子どもたちにいい絵本を、なんて思っていたら描けない
五味太郎さん(以下敬称略)
俺は一応50年絵本を描いているんだけど、何か知らないけど楽しい世界がそこにはあって、いい空気感を持っている。初めの頃、その楽しい世界のまま世に出したら「この本は何のためにお描きになったんですか?」「子どもたちに何を伝えようとしているんですか?」と聞かれたんだよね。
好きで相撲とっていたら急に大相撲の世界に入っていたみたいな感じに近いかな。子どものための”子どもの文化“というような大きなものががっちり出来上がっていて、その中に俺は何も知らないままポッと入ってしまったという図式になっていたんだよね。もし「子どもたちのために本を描く」が前提にあったのなら、俺は絵本を描かなかったと思う。
とても描けない。
子どもたちのために良い絵本って、もう描くのが止まっちゃうよね。でも、そういう前提はなく描いた俺の本は売れているわけだよ。どうして人気があるのか考えてみたら、おそらく子どものためとか考えてないで楽しく作っただけだというズレみたいな部分が新鮮だったんだろうなと思ったの。
社会が子どものためにって言うこと、だいたい嘘でしょう。運動会や遠足などは強制みたいなものにもなり得るし、結局子どものためじゃないということも実は多いよね。ということは俺がズレていたことが逆証明されてきて、それなら少し頑張ってみようかなと思ったんだ。

武田砂鉄さん(以下敬称略)
絵本を描くようになってから、自分の子ども時代や学校などを振り返ったときに、気づいたってことですか?
五味 そう。絵本作家になってから、子どもと大人の関係というものを洗い直さなきゃいけない状況に陥ったってわけ。じゃあ本気でやってやろうかなと思って、50年。
50年やっていると、ある程度大物になるじゃない。大物にならざるを得ない。だって俺80歳だよ(笑)
武田 大物をやっていると、その大物を求めて、学校関係の人が「五味さん話を聞かせてくださいよ」ということになりますよね。 でも五味さんはおそらく「俺は別に『学校を批判』したいわけじゃないからさ」と言うと思うんですけど、そうは言っても大物であるがゆえに、自分がしゃべることが批判というか、ど真ん中の意見のようになってしまう感覚はないですか?
五味 俺はそういうしゃべり方をしないからね。そういうときは、かなり慎重だよね。俺個人の話だという前提を絶対につけます。 これは全く個人の意見で、風土や歴史が言っているわけでも、何かを代表してしゃべっているわけでも全くないことをまず前提に伝えるから。そういう部分には神経は使うけれど、絵本を描くということに限っては、俺は全く神経を使わないね。本当に全く。神経を使い始めたらあまりいい作品が描けない。だからたまに神経を使いたいなというときに、そういうインタビューを受けるのはいいよね。
武田 絵を描くとき、神経を一切使わないんですか?
五味 使わない。うーん、ちょっと違うな。神経を使わない状態にするために神経を使っているというのかな。何も考えないような状態。それには絵を描くということを仕事化するのではなく、生活化すればいい。俺は絵本を描く生活をしているの。キザに言っているんだけど(笑)、でも本音なんだよ。だから例えば外国を2週間とか旅行していると、生活をしていないことになるのできつい。早く家に帰って生活したくて。帰ってきて、絵本を描く生活をしているときがいちばん穏やかなの。

子どもはみんな大物
武田 我々のような小物の生活というのは、面倒くさいことがたくさんあって、なんかいやだな、あれいやだな、これいやだなみたいなことの積み重ねが生活だという感覚もあるのですが、大物の生活というものにはそれはないんですか?
五味 俺が会うガキどもがいるでしょう、 俺のファンなんだけど。これみんな大物だよ。子どもってみんな大物なんだよね。それを見逃すのは、多分大人が小物だからだね。 子どもってすごいよ。何が大物かというと、今砂鉄が言っていたように生活に神経使ったりしていないところ。ただ生活をしているんです。そんなあいつらを集めて教育しようなんて、愚か者のすることだよ。大物集めて教室の中でまとめようって、それは無理なんですよね。砂鉄が大物だった子どもの頃は?
武田 僕は子どもの頃、読書感想文というものに対する抵抗感がすごくありました。さっきの話につながるかもしれませんが、こういう感じで書いておけば先生から丸をもらえるだろうというものを、更にどうひっくり返すか、小学校の頃からすごく考えていましたね。
丸をもらう文章を、こうすれば丸もらえるんだろうと思いながら書いていました。 それで文章を書くのが好きになったとも言えます。こういう感じで書けばいいんだろうということがわかってきてから、だったらこういう感じじゃなくしてもいいんだろうみたいなことも頭に出てきたという感じですよね。それは僕の原点といえば、原点。今もやっていることは変わらないですね。

