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先生の指示が聞けない。だからいやになって学校に行きたくない
――田中さんは小2から不登校だったそうですね。
田中さん 小さい頃から大勢で何かするのが苦手だったんです。好きにやっている分にはいいんだけれど、学校の集団作業も勉強も好きじゃなくて。長いこと椅子にすわっていることができなくて、立ち歩いてしまったり。
先生の指示が聞けなかったんですよね。小学校になると「明日この持ち物を持ってきなさい」とか「次はこの教室に移動しましょう」とか、要求されることが多いじゃないですか。指示通りに動くのがちょっといやだというのもあるけれど、それ以前に僕は耳の具合があまりよくなくて、先生の指示がよく理解できないんです。しょうがないから隣の子のマネをすることもあるし、指示があっても上の空で別のことを考えてしまったり。
感覚過敏があって音も光も苦手とかそういうのがどんどん積み重なってひどくなって、「もう行きたくない、行けない」ってなったような気がします。

田中さん 1年生のときはいかにサボるかを考えていました。明日具合が悪くならないかなっていつも思っていて。それで、朝になると「具合が悪い」って言って登校時間を引き延ばして、昼くらいになって、やっぱり「行きたくない」って言い張る。
とにかく毎日がキツかったです。授業についてはどんなことを習ったか記憶もないです。楽しくないから覚えてなかったんだと思います。
小学校時代はSNSやネット掲示板、ゲームを1日じゅうやっていた
田中さん 東大に行ったというと、「小さい頃から勉強ができたんでしょ」って思われるけれど、僕の場合はぜんぜん違います。授業も聞けないからよくわからないし。1年生の間だけ何とかちゃんと通って、その後は歯が痛いとか頭が痛いとか言って休むようになりました。うちは5つ違いの姉が小学校3、4年生から不登校だったので、親は「弟もか」って理解は早かったです。
――お姉さんも不登校なら、あまり肩身の狭い思いはしなかったですよね。
田中さん でも、昼間ちょっと外に出ると、近所の人とかに「学校どうしたの?」とか聞かれてしまうのがすごくいやで。だから、ずっと家にいました。姉も家にいるのでお互いイライラしてけんかが絶えないし。いろいろとバツが悪くて、家の中でカーテンを全部閉めて引きこもっていました。今はすっかり姉とは仲良しですけど。

田中さん 母親はほとんど何も言わなかったですね。父親は「ずっと家にいたらよくない」と外に出そうとして、毎週末自転車で走るとか、運動の機会を作ろうとしていました。当時は無理やり連れて行かれていやだったけれど、「外に出たらアイスを食べよう」とか、そういう小さなごほうびのような「釣り」があって何とか出かけていました。ちなみに姉はその後、通信制の高校に行って、友達もできてそのまま大学にも行きました。
――学校に行かずに家では何をしていたのですか?
田中さん 家では1日じゅうパソコンを開いてYouTube、ネット掲示板、ゲームです。小2から中1くらいまでずっとです。定期的に学校の先生が家に様子を見に来ましたね。それと、2週間に1度放課後に小学校に行くのが義務みたいになっていて、それがめちゃくちゃいやだった。同級生に会うのがいやなんです。みんな気を遣って、僕を見かけても「どうしてるの」とも聞かないし。かといって聞かれるのもいやですけどね……。
それで家に帰ると激しいきょうだいげんかが始まったりもして、姉が過呼吸起こして病院に行ったりと……、親は大変でした。よく「毒親」とか言うけれど、子どもが変わっていると、親も苦しいし、しからないとおさまらないしで。親が悪いなんてことはないと、僕は思います。途中で僕はADHD(注意欠陥多動症)と診断されました。だからって安心するとかそういうのでもないですけれど、病気だからしょうがない、みたいなあきらめが、自分も家族もつきましたね。
「みんながふつうにできることができない」自分に強い劣等感を
――学校に行かないことは、よくないことだと思っていましたか?
田中さん 小ざかしい子どもだったのでいろいろ調べて、学校に行かない子がほかにもたくさんいることはわかっていました。「学校の授業は効率がよくない」みたいな変な論理武装もしたりして。ただ、大多数の子が学校に行くのになぜ自分は行けないのだ、という劣等感をずっと感じていました。

