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「信じて待てば、子どもは自分で立てる日が来る」
――SNSに「#不登校スイマー」という特徴的なハッシュタグをつけて活動されていますが、はじめられたきっかけについて教えていただけますか。
砂間さん:ハッシュタグをつけはじめたのは比較的最近で、まだ1年経たないくらいです。僕自身が小学4年生から中学3年生まで学校に行っていなかった経験があるので、同じような境遇の子どもたちや親御さんたちに何かを伝えたい、不登校経験者でもこうやってがんばっている人間がいることを一人でも多くの方に知ってもらいたい、という想いでこのハッシュタグをつけようと考えました。
――ハッシュタグをつけてから、何か変化はありましたか?
砂間さん:やはり分かりやすい言葉なので、お話をしに行った先々でこの件について言及されることが多くなりましたね。実際に不登校のお子さんを持つ親御さんからDMなどでご連絡をいただくこともたくさんあります。ご本人というよりは、親御さんからが多いですね。

――届いた声の中で、特に印象的だったものはありますか。
砂間さん:悩んでいる親御さんから、僕の発信によって「多少楽になった」という言葉をいただいたときですね。僕は親御さんたちに、「信じて待ってくれれば、いつか必ず不登校の子どもたちが自分で立てる日、自立できる日が来るから」と伝えています。そうした言葉に「救われた」という声が届くと、僕自身も本当にうれしいです。
特に、不登校になりはじめの小学生のお子さんを持つ親御さんから、新学期がはじまるタイミングなどでご連絡をいただくことが多いように感じます。
「完璧な自分が崩れてしまった」――6年間の不登校、そのきっかけ
――砂間さんご自身の不登校についてお伺いしたいのですが、期間はどのくらいだったのでしょうか。
砂間さん:僕は小学4年生から中学3年生まで、約6年間不登校でした。不登校は2回経験したと思っていて、1回目は小学4年生のときです。
きっかけは、おそらく風邪か何かで学校を休んだことでした。治ってから登校すると、友達から「なんで休んだの?」と注目されるのが、もともと内気な性格だったので少し苦手で。それに加えて、僕は完璧主義者だったので、少し休んだことで勉強についていけなくなったり、友達との会話の輪に入れなくなったりすることがとても嫌だったんです。それがきっかけで休みがちになり、結局、小学6年生まで行けなくなってしまいました。

――卒業までずっとお休みされていたのですか?
砂間さん:いえ、普段の授業には出られませんでしたが、南極大陸に行った方の講演会のような、特別な準備が要らないイベントごとには時々参加できていました。そういう場では、みんなの注目が僕ではなく講演者に向かうので、気が楽だったのだと思います。とにかく注目されるのが苦手でした。
――中学校入学時は登校したけれど、その後、再び行けなくなったのですね。
砂間さん:はい。中学校で環境も変わったこともあり、最初の1、2週間は通いました。でも、別の小学校から来た子に「小学校、行ってなかったんやろ?」と言われたんです。同じ小学校だった子から話が伝わっていたのだと思います。その子に悪気はなかったのかもしれませんが、その一言で、僕の中で保っていた完璧な自分が崩れてしまったように感じて。それがきっかけで、また行けなくなりました。
「学校のことは聞かれなかった」心を救ったスイミングコーチの存在
――不登校になってから、ご自宅ではどのように過ごされていたのですか。
砂間さん:3歳から続けていたスイミングも不登校がきっかけでやめてしまったので、当時は完全に引きこもりでした。自分の部屋に閉じこもって、親ともほとんど話さない。食事も別でとるような生活でした。ゲームもしていなかったので、本当にただぼーっと過ごしていましたね。
――そこから小学5年生のときに、再びスイミングをはじめられたそうですね。
砂間さん:不登校になってスイミングをやめてしまった後も、コーチが定期的に家に来てくれていたんです。そのコーチは学校に行くようにとは一度も言わず、「暇だろ? ドライブ行こうよ」と外に連れ出してくれました。
学校の話題は一切出なかったので、僕にとってはそのコーチといる時間がとても居心地がよかったんです。1年くらいずっと通ってきてくれて、「この人のためならもう一度戻りたい」と思えるようになりました。