五味 読書感想文でこういう風に書いたら丸がもらえるなというようなことを、どうやって確認したの?
武田 読書感想文を書くと先生が講評してくれるじゃないですか。 それを見て、この人はこういうものを求めているんだと思って、次に書くときに、こう書いたらきっとあの先生はこういう風に講評を書いてくれるだろうと思って書く。それで本当にその通りのことが書いてあると、しめしめって思っていました。
五味 そういうテクニックがあったわけね。そして、言葉が違うかもだけど、大人をナメていたわけよね。
武田 ナメていましたね。今でもナメているかもしれないです。
五味 それが砂鉄の人気の秘密かもね。 例えば、少しつまんない話だけど、今の政治ってあるじゃない。ああいうものに対してもそう見えるよね。

武田 火をつけるとか、みんなで一緒になって倒しに行こうとか、いろいろなやり方がありますけど、僕は足を引っ掛けたい、尻尾引っ張りたい、転げさせたりつまずかせたりしたい、という気持ちがすごく強いんですよね。 揚げ足を取りたいという感じですね。揚げ足を取るという言葉は、今は結構悪い意味合いになっていますが、慎重にやれば、非常に大事なアプローチだと僕は思ってはいるんです。揚げ足を取るということは、言葉を変えれば批評する、批判するという意味も含まれますよね。
五味 子どもの頃に読書感想文書いたとき、大人は操ることができると思って、今はどう?
武田 操れると思っているかはわからないにしても、操られてたまるか、とは思っていますね。
***

子どもはみんな大物。それに気づけず見逃すのは、大人が小物だから。そういった話から、「感じ良い」と「感じ悪い」、「責任者」、「リベラルの限界」、「世界の平和」、「いい人でありたいということ」「表現者の運命」など話題は次々と移っていきました。最後はまた子どもと大人についての話と五味太郎さんの著書「そういうことなんだ」の話に。
日々の中で感じる違和感と、それに対する自分自身の見解や感想。そんな自問自答を軽やかに楽しみながら、「こういうものだ」と当たり前のように語られていることを、そのまま受け取らない二人。話題は次々と移りつつも、そこにはいつも自分の感覚で、自分のリズムで、自分なりの「そういうことなんだ」を見つけていく姿がありました。
そんな二人の対談を聞いていると自分自身もいつのまにか「こうあるべき」と決めつけたり、とらわれたりしているのではないか、と考えが巡ります。当たり前だと思っていたことをほんの少し違う角度から眺めてみる。そんなきっかけとなる対談だったように思います。
1997年に刊行された『そういうことなんだ』が少しの加筆訂正をほどこし、29年ぶりに祖父江慎のアートディレクションによって現代の空気をまとった新装版に。『そういうことなんだ』に綴られた52の事柄は、長い年月を経ても五味さんの中でほとんど変化がなかったといいます。
対談を聞いたあとに本を開くと、五味さんの言葉がまた少し違って見えてくるかもしれません。対談とあわせて『そういうことなんだ』を読みながら、ぜひ自分なりの「そういうことなんだ」も見つけてみてください。
こちらの対談のアーカイブは、10月29日まで配信中です。
1945年東京都生まれ。工業デザインの世界から絵本を中心とした創作活動に入る。1973年以来、400タイトルを超える作品を発表し、海外でも30か国以上で翻訳出版されている。代表作に『きんぎょがにげた』『みんなうんち』『言葉図鑑』『ことわざ絵本』『らくがき絵本』、エッセイ『大人問題』『ときどきの少年』『6Bの鉛筆で書く』など。
フリーライター、ラジオパーソナリティー。1982年、東京都生まれ。河出書房新社の編集者として勤務したのちに現職。2015年、初の著作『紋切型社会』(朝日出版社)で第25回Bunkamuraドゥマゴ文学賞などを受賞。その他『マチズモを削り取れ』(集英社)、『テレビ磁石』(光文社)、『「いきり」の構造』(朝日新聞出版)など著書多数。最新刊『そんな気がする』(筑摩書房)が発売中。
なんとなく複雑で、なんだか難しく見えるこの世界。けれど、複雑にしているのも、難しくしているのも、人間のやること。その”やること”をすこしすっきりさせれば、世界だってすこしすっきり見えてくる――そんな五味太郎の視点で綴られた52のエッセイ。
文/柿本真希
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