「おくのほそ道」とは
「おくのほそ道」は、日本を代表する俳諧(はいかい)紀行文の名作です。旅に生き、旅に死ぬことを願った俳聖・松尾芭蕉(まつおばしょう)が著しました。
俳人・松尾芭蕉の旅日記
「おくのほそ道」は、俳人・松尾芭蕉が江戸を出発して、陸奥(みちのく、現在の東北地方)から北陸をまわって美濃大垣(みのおおがき、現在の岐阜県大垣市)に到着するまでをまとめた、江戸時代初期の旅日記です。距離は約2,400km、日数は約150日間という旅でした。
「おくのほそ道」には、数々の俳句が詠み込まれており、地の文も旅の詩情あふれる名文です。
同行した門人・曾良(そら)の「曾良旅日記」は、日々の覚書(おぼえがき)として記録されているのに対して、「おくのほそ道」は単なる紀行文にとどまらない芸術作品として編まれたことがうかがえます。
奥の細道? おくのほそ道?
ある程度の年代までは「奥の細道」という表記で習った人が多いことでしょう。
現在の教科書では「おくのほそ道」と、「道」だけを漢字にする表記が大半です。これは、芭蕉の直筆とされる「おくのほそ道」の西村本の題簽(だいせん、外題)を根拠としています。
とはいえ、現在、出版されている関連本では「奥の細道」としているものも多く、どちらも間違いではありません。
「おくのほそ道」序文、さわやかな旅立ち
芭蕉は曾良を伴い、1689年(元禄2年)、深川(ふかがわ)から千住(せんじゅ)をまわり陸奥へ向けて旅立ちます。その様子を著した「おくのほそ道」の序文を見ていきましょう。
雛の家
月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人也。
(つきひは はくたいのかかくにして、ゆきこうとしも またたびびとなり)
「おくのほそ道」の有名な出だしです。冒頭から、「人生は旅である」という人生観を述べて旅へのあこがれを示しています。
草の戸も 住み替はる代ぞ 雛の家
(くさのとも すみかわるよぞ ひなのいえ)
庵(芭蕉の住まい)を片付けて人に貸し、旅支度が整うころには、もう出かけたくて気もそぞろになっています。新しい住人が住むことで、お雛様が飾られるような華やかさが出てくるだろう。
この一句を含む八句を、家の柱にかけて、芭蕉は新しい住人への挨拶としました。
深川から千住へ
芭蕉たちは、3月27日の夜明けに深川から船に乗り、千住で降りました。いよいよ旅の始まりです。
深川は、現在の東京都江東区、隅田川(すみだがわ)の東岸に位置します。千住も隅田川沿いにあり、日光街道の起点・千住宿がありました。
行く春や 鳥啼 魚の目は泪
(ゆくはるや とりなき うおのめはなみだ)
過ぎてゆく春を惜しみ、鳥は鳴き、魚の目にも涙が見える。
多くの人に見送られ、つい涙してしまった芭蕉本人のことを詠(うた)っているのでしょう。この句は、旅の終着地・大垣で詠んだ「蛤(はまぐり)の ふたみにわかれ 行く秋ぞ」の句に対応しています。
旅の終わりを、きれいに締めくくっていることから、「おくのほそ道」は単なる紀行文ではなく、芸術作品として著されたといわれているのです。
千住論争を楽しむ
「おくのほそ道」の出発地点について、微笑ましい現代の論争があるのをご存じでしょうか。
芭蕉は、深川から船に乗って千住というところで船を降りた、とだけ記していて、川のどちらの岸で降りたかまではわかりません。
これから北へ向かうことから、自然に考えれば、千住大橋の北側(現在の足立区北千住)に降りたと考えられます。しかし、大橋の南側は荒川区南千住で、こちらも「千住」という地名なのです。
そのため、住民が南千住も「おくのほそ道」の出発地点だ、と主張するのも無理はありません。南千住側の言い分は、「芭蕉は江戸から旅立ったのだから、江戸府内である南千住から千住大橋を渡って行ったのだ」というものです。
芭蕉が旅した当時、千住大橋の北側は下総(しもうさ)国で、江戸ではありませんでした。聞いてみれば「なるほど」とうなずいてしまうような、なかなか楽しい論争といえるでしょう。
代表的な句を味わってみよう
千住論争をみても、芭蕉がどのようなルートをたどったかがとても大切だとわかります。マップを見て、簡単に道順を確認してみましょう。
奥州平泉、兵どもが夢のあと
この旅の最大の目的地である奥州平泉(おうしゅうひらいずみ)では、芭蕉の時代より400年以上さかのぼった1190年ごろの光景を偲(しの)んでいます。当時、京の都から遠く離れた平泉で強い勢力を誇った「奥州藤原氏」の栄華は、夏草におおわれて見る影もありません。
