仕事に子育てに、アクセルを踏み続けていました
ウェルネスブランド「SIMPLISSE /シンプリス」や、超吸収型サニタリーショーツ「Bé-A〈ベア〉」などのブランドを経営し、女性の健やかな毎日を追求する美容家・起業家の山本未奈子さん。私生活では、19歳の長女(海外に留学中)、12歳の長男、10歳の次女を育てるママです。
42歳の時に更年期と診断され、46歳で更年期うつを発症。その4年間には身体からの様々なサインがありました。気づかずにアクセルを踏み続けてしまったと話す山本さんが、今改めて思うことや、どのように回復をしていったのかをお聞きしました。
42歳で更年期と診断。その頃から眠りに異変が…
HugKum:はじめに更年期と気づいたきっかけは何でしょうか
山本さん:最初の異変は、生理不順でした。もともと周期ごとにきっちり来るタイプだったのが2週間遅れたので婦人科で検査をしてもらったところ更年期が始まっていると告げられて。「まだ42歳なのに!」と驚きましたが、医師によるとそこまで珍しいことではないそう。生理不順以外の症状がなかったので、治療や薬の処方はありませんでした。
でも、今思えばその頃を境に“眠り”に問題が起こっていました。私は寝つきが良く、夜眠れないなんてことはなかったんです。でも、夜中に何度も目が覚めたり、朝早くに目が覚めてしまったり。確実に眠りが浅くなっていましたね。
自分が自分ではないような毎日。身体は限界に
HugKum:深刻な症状が起き始めたのはいつ頃ですか?
山本さん:最初の症状が現れてから4年後の46歳頃です。その頃はホットフラッシュがひどく、女性ホルモンを補充するパッチや、ミレーナ(子宮の中に装着するタイプのホルモン治療)を試しているところでした。ホットフラッシュ以外にも、疲れやすかったり、物忘れがひどくなったり、人と会うのも気が進まなくなっていきました。それでも、「年齢のせいかも?」と、症状を無視して走り続けてしまったんです。
次第に、自分が自分ではないような感覚が強くなり、おかしなことが起き始めました。例えば、私は誰かと待ち合わせがあれば10分前には着いていたいタイプ。それなのに、洋服がうまく選べなくて遅刻してしまうんです。仕事のミーティングにも時間通りに参加できず、集中力も続かない。「長くブランドに関わってきたけれど、興味が薄れてきちゃったんだろうか…」と自分を責め、ふさぎ込むようになりました。
周りの人たちも、私がおかしいことに気づき始めていましたね。ひとりで空回りしては、なんでこんな風になっちゃったんだろうと涙が溢れて止まらなくなることも。そして、ある朝ベッドから起き上がれなくなりました。
敷居の高かった心の治療。背中を押してくれたのは娘でした
HugKum:大変でしたね…(涙)体調が悪いとき、お子さんのお世話はどうしていたのでしょうか。
山本さん:2ヶ月くらいはほとんど何もする気力が起きなかったので、母が毎日食事などのサポ―トに来てくれました。改めて、母の存在は偉大だなと思いましたね。ちょうど、海外留学中の長女が帰国している時期だったのも幸運でした。下の子ども達に「ママは更年期で寝ているけど、病気じゃないから大丈夫」と話してくれて。当時10歳だった息子も自分なりに理解したようで、友達が家に遊びに来たとき、「ママは更年期で寝ているけど気にしないで!」と話していました(笑)
心療内科に行くように勧めてくれたのも長女です。日本では精神科や心療内科にかかるハードルが高いように思います。私も「自分がうつになるハズがない。精神の薬を飲むなんて、私らしくない…」と思い込んでいました。しかし、長女の留学先であるアメリカでは、風邪を引いたら風邪薬を飲むように、心の調子が悪いときは抗うつ剤や抗不安薬を飲むのは自然なこと。クラスの友人や、その母親も飲んでいるよと教えてくれました。薬の服用を始めてから2ヶ月経つ頃にはだいぶ効いてきて、医師の指導のもと徐々に薬の量を減らしてサプリに切り替え。半年後には、仕事に復帰することができました。
もっと軽い症状のうちに病院を訪れていたら、ここまでひどくならなかったかもしれません。でも、振り返ってみるとあの休養期間は自分の身体と向き合う大事な期間だったと思っています。
後編では、更年期障害を乗り越えた山本さんが、今生活で大切にしていることをご紹介します!
撮影/田中麻以 取材・文/寒河江尚子