江戸の文化を支えた「蔦重」の一生。2025年の大河ドラマでも描かれる、浮世絵の黄金期を築いた功績とは【親子で歴史を学ぶ】

蔦重(蔦屋重三郎)は、江戸時代に小説や浮世絵の版元として活躍した人物です。2025年放送予定の大河ドラマの主人公でもあり、注目している人も多いでしょう。江戸の町人文化を盛り上げた蔦重の生涯や、有名なエピソードを紹介します。

「蔦重」とは何をした人物?

「蔦重」は、2025年放送予定の大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺(つたじゅうえいがのゆめばなし)~」の主人公です。本名は蔦屋重三郎(つたやじゅうざぶろう)といい、無名の作家や浮世絵師を大ヒットに導いた人物として知られています。蔦重のプロフィールを見ていきましょう。

江戸を代表する一流の版元

蔦重の生きた時代は、江戸時代の中期です。当時の江戸では華やかな町人文化が花開き、歌舞伎や浮世絵などが庶民の間で広く親しまれていました。

蔦重は江戸を代表する一流の版元として、日本橋通油町(現在の東京都中央区日本橋大伝馬町)に「耕書堂(こうしょどう)」を構えます。

版元とは、現代でいう出版元です。蔦重は江戸生まれの書物を扱う「地本問屋(じほんどいや・じほんどんや)」として、草双紙(くさぞうし)や浄瑠璃本、浮世絵などを出版します。

草双紙とは江戸時代に刊行された絵入り小説で、内容によって表紙の色が区別されているのが特徴です。大人向け・知識人向けの小説は、「黄表紙(きびょうし)」と呼ばれました。

出版物に登場した「蔦重」の肖像画 wikimedia commons(PD)

プロデューサーの役割も果たす

版元には「プロデューサー」の役割もありました。新人の発掘から始まり、企画・制作・販売までを一貫して手掛けます。作品がヒットするかどうかは、版元次第といってもよいでしょう。

蔦重は人脈があった上にプロデュース能力が高く、才能のある作家や浮世絵師を見出しては大ヒットを飛ばしました。

蔦重が手掛けた有名な浮世絵師には、喜多川歌麿(きたがわうたまろ)や東洲斎写楽(とうしゅうさいしゃらく)などがいます。歌麿は蔦重の幼なじみで、一時期は家に住まわせて面倒を見ていたといわれています。

喜多川歌麿による「寛政三美人」wikimedia commons(PD)

 

東洲斎写楽による役者絵「三代目大谷鬼次(二代目中村仲蔵)の江戸兵衛」 – Metropolitan Museum of Art, wikimedia commons(PD)

蔦重の生涯

大河ドラマで活躍が描かれるほど、蔦重の人生は波乱万丈でした。多くの作家や浮世絵師との出会いがあり、エピソードは尽きません。2025年の大河ドラマに先駆けて、蔦重がどのような一生を歩んできたのかを紹介します。

貸本屋から版元へ

蔦重は、1750(寛延3)年に吉原(現在の東京都台東区千束)で誕生したといわれています。当時、吉原には遊郭があり、多くの遊女たちが暮らしていました。

22歳で小さな貸本屋を開いた蔦重は、24歳の頃に「吉原細見(よしわらさいけん)」の編纂(へんさん)に携わる機会を得ます。吉原細見は遊女の名前や階級が一覧できる案内書で、遊郭の集客を左右する重要な役割を果たしていました。

その後蔦重は貸本屋兼版元として、さまざまなジャンルの書物を手掛けていきます。

山本九左衛門 による『吉原細見』(1739年頃)。後に蔦重が刊行するようになった。wikimedia commons(PD)

田沼時代に事業を拡大

10代将軍・徳川家治(とくがわいえはる)の時代になると、老中の田沼意次(たぬまおきつぐ)によって商業を重視する政策が推し進められました。

江戸には町人を中心とする文化が生まれ、歌舞伎や浮世絵、黄表紙といった娯楽を楽しむ庶民が多くなります。蔦重は吉原から日本橋に移転して耕書堂を開き、順調に事業を拡大させていきました。

