突然「妻のがん」が判明、3人の子どもを残して12日後に亡くなった…。45歳・会社社長が仕事を辞めて「育児と家事に専念」した理由〈前編〉

大手清掃会社加盟店の社長としてバリバリ働いていたさなか、3人の子どもを残して妻が亡くなった……。それまで家事も育児もほとんどノータッチだった木本努さんは、右往左往しながら母親代わりを務め、そしてやがて「主夫」になっていきました。一筋縄でいかないその物語を、子どもたちが成長した今、語ります。物語前編は、妻のフミコさんが亡くなった直後から始まります。

がんを宣告されて「わずか12日」で妻が亡くなった

――奥様が亡くなられた2009年当時、木本さんはダスキン加盟店の社長をされていたのですね。お忙しかったですか?

木本さん社長になって2年目、それもオーナーとの血縁もなく42歳という若さで社長になったので、グループ内でも注目されていました。店舗は京都のダスキンの加盟店において中核をなす存在でした。私は昭和の生まれですし、「働けば働くほど家族が恩恵を受ける」と思い込んでいた「企業戦士」でした。家のことは妻のフミコに任せっぱなしでしたね。

妻は3人の子どもを育てながらも、風邪もあまりひかないし病院にも行かない「鉄人」みたいな人でした。ただ、2008年の夏前にせきをしていました。それでも、夏休みには子どもたちを連れてバーベキューや海水浴にも行ったし、やせることもなくて。

しかしその後も漢方薬を処方する病院に通っていましたが、せきは止まりませんでした。ママチャリの前に三男、後ろに次男を乗せ、次男の通う幼稚園に送るのが常でしたが、2009年1月10日、私が帰宅すると「自転車がこげなくなった」と言うのです。びっくりして「検査入院をして」と言ったのですが、「子どもの幼稚園、学校、あなたの仕事もあるので無理」と言われました。「優先すべきは何?」と私が言うと、ようやく検査のために病院に出向きました。1月末に再診に行くと緊急入院になりました。胃がんが肺に転移していたのです。そしてすでに手術ができない状態だ、と。

主治医に「あと何年生きられますか?」と聞いたら、「数か月」と言われました。しかし、そこからどんどん悪くなって、12日後に亡くなってしまったのです。45歳でした。

幼い3人の子育てと「やったことのない家事」が降ってきた

――当時3人のお子さんは11歳、6歳、2歳だったのですよね。急に奥様が亡くなられ、お仕事も忙しく、どうやって日々を回していったのですか?

フミコさんが亡くなって間もない2009年当時の3兄弟

木本さん近くの妻の実家にかなりお世話になりました。また、会社のオーナーファミリーにも子どもたちの面倒をみていただき本当にお世話になりました。うちの実家も少し離れているのですが、月に2回ほどでかけて世話になりました。

それでも、目が回るほどの忙しさでした。朝は私と子ども3人で妻の実家に行って、長男、次男は朝ごはんを食べさせてもらい、ふたりはそこから幼稚園、学校へ。私と三男は会社に。朝礼中に三男はオーナーの奥様に朝食を食べさせてもらい、朝礼が終わると乳児保育所に送っていく。夕方は三男を迎えに行き、オーナーの自宅か妻の実家で面倒をみてもらっていました。子どもたちが全員家に集合するのは20:00ごろでした。家に戻ると家事と育児が待っています。

当初、家事はまるでできませんでした。洗濯機を回したことがなかった。料理もたとえ少しできても、「作ったそばから片付ける」ような作り方ができないから、妻に「キッチンに立たんといて」と言われていて、料理もろくにできない。掃除はダスキンにいたので少しはできましたが。

もっと困ったのは、子どもたちの学校のことと幼稚園のことでした。長男が少年野球のチームに入っていて、夫婦で関わっていたからそのつながりはありましたが、学校や幼稚園がどういう仕組みやルールになっているかわからない。持たせるものもよくわかりませんでした。「子どもは好きやから子育てできる」と思っていましたが、大間違いでした。

