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『VIVANT』の“ドラム”の印象とは違う一面が出ても、受け入れていただきたい
富栄さんは、子どものころはどんなお子さんでしたか。
小学生の頃から「学校で1番おもしろい」っていわれたくて、モノマネをしたり、自分が好きなコントをビデオ録画して、ノートに文字起こしして覚えて披露したりしていました。担任の先生がすごくおもしろい人で、クラスで僕がお笑いをやる時間を設けてくれたんですよね。
小学1年生で初めて人を笑わせようと思った時は、藤井隆さんの『イエローハット』のCM(1999年)をモノマネしたし、友だちと『笑う犬の冒険』(1999年-2001年、フジテレビ系)の“はっぱ隊”を結成したり、“ホリケンサイズ”をやったり、はなわさんの『佐賀県』を歌ったり。中学1年生のときにはオリエンタルラジオさんの“武勇伝”をやっていたりもしました。
力士の時は、相撲部屋で毎年行われていた新年会で一発芸大会があって、10年ぐらい連続で優勝していました。相撲部屋では身内ネタをすることが多かったんですが、得意なモノマネは『サザエさん』(フジテレビ系)の“アナゴさん”です!
『VIVANT』の“ドラム”で、みなさんに「かわいい」といって頂いているのですが、素は結構明るいというか、「おもしろい」ことが大好きなので、これから“ドラム”と違う一面が出ても、快く受け入れていただけるとうれしいです!!
スポーツに自信あり、バク転は「小学6年生ときに3回目でできました!」
バク転される映像をよく見ますが、バク転は子どもの頃からできたのですか。スポーツは何かしていましたか。
バク転は小学6年生の時にできるようになりました。アメリカのプロレス団体“WWE”のプロレスラーになりたいという夢があったので、「もうこの歳でバク転ができないとまずいだろう」と思ってやってみたんです。頭の中でイメージトレーニングして、布団の上で挑戦してみたら3回目でできました!
スポーツは、小学生の時はバレーボールをやっていて神戸市で2位になりました。小学6年生の時に、僕がサーブしたボールが天井に当たって、天井の一部が落ちてきたことがあったんですよね(苦笑)。中学生の時は部活で柔道をやっていて、遊びでサッカーとバスケットボールをやっていました。あとドッジボールが強かったです。走りも速かったんですけど、運動会では練習で本気を出しすぎて、本番は筋肉痛でベストが出せなかった苦い思い出があります(笑)。
クラスではどんな存在でしたか。
小学生の時は、先ほどお話しした通り、おもしろいことばかりしていました。中学生の時は、2年の2学期まで学級委員で、2年の3学期から生徒会の副会長をやっていました。なぜか生徒会も“副”会長だし、部活も“副”キャプテンで、“副”ばっかりだったんですよ。リーダー的存在になりたかったけど、先生から「ちょっとふざけすぎるからキャプテンに任せられない」って言われちゃってました(苦笑)。でも、相撲部屋では宴会部長でした!
親も姉もいつも「大物になる」「できる」と褒めてくれた
勉強の方はいかがですか。得意科目も教えてください。
得意な科目は数学と英語でした。英語で学年2位を1回取ったことがあります。親からは一度も「勉強しろ」といわれなかったんですが、中学1年生の3学期ごろに将来を考えた時、「ちょっと勉強しないとやばいな」と思って自分から塾に行きたいといって塾に通い始めました。
塾に通う前は、自分で最低限勉強して一応平均の60点ぐらいは取っていたんですが、塾に行って予習復習するようになって全教科90点ぐらい取れるようになりました。予習復習ってこんなに大事なんだって思いましたね。
親御さんから「勉強しろといわれたことがない」ということですが、親御さんは子どもの頃の富栄さんにどういう寄り添い方をされていましたか。
まず怒られたことがありません。でもお母さんはちょっと心配性で、少しでも遠くに離れたら「龍太郎」って大きな声で名前を叫ぶから恥ずかしくって、授業参観も「絶対来ないで」ってお願いしていました。でもこっそり何回かは来ていましたけど…(苦笑)。
心配性なお母さんは、何かあると体調を崩すこともあったので、当時の僕は小学生・中学生なりに親に優しくしようと…と気遣っていた記憶があります。だから反抗期はなかったですね。とにかく身の危険に関わるようなこと、例えば「夜、外に行くな」とか「門限を絶対守れ」とか、そういう部分だけは厳しかったですが、進路的なことに関しては特に何もいわれなかったと思います。
あと僕には4つ上に姉がいたんですけど、姉が「龍太郎は大物になる」「できるできる」と、いつも励ましてくれていました。なにかできたら褒めてくれて、「もうそれ以上褒めないでいい」っていうくらい本心から(笑)。親も姉と同じくらい、何かと褒めてくれて「大物になる」っていってくれていました。
そうそう、小学3年生の時の武勇伝があります!芋掘りの時って、芋を好きなだけ持って帰れるじゃないですか。友だちはコンビニのビニール袋を2つ分とかだったんですけど、僕は旅行用のカバンに25kgぐらい入れて、サンタクロース状態で持って歩いて帰ってきたんです。当時の僕の体は通常サイズだったし、結構な距離だったのでしんどかったけど、その時「家族のためにここまでやるやつおらん」とすごく褒められました(笑)。
「自分が楽しいと感じること」「やりたいこと」をいっぱい見つけよう!
お話しを聞いていると、子どもの頃から自立心をお持ちのようですが、何かきっかけはあったのでしょうか。
やっぱり僕の家は裕福じゃなかったので、当時は欲しいものを買ってもらうことも食べたいものを食べられることもほとんどなかったんです。だったら「自分で手に入れよう」と思って、そのために何をしようか一生懸命考えていたのが大きいと思います。
「HugKum」は幼児・小学校のお子さんがいる親御さんが読んでくださっているWEBサイトです。富栄さんが今子どもたちに伝えたいことがありましたら、教えてください。
僕は小学生の頃には将来のことを考えていました。きっと僕と同じように考えている子もいるだろうし、そうじゃない子もいるでしょう。僕の経験からいうと、やりたいことをひとつに決めるよりは、いっぱいあった方が将来の可能性が広がっていくと思います。
「俺はこれしかないんだ」と思ってひとつのことだけを頑張るのは、視野が狭まってしまいます。頑張るのは大切だけど、やりたいことを増やして視野を広くしておけば、その分、夢が叶う確率も上がると思うんです。
僕は、最初の夢が“WWE”のプロレスラーでしたけど、中学校で柔道をやって「柔道もいいな」って思っていたし、相撲に出会って相撲界で頑張ったけどケガもあって現役を引退することになって、今芸能の道を進んでいます。僕はたくさんのことが好きでやりたいと思ったので、そのひとつがダメになっても、ちょっと路線を変えて進んでこれました。
きっとすぐにやりたいことを見つけられない子もいるでしょう。やりたいことがなかったら楽しいことを探してみる。楽しいことが見つからなければ、ちょっと息抜きに遊んでみる。そうしてみて、自分が楽しいと感じることや、やりたいことをたくさん見つけてみるといいと思います。本当に人生何が起こるかわからないけど、やりたいことを仕事にすれば楽しい人生になると思いますね。
こちらの記事では『VIVANT』のオーディションに受かったきっかけ、相撲界での経験を伺っています。
お話を伺ったのは
カメラマン/タナカヨシトモ 取材・文/綱島深雪