――すばらしいコーチですね! 将来については、何か言っていましたか。
砂間さん:ドライブに連れて行ってくれたとき、行く先々で周りの人に「この子はオリンピックでメダルを取るから、みんな応援してな」と言っていました。当時の僕にはオリンピックが何かもよく分からず、「何言ってるんだろう」くらいにしか思っていませんでしたが(笑)。
コーチは、僕がスイミングをやめていた間も「絶対に戻ってくる」と信じてくれていました。言葉ではなく行動で示してくれたことが、僕の中では本当に大きかったなと思います。
完璧主義がプラスに働いた競泳の世界
――スイミングを再開されてからは、いかがでしたか。
砂間さん:競泳の世界に関しては、僕の完璧主義がいい方向に働いたと思います。復帰した小学6年生くらいから大会で優勝しはじめて、同年代の子には負けることがほとんどありませんでした。僕の中ではそれが「100点」だったので、続けられたのだと思います。
練習環境に年上の中高生が多かったので、「この人たちにも負けたくない」という気持ちで練習していました。もちろん勝てませんでしたが、その負けず嫌いな気持ちがあったからこそ、自然と同い年には負けない力がついたのかなと思います。

――100点主義がプラスに働いたのですね。幼少期から泳ぐことはお好きだったのですか?
砂間さん:父がアウトドア好きで、僕も小さい頃から川遊びなどをしていたらしく、水が好きならと3歳からスイミングスクールに通わせてもらいました。幼稚園の年長か小学1年生の頃には選手コースに上がって、小学2年生で全国大会に出場できたので、水泳のセンスはあったのかもしれません。
「言葉はなくても伝わる」信じて待ってくれた家族の想い
――不登校になった当初、ご両親はどのような反応でしたか?
砂間さん:姉は普通に学校へ行っていたので、親にとっても初めての経験だったと思います。最初だけ無理やり連れて行こうとしたり、同じマンションの友達に迎えに来てもらったりもしました。でも、数回やっても僕が行かなかったので、それ以降は何も言わなくなりました。早い段階で、いい意味で諦めてくれたことにはすごく助けられましたね。
両親との日常会話で、学校の話題が出たことも、一度もありませんでした。姉からは「学校行けよ」と言われることもありましたが、両親がその話題に触れなかったのは本当にありがたかったです。

――不登校のお子さんを持つ親御さんの中には、「お出かけはできるのに、なぜ学校には行けないの?」と悩む方もいらっしゃいます。
砂間さん:僕もそうでしたが、周りからどう見られているかを気にする子は多いと思います。だからこそ、親御さんにはあまり気にせず、のんびりと待っていてほしいです。言葉で言わなくても、信じてくれているという行動は子どもたちに伝わると思います。
――お母様とのエピソードで、特に心に残っていることはありますか。
砂間さん:中学校の3年間、学校へは行けませんでしたが、母は毎日お弁当を作って待っていてくれました。いつでも行けるように、と。結局、そのお弁当は家で食べるのですが、食べるたびに「今日も行けなくてごめんな」と思いながら食べていましたね。言葉には出しませんでしたが、母の想いはちゃんと受け取っていました。
それがプレッシャーになることはなく、むしろ、そうやって信じて待ってくれていたからこそ、今の自分があると思っています。
メダルの先に描く未来「不登校の子たちが楽になれる活動を」
――高校に進学してからは、生活に変化はありましたか。
砂間さん:スポーツクラスだったので、周りには勉強が苦手な子もたくさんいました。テストで赤点を取ったことなどを隠さずに話している仲間たちを見て、「人間って、かっこいい部分だけじゃなくて、ダサい部分も出していいんだ」と思えるようになりました。そこから、完璧主義者ではなくなりましたね。いい意味で肩の力が抜けました。
――最後に、今後の目標についてお聞かせください。
砂間さん:まずは選手として、来年のアジア大会、そしてその先のロス五輪でメダルを獲得したいです。結果を出すことで少しでも多くの人に僕の名前を知ってもらい、発信力をつけたいと思っています。

そして、僕の経験が、不登校で悩んでいる子どもたちや親御さんにとって、何か変わるきっかけになってくれたらうれしいです。将来的には、講演活動や、フリースクールのような子どもたちが楽になれる居場所を作る活動もしていきたいと考えています。
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お話しを伺ったのは
1995年生まれ。奈良県出身。株式会社エントリー所属。天理高、中央大卒。2018年、アジア大会200メートル背泳ぎで銅メダルを獲得。19年世界水泳日本代表。21年東京五輪では、200メートル背泳ぎで準決勝に進んだ。
文・構成/HugKum編集部 撮影/小倉雄一郎