天保の改革とは
「天保(てんぽう)の改革」は、江戸幕府が実施した政治改革です。「享保(きょうほう)の改革」「寛政(かんせい)の改革」とともに、江戸の三大改革と呼ばれています。改革の中心人物や、他の改革との違いを見ていきましょう。
水野忠邦が行った江戸幕府の政治改革
天保の改革は、江戸時代後期にあたる1841~1843(天保12~14)年に、幕府が実施した一連の政治改革を指します。改革の責任者は、老中・水野忠邦(みずのただくに)です。老中とは、幕府の政務を司る最高機関のことです。
当時の幕府は、国内外に複数の問題を抱え、危機的な状況にありました。老中のリーダー格・老中首座に就任した忠邦は、財政赤字の解消やインフレ対策、外交などの各方面において、さまざまな改革を進めていくのです。
水野忠邦は、どのような人物?
忠邦の出身地は、肥前(ひぜん)国唐津(現在の佐賀県唐津市)です。1794(寛政6)年に藩主・水野忠光(ただあきら)の次男として生まれますが、幼い頃に兄が亡くなり、跡継ぎとなりました。
19歳で家督(かとく)を継いだ忠邦は、藩政改革に着手する一方で、幕府内での昇進を目指して活動します。しかし唐津藩には「長崎警護役」と呼ばれるお役目があり、幕府の要職には就けません。
そのため、わざわざ各方面に根回しをして、遠江(とおとうみ)国浜松(現在の静岡県浜松市)に領地替えしてもらうほどの熱心さでした(1817)。苦労の甲斐(かい)があって、忠邦は順調に昇進を重ねます。1839(天保10)年に、ついに老中首座にまで登り詰めました。
「享保の改革」「寛政の改革」との違い
享保の改革は、1716~1745(享保元~延享2)年に行われた、8代将軍・徳川吉宗(とくがわよしむね)による政治改革です。倹約令、目安箱(めやすばこ)の設置、新田開発、身分を問わない人材登用などの政策が知られています。
寛政の改革は、1787〜1793(天明7〜寛政5)年に、老中首座の松平定信(まつだいらさだのぶ)が主導した改革です。享保の改革以降、再び危機に直面した幕府の財政を立て直そうと、徹底的な倹約を進めました。風紀の取り締まりや学問の統制も大変厳しく、江戸の町から活気が失われたといわれています。
天保の改革が行われた時代背景
水野忠邦は、なぜ政治改革を実行したのでしょうか。天保の改革が行われた当時の時代背景を見ていきましょう。
徳川家斉が実権を握る「大御所時代」
忠邦が老中になった頃、幕府では、11代将軍の徳川家斉(いえなり)が「大御所(おおごしょ)」として政治の実権を握っていました。大御所とは、将軍の父のことです。家斉は、息子に将軍職を譲った後も政治に関与し続けたため、この時代を特に「大御所時代」と呼んでいます。
家斉は、ぜいたくを好み、奔放な政治を行いました。その結果、幕府の財政はひっ迫し、役人のモラルも低下して汚職が横行したのです。
全国各地で、百姓一揆が発生
さらにこの頃、凶作が相次ぎ大飢饉(ききん)が発生します。米の価格が急騰して、都市部でも食べ物を買えずに餓死する人が出るありさまでした。
しかし幕府は、困っている人を救うどころか、富裕な商人が米を買い占めて利益を上げる行為を黙認します。多くの餓死者を出した大坂(現在の大阪)でも、奉行所(ぶぎょうしょ)が将軍のために、なけなしの米を江戸へ送る始末でした。
幕府の対応に不満を募らせた民衆は立ち上がり、全国各地で百姓一揆や打ちこわしが起こります。特に1837(天保8)年の「大塩平八郎(おおしおへいはちろう)の乱」は、首謀者が大坂町奉行所の元役人だったことから、幕府に大きな衝撃を与えました。大塩平八郎の乱が、天保の改革のきっかけになったともいわれています。
世界情勢と日本
鎖国を実施していた日本には、ロシアやイギリスなどの船が通商を求め、相次いで来航していました。そこで幕府は、1825(文政8)年に異国船打払令(いこくせんうちはらいれい)を出し、沿岸に近づく外国船はすべて打ち払う方針を決めます。
1837年には、日本の漂流民を保護して浦賀に来航した「モリソン号」をも砲撃し、追い返してしまいました。世界の情勢が大きく変わろうとするなか、かたくなに外国船を遠ざける幕府の政策に、国内からも危険視する声が上がりはじめます。
深刻な財政難に陥っていたうえに、国内外に多くの問題を抱えていた幕府を立て直すためには、何らかの改革が不可欠だったといえるでしょう。