蔦重がタッグを組んだのは、黄表紙や洒落本などの作家です。とりわけ朋誠堂喜三二(ほうせいどうきさんじ)や山東京伝(さんとうきょうでん)、恋川春町(こいかわはるまち)の作品は、多くの庶民に受け入れられました。

朋誠堂喜三二の肖像画 wikimedia commons(PD)

 

山東京伝の肖像画 wikimedia commons(PD)

 

寛政の改革で処罰を受ける

田沼意次が失脚すると、松平定信が老中に就任します。当時、不作によって年貢の徴収量が減少し、幕府の財政は危機にひんしていました。

定信は倹約によって支出を減らす「寛政の改革」を打ち出し、財政を立て直そうとします。江戸では風紀を乱すとの理由から、浮世絵や黄表紙などの書物が取り締まりの対象となりました。

蔦重が手掛けた人気作家・山東京伝は、家にいながら手錠をかけられる「手鎖50日の刑」となり、蔦重も財産の半分を没収されます。

新人浮世絵師の発掘と再起

寛政の改革で取り締まりを受けた後、蔦重は新人浮世絵師の発掘とプロデュースにかじを切ります。中でも力を入れたのは、喜多川歌麿と東洲斎写楽でした。

歌麿は蔦重の助言により「婦人相学十躰(ふじんそうがくじってい)」と呼ばれる美人画を描き、人気の浮世絵師になります。写楽は、28枚の役者絵とともに華々しくデビューし、一躍有名になりました。

蔦重は幕府の取り締まりにもめげずに出版を続けましたが、1797(寛政9)年に脚気(かっけ)によって死去します。

▼「寛政の改革」についてはこちら

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蔦重の人物像が分かるエピソード

蔦重は多才で人を見る目があり、商売にも長けていたといわれています。蔦重の人物像が分かるエピソードをいくつか紹介しましょう。

初出版本「一目千本」が大きな話題に

「一目千本(ひとめせんぼん)」は蔦重が最初に出版した本のタイトルで、「一目で千本の花を見渡せる」という意味があります。

ユリやキク、スイセンのなど花が器に生けられた様子が描かれ、一見すると生け花の手本のようですが、よく見ると花の横に名前が記されています。吉原の花魁(おいらん)を花に見立てるという遊び心を、蔦重は発揮したのです。

一流の妓楼(ぎろう)で贈答品として扱われ、一般には販売されませんでしたが、庶民の間では大きな話題になったといわれています。話題が高まる中、蔦重は生け花の絵だけの本を一般向けに販売し、大いに注目を浴びました。

蔦唐丸として狂歌の世界へ

文化人であった蔦重は、「蔦唐丸(つたのからまる)」という名前で狂歌の世界でも活躍しました。狂歌とは、和歌の形式でしゃれやこっけいを読んだものです。

蔦重は「狂歌連」と呼ばれるサロンに出入りし、大田南畝(おおたなんぽ)や恋川春町をはじめとする一流の文化人と交流を深めました。詠まれた狂歌を集めて「狂歌本」として出版し、作画に喜多川歌麿を起用したことでも知られます。

大田南畝の肖像画[谷文晁 – 東京国立博物館]wikimedia commons(PD)

江戸文化を盛り上げた蔦重

蔦重は無名の作家や浮世絵師を見い出してプロデュースし、病に倒れるまで江戸の町人文化の発展に貢献しました。紹介したエピソードからも分かるように、多才で人脈が広く、周囲には常にたくさんの人が集まっていたことがうかがえます。

江戸時代の名作を私たちが楽しめるのも、蔦重のおかげといっても過言ではありません。蔦重の人物像や生きた時代背景、当時活躍した文化人を知っておくと、2025年に放送予定の大河ドラマをより楽しめるでしょう。

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構成・文/HugKum編集部

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