田中さん 「行かなくていいじゃん」って開き直ることはできなかったです。みんながしていることをしていないのはキツイ。「人と違っていいじゃないか、それも個性」と言われても、すごい才能があるわけじゃない。いわゆる「ギフテッド(ある分野で特別な技能を持っている人)」みたいな人とはぜんぜん違うのは、自分でもよくわかっていました。そして、周囲の人たちは黙っているけれど、僕に「学校に行ってほしい」と思っている。「学校に行くことが、いい方向に行くことなんだ」って思われていることに傷つく、というか。
苦しい、だいぶ苦しかったです。自分を肯定する人がまわりにいない状況がしんどかった。 そして、学校に行かない自分に焦燥感を覚えていました。
小学校時代はフリースクールや適応指導教室、中学では特別支援級
――フリースクールなど、学校以外の場所で勉強をするようなことは?
田中さん 小学校のときはフリースクールとか適応指導教室(公的なフリースクールのような施設)に行きました。進学を考えると最低限の勉強はしないといけないなと、子ども心に思っていましたから。それで、行ってみると、勉強とか人に接することは学校じゃないところでもできるんだな、って思いました。
まあ、普通級のような勉強はしなくて、ゆるゆるです。そんな勉強だったのにあんまりしなくて怒られてましたけれど。でも、楽しかったです。理解がある先生が多くて頭ごなしに勉強しろ、みたいに言わなかったです。適応指導教室の先生はすごく自分のことをわかってくれて。頭がガチガチの大人はいなかったですね。

――中学では特別支援級に行っていたのですよね?
田中さん 最初は「相談室登校」っていうのをやっていました。クラスに行かずに直接相談室に行くんですが、興味津々で見に来る子がいたりして、すごくいやでした。その後中2の終わりくらいに「自閉症・情緒障害特別支援学級(情緒学級)」ができて、中3まではそっちに行くことになったんです。
僕以外にも3人くらい生徒がいて、普通の授業とは違うアクティビティみたいなことをやっていました。楽しくはなかったです。畑を耕すとか、コミュニケーションの練習をしようとか、朝起きるってどういういいことがあるかとか、「『正解』に誘導される」ような感じで。
塾に行き始めたら、学校の定期テストで学年2位に
――田中さんにとって転機は……。
田中さん 塾に行ったことです。姉が通っていた通信生の高校の先生がやっている塾に、小6から通うことになったんです。あまりにも勉強が遅れて、親が心配したんですよね。
これが楽しかったんです。先生たちがすごくいい人たちだったし、教え方がうまかった。こっちの特性をわかった上で、飽きないように、すわっていられるように教えてくれて。そうしたら、授業がわかるようになって、自分でも「学力が伸びている」実感を得られるようになったんです。初めての体験でした。
中1から中2までは学校の定期テストは相談室で受けていたんですけれど、塾に通うようになってからテストの点数もどんどんよくなっていって、中1の最後の期末テストでは学年2位になったんです。
――すごいですね!
田中さん 勉強に劣等感を感じていた自分も、さすがに「自分すごいかも!」と思いました。今まで何か「できる」ことを経験したことがなかったけれど、勉強したらこんなに伸びるんだって。
小学校の低学年の頃、父に「一番いい大学ってどこなの?」って聞いたら「東大だよ」って言われたのを思い出して、「オレ、東大行こうかな、一番目指そうかな、行けるかな2番だし」って思うようになったんです。
ほかになんにもなかった。ずっとずっと最低のところにいた自分を何かで逆転しないとって思いながらやってきて、ようやく「これを得意にできるか?」って思えたから。東大に合格して一発逆転狙おう、狙うしかない! そんな切実な思いで、勉強に向かうようになったんです。
――幼い頃から学校に行けず、「みんなが当たり前にできることができない」自分にいらつきと劣等感を抱いていた田中さん。そんな自分を変える手段が「東大に合格する」ことだったんですね。後編ではその後どんな苦労をして東大に合格したか、そして入学後はどんな思いを抱いたかを伺います。
高校で通信制高校を選択、東大合格~現在のお話を伺いました
お話を聞いたのは
小学校2年から中3まで不登校。通信制高校に通いながら受験部強をし、一浪して東京大学文科三類に合格。東京大学文学部倫理学専修に在籍し、同大学情報学環教育部のプログラムにも参加。
X:@Seren_kjerke923
Instagram:@akkque0923
mail:kamekameahaha@gmail.com
取材・文/三輪泉