天保の改革の内容
水野忠邦は、主に人事・経済・軍事の三分野で改革を進めました。それぞれの内容を紹介します。
人事改革
大御所時代に、幕府の役人を務めた武家は、みな腐敗しており、忠邦の改革を快く思わない人もたくさんいました。そこで忠邦は、改革の支障となる役人たちを追放し、新しい人材を登用します。
人事改革は、旗本・御家人(ごけにん)合わせて約950人が処罰される大規模なものでした。忠邦によって、新しく登用された人材としては、「鳥居耀蔵(とりいようぞう)」「遠山景元(とおやまかげもと)」「川路聖謨(かわじとしあきら)」などが知られています。
特に町奉行を務めた遠山景元は、「遠山の金さん」として芝居やドラマで現在も親しまれているので、ご存じの方も多いでしょう。
経済政策
忠邦が実行した経済政策は、主に以下の3点です。
・人返し令
・株仲間解散
・倹約令
人返し令は、米の収穫量を増やすため、都市部へ出稼ぎに来ている農民を農村へ戻す法令です。ただし、発令直後に改革が終わってしまい、効果はありませんでした。
株仲間とは、同業者の組合のことです。忠邦は、株仲間の存在が自由な競争を妨げ、物価を高騰させていると考えました。しかし株仲間解散によって、従来の流通システムが機能しなくなり、かえって物価が上がってしまいます。
倹約令は、享保の改革や寛政の改革でも実施された政策です。忠邦が出した倹約令はさらに厳しく、寄席(よせ)や歌舞伎(かぶき)などの人気娯楽も規制したため、庶民の怒りを買う結果となりました。
軍事政策
忠邦は、外国の脅威に対応するための改革も実行しています。
異国船打払令を出すほど外国船への強硬な態度を貫いていた幕府も、1842(天保13)年の「アヘン戦争」によって考え方を改めます。軍事力が高いと思っていた清国(しんこく)が、イギリスにあっけなく敗れたことは、幕府にとって大きな衝撃だったのです。
現状のままでは、外国と戦っても勝ち目がないと悟った幕府は「薪水給与令(しんすいきゅうよれい)」を発し、外国船の燃料や食料の補給を許可しました。西洋流の砲術を取り入れ、軍備の増強を開始したのもこの頃です。
天保の改革の結果は?
天保の改革は、その後の日本に、どのような影響を与えたのでしょうか。水野忠邦の運命も合わせて見ていきましょう。
多くの民衆から反発を買う
忠邦の改革は、ほとんどが裏目に出ています。特に倹約令は評判が悪く、多くの民衆から反発を買う結果となりました。
さらに、1843(天保14)年の「上知令(あげちれい、じょうちれい)」によって、忠邦は大名や幕臣からも嫌われてしまいます。上知令とは、江戸や大坂を治める大名・旗本に、領地の約50万石を返上させ、付近の土地を代わりに与える法令です。
上知令には、年貢量の多い江戸や大坂に幕府の直轄地(ちょっかつち)を拡張して収入を増やすとともに、外国に幕府の権威を示す狙いがありました。しかし幕府の都合しか考えていない身勝手な内容に、大名・旗本は猛反発します。他の幕閣はおろか、将軍からの信用も失い、忠邦は老中を解雇されてしまいました。
失敗に終わった天保の改革
天保の改革が失敗に終わったことで、幕府の権威が揺らぎはじめます。水野忠邦の後を継いだ老中たちも、効果的な政策を打ち出せませんでした。
そのような幕府に追い打ちをかけるように、ペリーが黒船を率いて来航し、開国を迫ります(1853)。忠邦の失脚から24年後の1867(慶応3)年、15代将軍・徳川慶喜(よしのぶ)が政権を朝廷に返上し、江戸幕府は解体されました。
もし天保の改革が成功していたら、江戸時代は、もう少し長く続いたかもしれません。子どもと一緒にさまざまな想像をめぐらせてみると、難しい歴史がもっと身近に感じられるでしょう。
時代背景をもっと深く知るために
小学館版 学習まんが はじめての日本の歴史10「江戸幕府のゆらぎ」
中公文庫 石ノ森章太郎 マンガ日本の歴史40「内憂外患と天保の改革」
小学館版 学習まんが 少年少女日本の歴史15「ゆきづまる幕府」
PHP文庫 童門冬二 「小説 遠山金四郎」
東京堂出版 「江戸時代の古文書を読む 天保の改革」
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構成・文/HugKum編集部