家事や育児のほか学校や乳児保育所からの呼び出し、「社長業ができない」

――いきなり3人の子育てと家事が降ってきて完璧にやるのは、無理ですよね。

木本さん:いちばん困ったのは「仕事」でした。これまでは、誰よりも早く会社に行って、朝誰もいない部屋で集中して仕事をしていました。子どもがいると、それができません。1日でやりきれなかった仕事は夜、家に持って帰っていたのですが、家事や育児に追われてそれどころではありません。

そして、いちばん下は最初は乳児保育所、3歳で保育園に通うようになったのですが、体温が37.3度で預け1時間後に37.5度になり「迎えに来てください」ですし、小学校に行っているふたりも、学校から「けがをしました」なんて電話がかかってくる。今まであったリズムが全部くずれました。

次男の雄祐くんと三男の孝太くん。木本さんが仕事中に学校や保育園から電話がかかってくるとヒヤヒヤ……

――木本さんのお話を伺っていると、働くの日常そのものですね。子どもがいると、仕事は常に中断され延期されるリスクがありますし、イレギュラー対応が求められます。

そうですね、働く親御さんたちはみなさんこうやって苦労されているのでしょうね。パートナーがいれば少しは助けてくれますかね。でも僕の場合は周囲の人は助けてくれたけれど、パートナーがいない。片翼エンジンで飛んでいる飛行機のようなものです。それも、飛んでいて急に片翼になった。妻が亡くなった余韻に浸ったり、存分に泣いたりする暇もありませんでした。

家事に慣れてくると「時短」がモチベーションになった

木本さんただ、しばらくするとだんだん時短ができるようになりました。家事が終わらなくて夜中の1時半まで寝られなかったのが1時に寝られるようになり、12時半になり……。家事や育児が何とか身に付いたら「子どもは自分で育てよう」という気持ちになりました。そんな矢先のことでした。妻の実家で不幸があり、これまで頼りにしていたサポートが一切受けられなくなったのです。おのずと、その日から私の「完全ワンオペ育児」が始まりました。

その後もだんだん上達して、朝ごはんにしても少年野球のお弁当にしても、1年目は寝坊したら「できひん」って思ってましたが、3年目になるとちょっと寝坊しても間に合うようになりました。

ある日の夕食。バランスのよい食事を心がけ、お弁当も含めて毎食手作りした

子育ては、マルチタスクですよね。3人の子どもに同時に「おとうさん」って言われて対応するのですから。仕事の上でこんなことはあまりなかった。だから家事と子育てをすることで柔軟性が出ました。

妻が亡くなって4年8か月後、社長を辞めて「専業主夫に」と決意

――家事も育児も慣れてこられましたが、フミコさんが亡くなられて4年8か月後に社長業を退職されました。それはなぜですか?

木本さんまず、仕事人として「無理やな」と思ったんです。朝8時半に出勤して、18時に家に帰ってフライパン振っている社長……。まだまだ会社に残っている社員がたくさんいるのに、です。その頃は「定時で帰る」はまだまだ世の中に浸透していませんでした。

――木本さんは社長さん時代、年収800万円くらいあったのですよね。家事代行やシッターさんを頼むこともできたのでは?

木本さんそれね、よく人に言われました。でも、そこじゃないんです。いちばん下の孝太が小学校に入学をして夏休み前だったと思います、私の膝の上に乗るんです。「寂しいのかな?」と思いました。学童の先生に確認すると最近よく膝に乗ってくると言われ先生も「寂しいんだろうな」と思っておられたようです。

上のふたりももちろん寂しいけれど、母親にかわいがられた記憶やぬくもりがある。それに、小学生になると学校の友達が心を癒してくれる部分があります。でも、孝太はフミコが亡くなったときに小さすぎて母親の記憶がないんです。その寂しさの持って行き場がないのだろう、と。寂しさを少しでも軽くするのは家族の役目だろうと思ったのです。

子育てってなんだろうと考えました。子どもをかわいがって育て、社会に通用するように育てて社会に出すことですよね。仕事上で、新人と仕事をすることもあるのですが、新人に重要な10項目のうち、7項目くらいは家で教えることなんじゃないかと。「きちんとあいさつする」「ありがとう、ごめんが素直に言える」「相手の目を見て話す」など。