また、平泉は源義経(みなもとのよしつね)の終焉(しゅうえん)の地でもあります。兄・頼朝(よりとも)に追われて落ち延びてきた義経一行を想い、芭蕉は座り込んで涙しています。この地に来たからこそ感じられる詠嘆であり、それが旅の醍醐味ではないでしょうか。
国破れて山河あり、城春にして草青みたり
(くにやぶれて さんがあり、しろはるにして くさあおみたり)
夏草や 兵どもが 夢のあと
(なつくさや つわものどもが ゆめのあと)
栄耀栄華も一時のこと、義経を守って戦った兵たちの思いも、今は草におおわれている。芭蕉が敬慕する唐の詩人・杜甫(とほ)の詩をふまえた地の文に続けて、鎮魂の句を詠みました。
立石寺、静寂と蝉
「山寺(やまでら)」の通称で親しまれている、山形県山形市にある天台宗の寺院、宝珠山立石寺(ほうじゅさんりっしゃくじ)です。
岩が何重にも重なり合っているような山で、松や檜(ひのき)などの老木が茂っています。古色蒼然(こしょくそうぜん)とした寺域は物音ひとつしません。ただ蟬(せみ)の声だけが聴こえるので、ますます静けさが際立ちます。
閑かさや 岩にしみ入る 蟬の声
(しずかさや いわにしみいる せみのこえ)
この句からは、見渡す風景の中で心が澄んでゆく芭蕉の様子が感じられます。
現在でも、立石寺の奥の院までは、1,000段を超える石段を登らなくてはなりません。芭蕉のころは、岩場のふちを回ったり、這(は)ったりしてようやく本堂に辿り着いたようです。
最上川と五月雨、推敲(すいこう)の妙
五月雨を 集めて早し 最上川
(さみだれを あつめてはやし もがみがわ)
芭蕉の俳句の中でも特に有名なこの句は、当初、「五月雨を 集めて涼し 最上川」だったそうです。
5月28日に、大石田(おおいしだ、山形県)に到着した芭蕉は、滞在中に催した句会の発句として「五月雨を 集めて涼し 最上川」の句を詠みました。その後、日本三大急流といわれる最上川の川下りを体験したことで、「涼し」を「早し」に変えたのです。
「涼し」が「早し」に変わるだけで、句の光景はずいぶん変わると思いませんか。
旅の苦労 尿前の関(しとまえのせき)
芭蕉たちは、鳴子温泉(宮城県大崎市)から出羽国へ入ろうとして、山越えの関所で不審尋問を受けたことで時間をくい、その夜は番人の家に泊めてもらうことになりました。その後、風雨のため、3日間も閉じ込められることになります。
村長(むらおさ)の家は、母屋で馬を飼っているため、寝ていても馬が排せつしている音が聞こえてきます。
蚤虱 馬の尿する 枕もと
(のみしらみ うまのばりする まくらもと)
ちなみに、尿前の関の名称は、源義経の妻が平泉に向けて落ちてゆく途中で出産し、生まれた子が尿を放ったことからきているといわれています。
「尿」という字は同じでも、読み方によって想像する光景が変わってきます。「しと」と読めばオムツを濡らす赤ちゃんのおしっこ、「ばり」(方言です)と読めばザーっと噴出する馬の尿になるのです。
終点・おくのほそ道、むすびの地
1689年8月21日、むすびの地・大垣に到着しました。知人や門人たちがたくさん集まって芭蕉をねぎらってくれます。
むすびの地・大垣
毎日のように宿を訪れる人々に感謝しつつ、早くも9月6日には、次の目的地・伊勢神宮に向けて芭蕉は旅立っていきます。
蛤の ふたみにわかれ 行く秋ぞ
(はまぐりの ふたみにわかれ ゆくあきぞ)
蛤の蓋(ふた)と身のように二つに別れて、二見ケ浦(ふたみがうら)に向かう寂しい晩秋の季節である。
出発地の千住では、みんなに見送られて涙した芭蕉ですが、大垣で読んだ句はさらりと感情を流しています。芭蕉にとって、旅の終わりは新しい旅の始まりでもあったのです。
「おくのほそ道」は、人生の旅人たちへのエール
「おくのほそ道」は、江戸時代初期に俳人・松尾芭蕉が著した旅日記です。陸奥から北陸をまわり大垣に行き着くまでの旅程に、数々の俳句が織り込まれています。
カルチャースクールの科目に取り上げられたり、ルートを歩く会があったり、解説本が数多く出版されたりと、俳句の古典「おくのほそ道」は、今でも多くの人に愛されています。あらためて読み直してみると、新しい発見があるかもしれません。
「おくのほそ道」には、人生を旅するすべての人へ、芭蕉からのエールが込められているのです。
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構成・文/HugKum編集部