在も語り継がれる芸術家を生み出した元禄文化への理解を深め、日本の歴史をより楽しみましょう。
この時代をもっと深く知るための参考図書
小学館版 学習まんが はじめての日本史9「江戸幕府の完成」
全15巻の新・日本史学習まんがシリーズ。第9巻で扱うのは、数々の政策を掲げて徳川幕府の基盤をゆるぎないものにした三代将軍・徳川家光の時代から、享保の改革などで財政を立て直し、米将軍とよばれた八代将軍吉宗の時代までです。この記事に扱った元禄文化についても紹介されています。
小学館版 少年少女 学習まんが 日本の歴史13 「士農工商・江戸時代前期」
町人文化の担い手である町人とは、幕府が定めた身分制度の中でどんな層であり、その文化はどのように発展していったのでしょうか。
さまざまな政策により江戸幕府が安定していく様子を追いながら、大名や庶民の暮らしぶりや、この時代の交通網などについてもわかりやすく図解します。
構成・文/HugKum編集部