そのへんは少年野球でもやってもらっていたけれど、自分でも育てなあかんと思いました。新人を見ていて、「なんで人の目を見て話さないんだ」と思うことがあります。「子育ては大事なんや、それが人としてのベースになるんや」と。子どもの姿を見て、社会人を見て、よけいに思いました。

自分に対する「グリーフケア」のためにも仕事を休もう

木本さんそして、もうひとつ。フミコがいない状況に、自分がどうしても慣れなかった。時がたてば以前の自分に戻れるだろうと思っていたけれど、戻れなかった。1年たっても2年たっても心と体が一緒じゃない。

実は、フミコが亡くなって半年目にメンタルクリニックに行ったんです。そしたら「病んでます」って言われました。

「木本さん、泣いてないでしょう。男性はパートナーを亡くしたら泣けない人が多いんです。木本さんみたいに子どもが3人もいて目の前にやることがたくさんあったら、ますます泣けない。でも、思い出して泣いてください。それを『グリーフケア』(死別を経験した人への社会的・心理的支援)といいます。自分で自分をグリーフケアしてください。泣くことが一番の気持ちの表出です。人前や子どものいる家で泣けないと思ったら、山に行ってでも泣いてください」と。それと「仕事のしすぎです」とも言われました。

心の底から泣けなかったですね。私が泣いていないから、子どもたちも私の前では泣いていなかった。友達に相談をして、妻が亡くなった2週間後からブログを毎日書きました。「公開しないで、自分をよく知っている人だけに読んでもらうくらいにしておいて、とにかく自分の心のうちを文字にすることで、自分をグリーフケアすることができる」と。言われて書き始めているうちに、気持ちの整理ができるんですね。以後は自分の気持ちを「書く」ことの重要さを感じて、いつか本を出したいと思うようになりました。

そんないろいろなことが重なって、社長をやめて1年間「専業主夫」になろうと思ったんです。貯金も少しはあったし、何とかなるだろうと。

――お子さんが高校1年、小学校5年、小学校1年のときに退職して1年間「専業主夫」に。木本努さんは50歳目前でした。新しい旅立ちです。後編では、その後の生活のことを伝えていただきます。

高校生でピアス、彼女が家に泊まる…シングルファーザーが社長を辞め「専業主夫」に。思春期の息子3人を育て上げ今思う「子育ては人としてのキャリアアップ」〈後編〉
仕事辞めようか…友人は全員反対、しかしママ友は賛成だった ――妻のフミコさんが亡くなられた2009年2月から4年8か月後の2013年...

お話を聞いたのは

木本 努 講演家

1963年生まれ。1985年ダスキン加盟店入社。2006年より代表取締役を務める。人生の転機は20092月。妻へのがん宣告からわずか12日後、幼い三人の子ども(11歳・6歳・2歳)を遺し、最愛の妻が天国へ。経営者として働きながら家事・育児に奔走するが、2013年に退職を決意。1年間の専業主夫を経験した後、2014年に「NPO法人京都いえのこと勉強会」を立ち上げ、父子家庭支援に尽力する。現在は株式会社Tn取締役を務める傍ら、上智大学グリーフケア研究所非常勤講師として自身の体験を伝えている。著書に『シングル父さん子育て奮闘記』(2019年、ベスト・ファーザー賞in関西受賞)。202511月、続編『悲しみと共に歩いた先に見えた光』を出版(ともにぱるす出版刊)。

木本努 ぱるす出版 1,650円(税込)

妻45歳、幼き子ども3人を残して逝く! 
育児、子育て、料理・洗濯・掃除〜男の闘いが始まった。
あれから16年、子どもたちが次々巣立っていく〜闘いは終わりを迎えつつある。
父子家庭の現実を赤裸々に綴った感動の書。
『シングル父さん子育て奮闘記』の続編

取材・文/三輪泉

編集部おすすめ

関連記事