西南戦争は、なぜ起きた? 西郷隆盛が明治政府に反旗を翻した理由とは【親子で歴史を学ぶ】

西南戦争は明治時代の初期に起こった内戦です。江戸幕府を倒し、新しい国家を作り上げている最中に、なぜ日本人同士が武力で争うことになったのでしょうか。西南戦争の背景や経過を学び、当時の社会情勢の理解に役立てましょう。
<上画像:西南戦争戦没者慰霊の碑。西南戦争で戦死した官軍6,923名、薩軍7,186名、殉難者29名の名前が刻まれている(田原坂公園:熊本県鹿本郡植木町豊岡)>

西南戦争とは、どんな出来事?

「西南戦争(せいなんせんそう)」について習った記憶はあっても、詳しい内容を覚えている人は少ないかもしれません。どのような出来事だったのか、具体的に紹介します。

鹿児島の士族が起こした大規模な反乱

西南戦争は、1877(明治10)年に鹿児島(旧薩摩藩)の士族が、明治政府に対して起こした、大規模な反乱です。「明治維新」の重要人物でもある西郷隆盛(さいごうたかもり)がリーダーとなり、九州を舞台に政府軍と激戦を繰り広げました。

士族(しぞく)とは、江戸時代に武士だった人のことです。鹿児島の士族は、すなわち元薩摩藩士と考えてよいでしょう。明治政府は徴兵制(ちょうへいせい)によって組織したばかりの軍隊を派遣して、反乱を鎮圧します。

政府にとっては初の本格的な軍事行動であり、薩摩の武士にとっては最後の戦(いくさ)となりました。

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西南戦争が起こった背景

明治政府は、近代化を急ぐあまり、さまざまな政策を強行しました。そのため反発する人々も多く、ついに大規模な内戦にまで発展してしまったのです。西南戦争が起こった背景を見ていきましょう。

士族の不満が蓄積

士族が反乱を企てるほど政府に反発した理由は、「徴兵制の開始」「廃刀令(はいとうれい)」「秩禄(ちつろく)処分」などの政策にあります。

武士はそもそも、戦うことが仕事です。刀を持てるのは武士だけに許された特権で、刀は武士の魂と考えられていました。しかし徴兵制と廃刀令により、士族の出る幕はなくなってしまいます。

秩禄処分は、「廃藩置県(はいはんちけん)」後に、藩に代わって政府が士族に支給していた俸禄(給与のこと)を打ち切る政策です。俸禄のほかに収入の当てのない士族たちは、秩禄処分によって経済的にも追い詰められていきます。

明治六年の政変

士族の不満が高まりつつあった1873(明治6)年、明治政府内でも大きな事件が起こります。

当時、政府の要職にいた西郷隆盛は「征韓論(せいかんろん)」を唱えていました。征韓論とは、鎖国(さこく)状態の朝鮮に対して、武力で開国を迫る考えのことです。

西郷には、政府に不満を持つ士族の目を外に向けさせる狙いがあったようですが、大久保利通(おおくぼとしみち)らに反対され、朝鮮出兵の話はなくなります。西郷をはじめとする征韓論派は憤慨して政府を去り、故郷に戻って、士族の反乱や反政府運動を主導しました。

1874(明治7)年には、佐賀県で初の士族による反乱が起こります。以降、西日本を中心に、士族の反乱が相次ぐようになりました。

鹿児島の士族たちも例外ではなく、西郷の帰郷を歓迎します。西郷自身は、反乱を起こす気はなかったようですが、士族の不満を抑えきれず、開戦を決意するに至ったのです。

モニュメント「西郷隆盛 愛好の湯」(鹿児島県薩摩川内市)。西郷隆盛が、愛犬ツンを連れて狩りの途中でよく立ち寄った「川内高城(せんだいたき)温泉」に造られていて、西郷さんの鹿児島での人気ぶりがうかがえる。川内高城温泉は、鎌倉時代の書物にも記される鹿児島県最古の温泉。
モニュメント「西郷隆盛 愛好の湯」(鹿児島県薩摩川内市)。西郷隆盛が、愛犬ツンを連れて狩りの途中でよく立ち寄った「川内高城(せんだいたき)温泉」に造られていて、西郷さんの鹿児島での人気ぶりがうかがえる。川内高城温泉は、鎌倉時代の書物にも記される鹿児島県最古の温泉。

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西南戦争の経過

西南戦争は、士族の反乱の中でも、もっとも大規模で激しい戦いでした。各地の反乱を、ことごとく鎮圧してきた政府軍も、序盤は苦戦を強いられます。開戦から鎮圧までの経過を見ていきましょう。

西南戦争の激戦地となった田原坂・三の坂(田原坂公園:熊本市北区植木町豊岡)。熊本城の救援に駆けつけた政府軍と西郷隆盛率いる薩軍が、17日間におよぶ激戦を繰り広げた。
西南戦争の激戦地となった田原坂・三の坂(田原坂公園:熊本市北区植木町豊岡)。熊本城の救援に駆けつけた政府軍と西郷隆盛率いる薩軍が、17日間におよぶ激戦を繰り広げた。

西郷隆盛が開戦を決意

鹿児島士族の反政府思想に危機感を覚えた西郷は、「私学校(しがっこう)」を設立し、士族の子弟を教育します。西郷は学業や武道に集中すれば、政府への不満も徐々に薄らぐと考えたのです。

しかし政府は、西郷と私学校を危険視します。私学校では軍事調練を行っており、西郷は優れた軍人でもありました。西郷が士族を集めて教育していると聞けば、警戒したくなるのも無理はありません。

気になった大久保利通は、様子を探るため鹿児島に密偵(みってい)を送りこみます。同じ頃に政府が、鹿児島にある陸軍の火薬庫から武器弾薬を接収する事件が起こります。この火薬庫は、もともと薩摩藩のものでした。

政府の態度に怒った士族らは、反対に政府の弾薬庫を襲撃しました。そのときに捕らえられた密偵が、西郷の暗殺計画を口にしたため、西郷も覚悟を決めたとされています。

薩摩軍による熊本城攻撃

1877年2月15日、西郷率いる薩摩軍は、政府軍が駐留する「熊本城」に向け出発します。熊本城は、九州地方における明治政府最大の軍事拠点でした。

薩摩軍は、約1万4,000人の軍勢で城を囲み、攻撃を仕掛けます。守る政府軍は約4,000人と、3倍以上の兵力差がありました。しかし、どれほど攻めても城は落ちません。

熊本城は、戦国時代後期の築城の名手、加藤清正(かとうきよまさ)が築いた難攻不落の名城です。石垣には敵の侵入を阻む工夫が施され、井戸や保存食など兵糧(ひょうろう)攻めへの備えも万全でした。

薩摩軍が攻めあぐねている間に、政府の援軍が福岡に到着します。薩摩軍は城攻めを一度諦(あきら)め、福岡からやってくる援軍との戦いに臨むことになりました。

田原坂での攻防戦

「田原坂(たばるざか)」は、西南戦争最大の激戦地として知られています。福岡から熊本城へ向かういくつかのルートのうち、唯一大砲が通れる道にあったため、両軍ともに譲れない場所だったのです。

最新式の銃を装備する政府軍でしたが、土地勘がないうえに春の長雨が続き、苦戦を強いられます。地理的に優位に立った薩摩軍は抜刀隊による白兵戦(はくへいせん)で、政府軍を圧倒します。

しかし政府軍も負けてはいません。剣術の達人を集めて盛り返し、田原坂の突破に成功します。援軍を迎え入れた熊本城は息を吹き返し、薩摩軍は撤退を余儀なくされます。

田原坂古戦場「弾痕の残る家」(熊本市北区)。西南戦争最大の激戦地だが、現在は田原坂公園としてツツジや桜の名所となっている。「雨は降る降る人馬は濡れる、越すに越されぬ田原坂」の歌詞で知られる民謡はレコード化された。写真の家の隣には資料館がある。

西郷隆盛の自刃

その後も、薩摩軍は各地で政府軍と戦いますが、戦局は不利になる一方でした。鹿児島まで撤退した西郷は、住民を味方につけて城山(しろやま)を占拠します。しかし間もなく政府軍に包囲され、最後の5日間は洞窟(どうくつ)に立てこもる有り様でした。

9月24日の早朝、薩摩軍は政府軍に最後の攻撃を仕掛けます。善戦した薩摩軍でしたが、政府軍の銃弾を受け、死を覚悟した西郷が自刃すると、他の幹部らも次々に戦死を遂げ、7カ月に及ぶ戦争がようやく終わったのです。

西郷隆盛宿陣跡資料館(宮崎県延岡市)。西南戦争で西郷率いる薩軍の最後の宿陣となった屋敷が資料館になっている。追い詰められた西郷は「この陣にて薩軍解散」の命を出して、陸軍大将の軍服を前庭で焼いたという。遺品やゆかりの品々が展示されている。県史跡。

武士の時代に終わりを告げた西南戦争

元武士だった士族たちは、明治政府への不満を武力で表現しました。しかし西南戦争の敗北により、武力行使は無意味だと気付かされます。以降の反政府運動は、武力行使から「言論」による戦いへと変化します。

西南戦争は、長く続いた武士の時代を完全に終わらせたといってもよいでしょう。時代背景や当事者の気持ちを踏まえ、西南戦争の意味を考えてみると、新たな気付きがあるかもしれません。

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構成・文/HugKum編集部

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